◆川野(かわの)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「五日市」(昭和23.2)および同地形図「丹波」(昭和27.8?)を使用したものである
所在:奥多摩町川野 地形図:奥多摩湖/五日市 形態:川沿いに家屋が集まる 離村の背景:ダム建設 標高:約490〜500m?(水面は約520m) 訪問:2023年3月
現在の大字川野の西部、多摩(たま)川沿いにある。小河内(おごうち)ダムの建設により全戸転出し、現在はその人造湖(奥多摩湖)に水没。
ここでは小菅川合流部付近の箭弓(やきゅう)も含め、対岸の青木は別にレポートを設けた。
町誌歴史編の絵地図によると、往時の家々は以下のとおり(概ね町誌民俗編掲載順)。( )内は屋号。「/」の右側は、民俗編での表記(表記が同じもの、あるいは同一の世帯であるか確証がないものは省略)。
・川野…42戸(教員住宅含む)
教員住宅・竹間・河村(みよしや)・古屋(えびすや旅館)・島崎(氷川屋)・古屋(いど)・清水(まんじゅうや)・河村・原島・古屋(※1)・松原(とうふや)(※2)・吉野(吉広や/はしつべ(吉広屋))・杉田(大屋/大家(名主))・船木・山口・河村(したてや)・小俣(馬力)・坂村(三登や)・岡部(大木や)・杉田(さあ)・関根・古屋(中屋)・古屋(※3)・河村(―/はしつべ)・浜中(梅屋)・島崎(―/氷川屋)・酒井(奥州屋旅館)・酒井(※3)・河村(―/河村屋)・河村・本沢・本沢(―/とうふや)・吉野(―/吉野屋)・杉田・杉田・古屋(立や)・古屋(―/たたみや)・杉田(道下)・島崎(―/しかまつ)・船木(―/こんにゃくや)・岡部・古屋(―/大西)・青木
※1 絵地図では名字の記載漏れとなっているが、資料『湖底の村の記憶』の絵地図には古屋とあり、民俗編でもこの家とみられる古屋家がある
※2 絵地図では松平となっているが、民俗編および資料『湖底の村の記憶』では松原となっており、これに従った
※3 民俗編には記載なし
※4 このほか「はしつべ元の家 利一」があるが、空家と見做しここでは除外した
ほか小河内西尋常小学校(※5)・寺院・4箇所の神社があり、神社のうち名称が記されてるものは川上神社・若宮・山の神。
寺院は名称の記載はないものの、現在の川野に移転している浄光(じょうこう)院と思われる。当寺院は山号金剛山、宗派は臨済宗。文安2年開基で、不動明王を本尊とする。
※5 ただし時系列では小河内小学校川野分校の時期に当たる(後述)
・箭弓…3戸
川村(―/やきゅう)・杉田(―/うえっきゃあら)・杉田(―/したっきゃあら)
ほか箭弓神社がある。川野本村とは多摩川を挟んで箭弓橋で接続している。
以下は町誌より学校の沿革。なお麦山から川野に移転した時期は不明。なお歴史編の図表「小学校一覧」(大正元年)によると、西尋常小学校の所在地は留浦(とずら)となっている。
明治6 |
麦山に明道学舎開設(川野村・留浦村共立) |
明治10 |
明道学校と改称 |
明治25.8 |
河内の小河内学校と併合。小河内学校となり、麦山慶徳庵に設けられる。留浦・河内・原・峰に分教場設置 |
明治33.12 |
小河内西尋常小学校と改称 |
明治35.9 |
校舎新築 |
大正4.4 |
小河内西尋常高等小学校となる |
昭和3.9 |
校舎新築 |
昭和15.4 |
小河内西尋常高等小学校廃止。川野に小河内尋常小学校の分教場設置 |
昭和21 |
川野分教場校舎新築 |
昭和32.7 |
川野分校閉校 |
水没地の北側、現在の川野トンネルの周囲に川野地区が設けられ、数戸が現住。食事処や宿泊施設も見られる。トンネル外周の湖岸沿いには川野生活館や浄光院があり、その前の石造物群は水没地から移設されたものと思われる。東部は同じく水没した大津久の上部に当たり、大津久バス停が置かれている。
また深山(みやま)橋の北詰は旧集落の上流端に当たり、国道沿いに旅館が1軒。南詰は箭弓付近で、国道沿いに食事処が3軒並ぶ。うち1軒は往時の地名もしくは屋号を窺わせるが、関連は不明。なお湖面において痕跡は皆無であった。
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