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◆河内(こうち)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「五日市」(昭和23.2)を使用したものである

所在:奥多摩町川野(かわの)・同河内
地形図:奥多摩湖/五日市
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約470m?(水面は約520m)
訪問:2023年3月

 

 現在の大字川野の東部および河内の北部飛び地。多摩(たま)川沿い。小河内(おごうち)ダムの建設により全戸転出し、現在はその人造湖(奥多摩湖)に水没。当地の本集落(河内平(こうちだいら))は旧小河内村の中心部であった。
 ここでは下流のぞうざす、峰谷川沿いのあづまい(あずまい)も含めた。なお小河内村成立(明治22年)の前は
川崎河内向いるまを含めいずれも旧河内村に属していたが、現在の大字では河内・川崎より上流は川野の領域となっているよう。
 町誌歴史編の絵地図によると、往時の家々は以下のとおり(概ね町誌民俗編掲載順)。( )内は屋号。「/」
の右側は、民俗編での表記(表記が同じもの、あるいは同一の世帯であるか確証がないものは省略)。

・河内…81戸(寺院含む。神田家は1戸で計上)
岡部・山本・清水(―/まんじゅうや)・岡部・河村(岩の上)・酒井(はんめいば)・河村(下手/したで)・河村(※1)・佐藤(みせ)・酒井(長屋)(※2)・原島・岡部・岡部・粟村・松森(ごはん)・河村(はけ)・清水(げたや)・岡部(将軍/しょうぐん)・河村(大はけ/おおはけ)・酒井・河村・粟村(はけ下)・粟村(―/はけ)・粟村(※1)・粟村・(※1)山本・吉野(みせ/新店)・河村(―/わで)・岡部・岡部(わで)・岡部(―/上木戸)・岡部(木戸)・河村(木戸川)・大野・河村(高下)・粟村・粟村・清水・根津・荒井・近藤(かごや)・市川(―/四十二(となり))・市倉(建具屋/めい(建具屋))・大久保・岡部・河北・土屋(四十二の上)・岡部・川口(とこや)・船木・大久保・金丸(あらい/あらい(神主))・古屋(※3)山下・樋口(朝日屋)・松島(―/新道)・清水(―/新道)・藤原(―新道)・岡部・岡部・大野(―/てんり)(※4)・小沢(たばこや)・荒井・河村(大のぼっと)・岡部(のぼっと/下のぼっと)・岡部(※1)岡部(大なち/おおなっち)・河北・岡部・河村・横田(石屋)・河村(宿/しゅく)・大久保(トーフヤ/とうふや)・神田(※5)・小沢(新家/にいえ)・酒井(上の山)・河村(きじや)・清水・河村(小泉屋)・富田・池谷

 地図画像の寺院は普門寺、学校は河内東尋常高等小学校、神社は金御岳神社。また小河内村役場が置かれた時期があったが、掲載の版の発行当時は麦山に記載がある。ほか不動尊が集落内に、役場および学校後方の山上に第六天様・こんぴら様・アタゴ様がある(前二者は現在の小河内神社の下方、アタゴ様は後方で、愛宕神社として現存)。

※1 民俗編には記載なし
※2 歴史編には姓の記載なし。民俗編より
※3 民俗編では「古家」
※4 天理教。資料『湖底の村の記憶』では「下のぼっと」
※5 1戸2世帯。民俗編の「柵花屋」「洋品店」か

・あづまい…5戸
金丸(とば)・粟村・金丸・岡部(麦蒔戸)・岡部(―/麦蒔戸)

・ぞうざす…1戸
田中(―/ぞうざす)


 現在、普門寺および小中学校は峰谷川沿いの雲風呂(くもぶろ)地区に移転。ただし
学校は平成16年に閉校。企業により管理され、多目的な活動の場として提供されている。
 町誌によると、普門寺は臨済宗の寺院で山号は金鳳山。開山は貞和年間(1345-50)と伝わるとのこと。小河内ダム建設に伴い移転し、本堂・庫裏は新築したが、寛政2(1790)年に建立したという楼門はそのまま移築。町指定有形文化財となっている(写真6)。
 
学校の沿革は以下のとおり。

(小学校)
 明治6  普門寺に末広学舎開設(河内村・原村共立)
 明治10  小河内学校と改称
 明治25.8  麦山の明道学校と併合。小河内尋常小学校の河内分教場となる
 明治33.12  小河内東尋常小学校となる
 昭和3  小河内東尋常高等小学校となる
 昭和15.4  小河内尋常高等小学校と改称。川野に分教場設置
 昭和16.4  小河内国民学校となる
 昭和22.4  小河内小学校となる

 昭和32

 川野・明治の両分校を廃止(7月)
 ダム建設に伴い新校舎に移転(8月)、開校式(10月)
 平成16.3(※)  閉校

(中学校)
 昭和22.5.5  小河内中学校開校。普門寺および小河内小学校に仮設
 昭和25.4  校舎竣工移転
 昭和32  ダム建設に伴い新校舎に移転(8月)、開校式(10月)
 平成16.3(※)  閉校

※ 校地の沿革略年表より

 また以下は小学校跡の碑の沿革略年表より(■は当方による伏字)。


 沿革略年表

 明治六年、普門寺に末広学舎を、麦山傘堂に明道学舎を開校。
 明治二十五年、小河内尋常小学校を麦山慶徳庵に設け、四つの分教場を置く。
 爾来百十一年、小河内尋常高等小学校、国民学校、小河内小学校と名称変更、幾多の変遷を経て今日に至る。
 本校は、子弟の学び舎として、また出征兵士の送迎、郷土芸能や体育祭、小河内貯水池問題の舞台として、村民の喜怒哀楽の歴史を深く刻み、村人の心の支えとなり、小河内発展のための偉大な存在として、慈母の如く愛おしみ親しまれた。
 昭和三十二年、ダム竣工に伴い、この地に移転。
 四千数百有余名の卒業生、幾多の人材を輩出し、心の故郷となった本校、ここに閉じる。

 平成十六年三月三十一日
  奥多摩町立小河内小学校 第十八代校長 ■■■


 河内平の西側に当たる山の上には、小河内神社が祀られている。町誌によると、この神社は小河内ダム建設に伴い移転した小河内地区の9社11祭神―温泉神社(湯場)・金御岳神社(河内)・箭弓神社(川野)・貴船神社(留浦(とずら))・愛宕神社(麦山)・熊野神社(青木)・御霊神社()・加茂神社(日指)・御岳神社(留浦)―を勧請して創建した、小河内地区の鎮守神であるとのこと。また貯水池の守り神にもなっている。
 国道沿いでは、かつてのあづまいの北東谷沿いには建設会社が、北西谷沿いには坂本園地バス停と管理家屋がある(写真13)。またぞうざすの北斜面にあずまいバス停と管理家屋がある(写真15)。いずれの管理地も来歴は未確認。

 

≪河内≫


(写真1 ダム堰堤)

写真2 集落跡方面を望む

(写真3 現在の普門寺。正門)

(写真4 石段脇の石造物群。中央は移築記念碑。他は水没地から移設したものか)

(写真5 同)

(写真6 石段と楼門)

(写真7 楼門脇の石造物群)

(写真8 本堂。右隣は庫裏)

(写真9 現在の小河内小学校旧校舎)

(写真10 同中学校旧校舎)

写真11 小河内神社
≪あづまい(あずまい)≫

写真12 あづまい(手前)・
河内向(奥)を望む

写真13 国道沿いの管理家屋。左下は坂本園地バス停

写真14 斜面にある何かの跡

(写真15 ぞうざすの北斜面、国道沿いの管理家屋。あずまいバス停とあづまいトンネルが見える)
≪ぞうざす≫


写真16 写真15付近よりぞうざす・
川崎方面を望む

 

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