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《ミナカタ通信12号 (1998. 5. 8) より》

平凡社版全集から新しい全集へ−校訂者としての立場から−

飯倉照平     

ウェブサイトでの公開に際してのお断り (2002. 8.31; 2003. 2.8):本記事は、1998年から1999年にかけて、当研究会の将来的な目標である新しい熊楠全集(このことについては「当研究会について」のページをご参照下さい)の可能性について研究会会員間で自由に議論した折りに、平凡社版『南方熊楠全集』の校訂を担当した飯倉照平氏に話題提供を依頼したものです。現時点での、営利あるいは非営利の具体的な編集・出版計画を前提としたものではありません。また、この後に同様に話題提供をお願いした、飯倉氏の「新しい全集の表記その他について」と、中瀬喜陽氏の「熊楠資料の表記について」も公開されています(ウェブページ管理者)

【平凡社版全集と私】

 平凡社版の『南方熊楠全集』全12冊が刊行されたのは、1971年 2月から1975年 8月にかけてで、それからすでに二十数年がたちました。刊行のさいの事情は、当時、最終回配本の別巻2の月報にも書きましたが、月報のついていない版を買われた方も多いと思うので、重複もふくめて、その経過をたどってみることにします。

 これに先だって、1951〜52年に乾元社版全集全12冊が出ていて、それをもとにして表記を現代風に改めた一冊本選集の益田勝実編『南方熊楠随筆集』が1968年に筑摩叢書から出て好評でした。この本は1994年に改めて「ちくま学芸文庫」に入れられました。しかし、たとえば「履歴書」についてみても、乾元社版全集で削除改訂された部分がそのままになっており、復元された平凡社版全集とはかなりちがっています。(岡本清造氏の『岳父・南方熊楠』編集のさい目にした書簡で、当時の筑摩書房では選集あるいは全集の計画が検討されていたことを知りました。その結果、この一冊本選集が刊行されたのでしょう。) 平凡社では、この『南方熊楠随筆集』にならって、最初は乾元社版全集全体を現代風の表記に改めて刊行することを考えていたようです。そこで社内でまず「十二支考」の手入れをしてみたものの、引用などに疑問や誤植らしいものがあまりにも多いため、外部に依頼しようということになったと考えられます。

 平凡社の故池田敏雄さんが、当時、竹内好主宰の雑誌『中国』編集部にいた私をたずねてきたのは、1969年4月でした。池田さんは戦争中の台湾で『民俗台湾』という立派な雑誌の編集をしていた人で、私は中国語の本を借りたことがあって顔見知りでした。それまで私が、中央公論事業出版や岩波書店で校正の仕事をしていたこと、また中国関係が専門であったことから、池田さんは、乾元社版全集の表記を改めて読みやすくしたいこと、引用の誤りを訂正し、漢文を読み下し文に改めたいことなどを依頼してきたのでした。

 

【仕事の進め方について】

 雑誌の仕事のあいまをぬってやることにして、毎月 5万円ずつもらいながら、私はまったく全集には着手できませんでした。そこで 1年後の70年3月から、雑誌の方をやめて全面的に全集にとりかかることにしました。それから 4年後の74年1月まで、ほぼ4年間にわたって、自宅での昼夜兼行の校訂作業がつづきました。

 平凡社の方では、当初手がけていた石井雅男さんが林澄子さんに変わり、そこへ長谷川興蔵さんが入って責任者となり、乾元社版全集とはちがった規模の本格的な全集をめざすことになりました。のちに鈴木晋一さんも加わり、あわせて3人という態勢は、当時の平凡社としては、かなり思い切った処置であったと思います。

 私は編集部の揃えてきた資料をもとに、まず表記に手を加える作業をやり、調べる必要のある引用は図書館へ行ってあたりました。最初は勝手のわかる都立大の図書館の書庫を使わせてもらいました。そのうちに改築工事が始まってしまい、『大正大蔵経』は中文研究室に借り出して置いてもらい、また国文研究室も利用させてもらいました。それでもだめな場合は、やむをえず国会図書館を使うことが多くなりました。

 校正は、原稿との初校引き合わせから再校の赤字合わせまで、基本的には平凡社側でおこないました。しかし私も、三校あたりで校了になるまで、その都度見ていました。

 今も保存してある当時の作業日程表によりますと、いちばん面倒であった第 1巻の「十二支考」は 126日(うち99日が自宅と図書館、校正が21日、出社が 6日)かかり、ほかの巻の平均は60日(うち30日が自宅、15日が図書館、校正が10日、出社が 5日)というところでした。最初と終りでちがいはありますが、平凡社からもらった報酬は 1冊50万円前後で、 1冊あたり 3か月かかっていますので、毎月10〜20万円の収入で、小学生 2人をふくむ一家4人が生活していました。

 ぐちを言うわけではありませんが、ていねいにやればやるほど苦しくなるので、たえず追い立てられるような気持で仕事をしていたことは確かです。一日中坐ったままの作業で、十二指腸潰瘍が何度も再発して、下血が止まらない時でも、仕事をやめろと言われるのをおそれて医者には行きませんでした。

【表記を改めることについて】

 平凡社版全集は、新聞や教科書のやり方ほどではないにしても、旧仮名づかいを新仮名づかいに改め、文字は原則として当用漢字(いまは常用漢字という)を使い、送り仮名はたくさん送る方式をとり、かなりの漢字を仮名書きに改め、改行や句読点を加減してあります。

 乾元社版全集と比べてみれば、その違いは歴然としています。読みやすくはなっていますが、独特な味わいのある熊楠の文章が損われていることは明らかです。全集が終わった段階で、校訂者あての私信で強硬な抗議をしてきた人もいましたが、この表記改変は別に私が主張したわけではなくて、平凡社の方針でした。しかし、最初から乾元社版全集のおよそ 2倍の文章を収める本格的な全集を作ることが決まっていれば、平凡社もちがった方針をとっていたかもしれません。

 もっとも、これから作る全集の場合、もとのままの文章は田辺の顕彰会か研究所に行けば簡単に見られるということになれば、もっと中間的な改変案を決めることも可能でしょう。日記や書簡集などで別の方々が採用している方式も参照して、新しい書きかえ方を考える必要があります。私としては、仮名づかい以外の表記はそのままにして妹尾河童『少年H』式の総ルビをつける可能性を夢想しますが、熊楠の文章の読み方をすべて決めることは、これまた校訂以上の難事業で、実現はむつかしいことでしょう。

【原稿と引用について】

 新しく活字化した書簡などをのぞきますと、熊楠自筆の原稿の残っているものは少なく、比較的に誤植の多い雑誌か、ほかの方の浄書されたものを原稿としなければならない場合が多かったため、いろいろな問題がありました。

 熊楠の仕事を引き受けることになった時、私は益田勝実さんをたずねて意見をききたいと思い、まず電話をしました。当時、『民俗の思想』(1964年、筑摩書房)の解説などで熊楠を正当に評価していた唯一の人が益田さんだったからです。益田さんは、たずねてこられても困ると言いながら、つぎのような趣旨の意見をきかせてくれました。

 熊楠の文章には手を入れない方がいい、あの文章を読める人が熊楠を読んで理解すればいいので、読みやすくすればいいというものではない。また、その引用などを正確に校訂するためには、田辺の書庫にある本を全部運んでもらってやるくらいの気構えが必要だ、と力説されました。これは私の引き受けた仕事のやり方に対する全面的な批判でした。

 益田さんの力説されたような校訂を可能とする作業が、かなり進んだ現在からすると、まったくお話にならないほど貧弱な状況で、私の作業は進められていたのです。おなじ本の引用をあたる場合でも、熊楠の使ったテキストでないものと照合すれば、たとえ異同があっても直すか直さないか迷わざるをえません。

 かなりたくさんある漢訳仏典の引用についても、結局手近かにある『大正大蔵経』しか使えず、しかも検索できないものも多かったのです。これも、法輪寺の『黄蘗版大蔵経』か、それからの熊楠の抜書を見れば、かなりカバーできるはずです。それに大蔵経の索引も、最近はたくさん出ているようですから、さがしやすくなっているでしょう。

【漢文の読み下し文について】

 私が平凡社から依頼された仕事の一つに、漢訳仏典をふくむ漢文そのままの引用を、原文と照合した上で読み下し文にしてほしいという件がありました。当時のメモによりますと、私の書き改めた読み下し文は全巻あわせて四百字詰で 2千枚ほどありました。この読み下し文は、すべて当時京都大にいた入矢義高さんが校閲して赤字を入れてくれました。

 読み下し文に改めた個所は、平凡社版全集の本文では、ふつうのカギに対して小さめのカギで区別していますが、素人目には区別がつきません。しかし、これも熊楠調の文章とは似て非なるものです。読み下し文は、漢文を日本式に読む便法として考案されたものですが、ある種の翻訳であると同時に、意味が分からなくても日本語にできるゴマカシの技術でもあるのです。それに読み下し文にも、京都調、某々氏調など、それぞれのくせがあります。別の個所では熊楠調のおもしろい日本文になっているのに、ある個所では漢文のまま引用されていて、口調のちがった読み下し文にしかできないこともありました。

 私の改善案は、漢文はそのまま残し、現代語による翻訳を注釈のようにつけるか、短文の場合はカッコ内に入れるかするということです。これも書きかえの方式と同様、関係者の論議の対象としてほしいと思います。

【おわりに】

 以上、私の書いたことは、これから出す全集の規模や新しく加わる部分とは別に、平凡社版全集に収められた諸論考にも、まだ現在の共同調査の成果を生かして、手を加えるべき点が多いし、その反省の上にたって新しい校訂の方針を決めてほしいということです。平凡社版全集では、最終回配本の月報にのせた訂正一覧でも分かりますように、どの巻も校了時の校正刷には未解決の付箋がたくさんついたままでした。その後始末を少しでもしたいというのが、松居さんに声をかけられて、この資料調査に加わった私の大きな動機でもありました。もう私には校訂の当事者になる気力も時間もありませんが、せめて新人への引き継ぎだけはしなければと考えています。

 おわりに、最近の出来事を二つ紹介しておきます。

 去年の夏、ロンドンの川島昭夫さんからハガキがまいこみ、その片隅に『柳田国男南方熊楠往復書簡集』上・224頁の「磯の石」は「礎の石」ではないか、というメモがありました。調べてみると、単行本もライブラリー版も「磯」でしたが、全集では「礎」となっていました。単行本にするさいの誤植が、そのまま残っていたものでした。

 この往復書簡集は私が全集の仕事をおえてから、教師になって最初の夏休みをつぶして配列を考えてコメントを書き、それに長谷川さんが注記をおぎなってくれたものでした。校正については平凡社に任せっぱなしで、あまりていねいに見てはいませんでした。ライブラリー版に改版するさいに校正の人がよく見てくれて、あれこれ尋ねてきたので、乾元社版全集のさいの浄書原稿をひっくりかえして解決し、誤植のいくつかを消せたことを喜んでいたところでした。それにもまだ、こんな誤植が残っていたのです。

 ついでにいえば、柳田あて書簡の大半は原書簡の所在が不明で、疑問の解決できない個所のとくに多かったものです。乾元社版全集の浄書原稿をどのくらい参照したかは、記憶にありません。成城大学にある『南方来書』も、あまり役立ちませんでした。

 この往復書簡集については、去年夏のシンポジウムで知りあったドイツ人学生のペーター・ルートゥム君からも、はるばるハンブルグからの質問をもらいました。上・94頁にある「音にきく熊野〓樟日の大神も柳の蔭を頼むばかりぞ」の解釈を尋ねてきたのです。

(編注:〓は<木へんに豫>、以下も同じ。)

 これはどう読むか分からず、長谷川さんと相談して、とりあえずコメントの方に引いた歌の「〓樟」に「くすのき」とルビをふってごまかしたのでした。

 困ったと思いながら、熊野の「花の窟」に祭る神に関係があるかと思い、『日本書紀』の個所を見るため岩波の「日本古典文学大系」の索引を見たら、その近くに「熊野〓樟日命」(クマノノクスビノミコト)とあるではありませんか。注釈では出雲地方の熊野の神ではないかとありますが、熊楠はこれを熊野のクスノキにかかわりのある神と考えて使ったのです。「〓樟日」の 3字をクスビと読めば、この歌の解釈はおのずから明瞭です。

 地元の人からすれば常識であったかもしれませんが、私がその知識をもたなかったばかりに、そのまちがいが放置されたままになっていたのです。

 こういう細かな詮索の積み重ねが本を作る作業だということを、ぜひ理解していただきたく、自分の恥をさらして書きました。

(1998.4.30)   

ウェブサイトでの公開に際しての付記 (2002. 8.31)

 本記事は、後に構成を改めて加筆したものが、「平凡社版全集を手伝って」と題して『長谷川興蔵集 南方熊楠が撃つもの』に収録されました。

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