梅干の由来
梅の実の生菓子
「貞丈雑記」(ていじょうざっき・1843年刊・故実考証を編集)には「菓子は、むし菓子や干菓子のことではなくて、果物を菓子という」と書かれています。
また「和名抄」(わみょうしょう・938年完成)にも梅は木の実・果物に分類され、奈良時代の人々は、桃や梨、びわなどとともに梅を生菓子として食べていました。
「医心方」(いしんほう)のこと
日本最古の医学書「医心方」は、平安中期の医師、丹波康頼が984年に著したもので、六朝・隋・唐時代の中国や朝鮮の医薬書から引用した医学全般にわたって説かれた本です。この文献の中に「梅干」の効用がとりあげられています。
鎌倉時代の梅干
武家社会のもてなしは「椀飯」(おうばん)と呼ばれ、クラゲ、打ちアワビなどに、梅干や酢・塩が添えられたご馳走でした。
兵士の出陣や凱旋の時に縁起がいい食物として、また、禅宗の僧は茶菓子として、梅干を用いました。
「椀飯ぶるまい」は、ここから出来た言葉です。
戦国時代の梅干
江戸時代に著された「雑兵物語」には、戦に明け暮れる武士は、食料袋に「梅干丸」を常に携帯していたと書かれています。
梅干の果肉と米の粉、氷砂糖の粉末を練ったもので、激しい戦闘や長い行軍での息切れを調えたり、生水を飲んだときの殺菌用にとおおいに役立ちました。
また、梅干のスッパさを思い、口にたまるツバで喉の渇きを癒したそうです。
紀州の梅干
江戸庶民の梅干を食べる習慣が、全国に広がるにつれて梅干の需要はますます多くなりました。
特に、紀州の梅干は「田辺印」(たなべじるし)として評判を呼び、田辺・南部周辺の梅が樽詰されて田辺港から江戸に向けて盛んに出荷されました。
江戸時代の梅干
一部の人にしか食べられていなかった梅干も、江戸時代になると庶民の家庭にも登場するようになります。
江戸では大晦日や節分の夜、梅干に熱いお茶をそそいだ「福茶」を飲み、正月には黒豆と梅干のおせち「喰い積み」を祝儀ものとして食べました。
明治時代の伝染病
明治11年、和歌山でコレラが発生し、翌年にかけ1768人の死者が出ました。
この時、梅干の殺菌力が見直され需要が急増します。
また、日清戦争の頃、軍医の築田多吉が外地で伝染病にかかった兵士に梅肉エキスを与えて完治させ、梅干の薬効を実践しました。
※上記文章は、南部川村うめ振興館常設展示図録を参考及び引用させていただきました。
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