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《ミナカタ通信14号 (1999. 3.20) より》

新しい全集の表記その他について

飯倉照平     

ウェブサイトでの公開に際してのお断り (2002. 8.31; 2003. 2. 7):本記事は、1998年から1999年にかけて、当研究会の将来的な目標である新しい熊楠全集(このことについては「当研究会について」のページをご参照下さい)の可能性について研究会会員間で自由に議論した際、平凡社版『南方熊楠全集』の校訂を担当した飯倉照平氏に話題提供を依頼したものです。現時点での、営利あるいは非営利の具体的な編集・出版計画を前提としたものではありません。なお、同様に話題提供をお願いした中瀬喜陽氏の「熊楠資料の表記について」も公開されています。(ウェブページ管理者)

 (9.11 追記) 本文章では漢字の字体(新旧漢字、及び正体略体などの異字体)の問題への言及があります。新旧字体間の違いが一点一画のみの文字の場合(「者」、「徳」など)の多くは、新字体と区別された旧字体が(普及しているコンピュータの多くでは)用意されていません。また、書き換え(の可能性)の例として挙げられた文字の一部は、ご利用の表示環境によっては、筆者の想定しない字体で表示されることがあるかもしれません(特殊なフォントをご使用の場合など)。その意図するところをお汲みとりいただければ幸いです。(ウェブページ管理者)

はじめに

 平凡社版全集の校訂については、すでに本通信12号の「平凡社版全集から新しい全集へ」(編注:別掲) でもふれました。その後、昨年12月14日に立教大の小峯研究室での研究会の会合でも、わたしの作った「十二支考」の一部分についての雑誌『太陽』と乾元社版と平凡社版の比較例を出して、その書面の変化がかなり大きいことを見てもらいました。(編注:別掲の附録「書き換え資料」を参照)

 以下、その問題点と、選択の可能性について、列挙してみたいと思います。

(1) 新漢字と旧漢字の扱いについて――全面的な旧漢字か、新漢字中心か

 乾元社版全集は全面的に旧漢字を使用しており、平凡社版全集は新漢字のあるものはこれを使用し、それ以外は旧漢字を使用しています。この新漢字は、一九四六年の当用漢字表、一九五四年の同補正案、一九五一年の人名用漢字別表をさしていました。(現在では、一九八一年の常用漢字表と人名用漢字別表が、これに替わって通用しています。)

 かつての活字全盛時代には、印刷所の植字作業では、旧漢字と新漢字は活字を並べる棚が区別されていました。つまり個々の漢字の選択ではなく、一つの体系としての旧漢字があるわけです。字体の差異が大きい場合だけでなく、点や棒の縦横のちがいなどが広範囲にあって、新旧の二つの体系があったのです。

 これに各印刷所で採用している活字の母型の製作者によるちがいまでからみ、さらに類推による中間的な略字体が加わります。これは辞書などの巻末に注記されているもので、現在ではワープロなどにも使われています。平凡社版全集では、類推による略体は原則としては使いませんでした。(例・屡、蝿、縄、葛、辻など)

 中国関係の学会では、いまでも全面的に旧漢字の活版で刊行物を出している例もあるそうで(わたしは会員ではないので伝聞ですが)、これは早稲田あたりに旧漢字の活字をそろえている印刷所があって、はじめて可能になっているということです。また旧漢字を使用する比率が高い活版の場合には、経費削減の意味もあって、以前には台湾や韓国の印刷所に発注していた例もあるようです。

 現在のパソコンによる製版では、このへんの事情がどうなっているかについて、わたしはまったく知識がありません。もしも活字の母型に相当するもので旧字体で作られているものがあれば、経費的にも技術的にも活版の時代よりも採用は容易でしょう。

 しかし問題は、これから作る全集に、そのような旧漢字を体系的に採用する意味があるのか、ということでしょう。

 実は今回刊行された『熊楠研究』第1号では、原田氏の文章に引用した新聞記事などで、新漢字の略体のあるものについても旧漢字や異体字を部分的に使っています。わたしから見ると、全体を旧漢字に改めるのであれば、直すべき個所はまだかなりあります。しかし、漢字をめぐる論議の材料にするつもりで、原田氏がパソコンで打ちだしたものをそのまま生かす方向でやってみたわけです。       

 わたしは上にのべた見地から、旧漢字の部分的な使用には反対です。使うなら全面的に使うか、それがだめなら新漢字中心にすべきだと考えています。同誌掲載のわたしの翻字した二つの資料では、後者の方針を採用しています。

 もっとも旧漢字の限定された部分使用は、わたしもやらないわけではありません。他人の文章を整理するさいには、竜を龍にするとか、燈を灯に変えないとか、漢文の読み下し文では予と豫は区別して使うとか、適当に妥協しています。現に新漢字中心の方針で整理した『南方熊楠記念館蔵品目録』では、本来ならば『課余随筆』とすべきところを『課餘随筆』としましたが、いまではやはり軽率であったかなと反省しています。

 これよりも書面に大きな影響があるのは、異体字(正字、俗字、同字)の問題です。戦後の漢字改革が進むまでは、かなり多様な異体字が雑誌や新聞で使われていました。

 そのうち、平凡社版全集で「現在常用されないもの」として通用のものに改めたのは、つぎのような漢字でした。これについては、今後検討の必要があるかもしれません。

  卻・郤→却、羣→群、劔→剣、耻→恥、效→効など数十例(当用漢字等にあるもの)

  菴→庵、熈→煕、讎→讐、咒→呪、甞→嘗など数十例(当用漢字等にないもの)

 一方、手を加えずに混用のままにしたのはつぎのような漢字でした。

  婿・壻・聟、注・註、没・歿、欲・慾など十数例(当用漢字等にあるもの)

  淫・婬、欝・鬱、覇・霸、懼・惧、屍・尸など二十数例(当用漢字等にないもの)

 いわゆる「書きかえ」にあたる用語の改定は一般にはしませんでしたが、附・聯は原則として付・連に改めるとか、欧州・濠州・満州は(熊楠が手紙などではつけていないこともあって)サンズイをつけないが仏教用語の洲などは残すとか、記行・紀行は熊楠の作文等をのぞいて、後者に改めるなどの手は加えています。

 また、同音の文字などを当て字として使用している熊楠独特の用語は、なるべくそのまま残すことにしました。(例、愛憎←愛想、居多←許多、記臆←記憶等)

(2)「かなづかい」について――「旧かな」か「新かな」か

 乾元社版全集は旧かなのままでしたが、平凡社版全集は新かなに改めています。

 全面的に旧漢字を使うのなら、旧かなという選択もありうると思います。だが、新漢字中心なら、やはり新かなに改める方針をとるべきでしょう。ただ、「ちふ(ちゅう)→という」「てふ(ちょう)→という」などの加筆は工夫の必要があります。また和歌・俳句や古文などの引用は、新かなに改めた場合でも、旧かなを残すことになるでしょう。

(3)「送りがな」について――原文のままか、手を加えるか

 平凡社版全集は、当時としてはもっとも多く「送りがな」をつける方式を適用しています。その後、一九七三年に告示された「送り仮名の付け方」では、それよりも送り方を少し減らす方式が採用されているようです。送りがなをいじるとすれば、現在ではやはり後者の方式が基準となるでしょう。

 しかし、送りがなをつけるかどうかは、次項の「かな書き」の問題とあわせて、再検討する必要があるように思います。

 この文章を書く直前に、『図書』一九九九年三月号にのっている井田進也氏の「西鶴とは誰のことか」を読みました。そこには、文章の「筆癖」(すなわち「漢字とかなの組み合わせ」による表記の習慣)から、執筆者を判定することが可能であるということが書かれています。同氏の関係した『中江兆民全集』では、その方式で無署名論説の執筆者を検討したというのです。

 そういえば、熊楠のあの独自のリズムをもつ文章は、その「筆癖」と切り離しがたい関係があります。平凡社版では、その大半が損なわれているといわざるをえません。

 それから、送りがなをつけることで本来の読ませ方がゆがめられる可能性もあります。唐代の中国にシンデレラ型の昔話があったことを紹介する熊楠の論文の原題は、「西暦九世紀の支那書に載たるシンダレラ物語」でした。平凡社版では、これを「載せたる」と読ませたのですが、のちに発表1年後の高木敏雄あて第6書簡に熊楠自身が「載りたる」と書いている(乾元社版、参照)のを見て愕然とし、やむなくこちらを逆に「載せたる」と訂正してしまいました(これでは他人の改竄を笑えません)。

 こういうことがあるからこそ、送りがなで正確な読ませ方をする必要があるという考え方もあるでしょう。送りがなをいじらない方式をとる場合は、ルビをたくさん使って処理する方法もあります。

(4)接続詞などの「かな書き」は、必要か、原文のままか 

 平凡社版全集では、わたしの手元に残された一覧表によると、約300語に近い接続詞、助詞、副詞などを、漢字からひらがなに改めています。ひらがなにすると分かりにくいと思われるものは、漢字をそのままにしてルビをふったりすることにした場合もあり、こちらもほぼ同数で、一覧表にしてあります。

 作業としてもかなりたいへんですが、手を入れた書面から受ける印象は、これだけでも大きな違いがあります。(最近は、文学作品の文庫本でも、この方式で読みやすくするのが一般的となってしまいましたが。)

 この「かな書き」は、思いきってやめ、ルビを多用する方式で、前項の「送りがな」とあわせて検討してみる必要があります。

 あらためて項目としては立てませんが、このほか句点、読点、改行に手を加え、書名のカギなどを整理することも、表記をととのえることには大きく影響しています。これは、文章をあまり改変しない方針をとる場合でも、ある程度は認めざるをえないでしょう。

(5)漢文の「読みくだし」について

 平凡社版全集では、もともと漢文のままで引用されていたのを、400字詰原稿用紙で2千枚ほどの読みくだし文に改めています。これは出典にあたって照合する仕事(うち2〜3割は出典をさがせなかったと記憶しています)と、それを読みくだし文に改めて、当時は京大にいて仏典などにくわしかった入矢義高氏(昨年、亡くなられました)に校閲していただきました。

 読みくだし文は、日本人の工夫した中国古典の解読方式です。なによりも文語であるため、それ自身すでに解釈の必要な場合も多く、翻訳としても中途半端で、かならずしも正確とはいえません。しかも、人によってさまざまな読み方が可能なので、著者の文章と区別できない形で挿入するのは問題です。平凡社版では、ふつうのカギに対し、小さめのカギで一応区別できるようにはしましたが、校正の経験者でもないと、この識別はむつかしいでしょう。

 熊楠自身が、個性的な漢文の読み方をしていた人なのに、そのなかに大量の曖昧な読みくだし文が入りこむことは、熊楠がそう解釈していたと思いこませる弊害と、文章の味気なさとが加わって、二重のマイナスとしか思えません。 短い引用はカッコ内に注記するとしても、長い引用は文末に、別人の訳であることを明記して、口語訳による翻訳をのせるか、あるいはそれらも一切やめるか、どちらかの処理が適当ではないか、とわたしは考えます。

 以上のように、平凡社版全集は、現代風の表記に改める点では、「リライト」したともいえる程度に、それなりに徹底していたと思います。それは別に原文に近い乾元社版全集があるという前提のもとに始められた仕事でした。当初から既刊本に未収録の文章がたくさん入ることが分かっていれば、別の対応がなされたのではないかと推測します。

 これから作る全集の場合、田辺に行けば原文のコピーが入手できる態勢がとれることになるとすれば、やはり加筆して読みやすくしたものを出すという判断もありうるでしょう。しかし、一方では初めて読者の前に現れる文章が多くなるとすれば、なるべく原形を損なわない形で、刊行物として提供することも編者の義務ではないかという気がします。

(1999・3・3)  

書き換え資料(飯倉)

[別掲] <f>

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