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◇成田空港補足

 

 現在の成田国際空港の敷地には、戦後の開拓集落や旧来の集落など多数の人家や施設が存在していた。
 以下は市史・『千葉県』・『成田空港50年史』より空港敷地内における主な出来事をまとめたもの。

江戸時代、下総の台地には「牧」と呼ばれる幕府直轄の馬の放牧場があり、成田市域の周辺には、小間子(おまご)牧・柳沢(やなぎさわ)牧・高野(こうや)牧・内野(うちの)牧・取香(とっこう)牧・矢作(やはぎ)牧・油田(あぶらだ)牧があり「佐倉七牧」と呼ばれていた。このうち現在の成田空港敷地内には取香牧と矢作牧の一部が含まれていた。取香牧に当たるものは木の根三里塚天浪十余三東三里塚。矢作牧に当たるものは天神峰東峰古込
明治維新の後、牧は政府の直轄となる。政府は東京府の窮民に対する事業として牧の開墾を始めた。このため馬はすべて取香牧に集められ、他の6牧は開墾地となった
のち取香牧に下総羊牧場と取香種畜場が開設。明治13年、両者が合併し下総種畜場となった(後の宮内省下総御料牧場)
昭和20年、緊急開拓事業実施要項が閣議決定。御料牧場も一部が解放され、開拓事業の実施地区となった。御料牧場職員・復員軍人・海外引揚者・戦災者・疎開者・地元出身者・沖縄県出身者が入植。開墾は同年11月頃から始まったが、翌年に入ると全国戦災者同盟を中心に続々と入植が行われた
昭和23年から26年にかけて、14開拓農協が設立された(三里塚第一・古込・朝日台・木の根第一・木の根第二・桜台・松翁・天浪第一・天浪第三・恵美・駒の頭・下総)
開拓当初は甘藷・陸稲・麦類が主体。のち家畜を導入(鶏・豚・緬羊・乳牛)。食糧事情の安定化に伴い甘藷は落花生に転換され、蔬菜・里芋・養蚕等が取り入れられ、各自の営農類型も定まり営農は向上・安定した
昭和41年7月、国際空港が御料牧場・開拓地・旧来の集落にわたって建設されることが閣議決定される。開拓農協は事業休止、自然解散の状態となった(昭和46年4月開港予定)
同月に住民による反対同盟結成され、運輸省・県・自治体などに対して陳情や抗議などが連日にわたって行われるようになる。間もなく反対運動は過激化
昭和43年、条件派4団体が「用地売渡しに関する覚書」に調印し、民有地約9割の取得の見通しが立つ。しかし反対運動もますます高まり、反対同盟側の用地買収は遅れることとなった
昭和46年2月、第一次代執行実施。同年9月第二次代執行実施。これにより第1期工事地区の用地取得は終了
代執行による用地の取得を待ったことや燃料輸送のパイプラインも未着手となっていたことがあり、開港予定は昭和47年3月に延期。しかしこれも目途が立たなくなる
昭和52年11月、空港公団は開港を昭和53年3月30日として運輸大臣に届け出。しかし昭和53年3月26日、過激派により管制塔が襲撃され、開港は昭和53年5月20日に延期された
昭和61年11月、第2期工事開始
平成4年12月、第2旅客ターミナルビル供用開始
平成12年、暫定平行滑走路(B滑走路)の工事開始。東峰の居住区を避け、北西側にずらした形となる。同13年10月完成
平成27年、県・国・地元自治体・成田国際空港株式会社の四社協議会において、第3滑走路の新設・B滑走路の延伸等が提案される

 なお『成田空港50年史』の刊行の時点(平成29年)で、空港敷地内には敷地内居住者所有地が1.7ha(2戸)、敷地外居住者所有地が0.6ha、一般共有地が0.5ha、一坪共有地が0.1ha、未買収地として残っている。

 

 

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