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  平凡社版全集を手伝って

飯倉 照平     

 1 乾元社版全集からの出発

 平凡社の池田敏雄さん(一九一六〜八一)が、わたしの仕事をしていた代々木の雑誌『中国』編集部をたずねてきたのは、一九六九年四月五日でした。『中国』は、もともと六〇年の安保反対闘争で岸内閣のやりかたに抗議して大学をやめた竹内好さんが、中国の会の機関誌として六四年から出していた小さな雑誌で、六七年暮から徳間康快さんの援助を受けて誌面を拡大して市販することになり、わたしはその編集を手伝うためもあって、神戸大をやめたのでした。この日付は、のちに竹内さんの全集を出すさいに目にした手帳に残されていたもので、たぶんわたしが南方全集の校訂を手伝うことについて、竹内さんに了解を得るために池田さんは来訪したように記憶します。

 池田さんは、二十代の後半に、日本統治下の台湾で、『民俗台湾』(一九四一〜四五)という、すぐれた雑誌の編集をしていた人です。この雑誌は、最近、三度目のリプリントが台湾で出て、ようやく発禁・削除以前の形に近いものが見られるようになりました。わたしは池田さんの所蔵していた中国の民俗学関係の雑誌や本をお借りしたことがあって、その何年か前から顔見知りでした。

 一九四七年に帰国した池田さんは、郷里の島根新聞に勤めたあと、五四年に上京して平凡社に入社しています。『世界大百科事典』で民俗学や民族学の分野を担当したあと、『われら日本人』(全五巻)を企画・編集し、その後も、その分野のほか中国文学をふくむ多くの企画にかかわりをもちました。

 それまで百科事典が中心であった平凡社で、池田さんは書籍出版の方面を拡充することに力を注いだようです。その下で仕事をしていた石井雅男さんは、南方全集について、のちにこう語っています。

 「私(石井)が池田さんの支持のもとに最初に企画したのは『南方熊楠全集』である。『南方熊楠全集』は、戦後まもなく乾元社から刊行されていたが、当時古本屋でもなかなか入手しがたくなっており、またいっぽう筑摩書房から『柳田国男集』が刊行され、人気を呼んでいたので、それに対抗する意味もあって企画したものである。編集委員に南方熊楠の娘婿岡本清造氏のほか、岩村忍、入矢義高両氏になっていただいたが、そのお願いのために池田さんと京都へ行ったりした」(「平凡社時代の池田さん」『台湾近現代史研究』第四号、池田敏雄氏追悼記念特集、一九八二年十月)

 本書掲載の前田棟一郎さんの文章によりますと、池田、石井両書籍担当者の間で南方全集の構想が浮かんだのは一九六六〜六七年ごろらしく、六七年七月に役員会の承認が出ているとのことです。それから二年近くたって、わたしのところへ校訂の話が来たわけです。

 池田さんとの話が決まって、その月のうちにはじめて石井さんに会いにいくと、石井さんは『十二支考』に出てくる人名や書名について作ったカードを見せてくれました。乾元社版全集に赤字を入れて出すことにして、石井さん自身が少し手をつけはじめたが、いろんな問題が出てきて中断していたようでした。

 これに先立ち、筑摩書房からは乾元社版全集をもとにして表記を現代風に改めた一冊本選集の益田勝実編『南方熊楠随筆集』が、一九六八年に筑摩叢書として出されて好評でした。平凡社では、乾元社版全集の表記を改めるさいに、この『南方熊楠随筆集』を参考にしていたようです。(この本は一九九四年に改めて「ちくま学芸文庫」に入れられました。しかし、たとえば「履歴書」についてみても、乾元社版全集で削除改訂された部分がそのままになっており、復元された平凡社版全集とはかなりちがっています。また岡本清造氏の『岳父・南方熊楠』編集のさい目にした書簡で、当時、筑摩書房でも選集あるいは全集の計画が検討されていたことを知りました。その結果、この一冊本選集が刊行されたのでしょう。)

 池田さんは、わたしが中央公論事業出版や岩波書店で校正の仕事をしていたことがあり、また中国の説話や民話に関心をもっていたのを知って、乾元社版全集の表記を読みやすくし、中国書などの引用の誤りを訂正し、漢文を読み下し文に改めることを依頼してきたのでした。

 岩波書店をやめて神戸大ではじめて教員となったあと、二年あまりで辞めて東京に戻り、『中国』の仕事をして一年ほど経過していたわたしは、毎月六、七万ほどの給料で一家四人を養わざるをえない状況にありました。

 そのころ編集部に出入りしていた若者たちのなかに、筑摩の随筆集を読んで以来の熊楠ファンである山下恒夫さんがいて、「それは(飯倉の)ライフワークになるから引き受けた方がいい」とすすめてくれました。その友人の予言は今となれば現実感をともなっていますが、当時のわたしは、ともかく金がほしいという目先の必要から依頼を引き受けたように思います。

 雑誌の編集作業をへらし、そのあいまをぬってやるという甘い見通しの約束で、毎月五万円ずつもらって使ってしまいながら、わたしはなかなか全集の仕事に着手できませんでした。そのことで、世話をしてくださった池田さんや、その年から熊楠全集の担当となった林澄子さんには、ずいぶん迷惑をかけたにちがいありません。

 2 校訂の仕事がはじまって

 一年近くお金をもらったあげく、ようやく一九七〇年三月から『中国』の方は山下さんにすべてまかせる態勢にしてもらい、わたしは全面的に熊楠全集の仕事をやることになりました。(その後も『中国』の編集会議や飲み会には参加し、一部の連載などは手伝いましたが、雑誌は中国との国交回復を機に一九七二年暮に休刊しました。)それから四年後の七四年春まで、ほぼ四年間にわたって、自宅や図書館での昼夜兼行の校訂作業がつづきました。

 平凡社の方では、当初かかわっていた石井さんが、おそらくほかの企画が忙しくなったためでしょうが手を引き、そこへ長谷川興蔵さんが入って責任者となりました。当時のわたしの手帳の人名録を見ますと、林澄子さんは六九年版に書き足されており、長谷川さんは七〇年版に現われます。熊楠全集の編集部には、のちに鈴木晋一さんも加わり、あわせて三人という構成は、当時の平凡社としては、かなり力を入れた配置だったはずです。

 長谷川さんと最初に会ったのがいつだったかは覚えていません。わたしの方には一年も仕事をおくらせた引け目があり、言葉にこそ出さないが、長谷川さんには「おまえみたいな奴に南方の仕事ができるのか」という厳しい目つきであしらわれたような感じを受けました(あとでふれるように、のちには関係が好転しますが)。

 私は編集部の整理してくれた資料をもとに、まず表記に手を加える作業をすませ、調べる必要のある引用は図書館へ行ってあたりました。最初は勝手のわかる都立大の図書館の書庫を使いました。

 そのうちに図書館の改築工事が始まってしまい、『大正大蔵経』『昭和法宝総目録』「随筆大成」、その他江戸時代の叢書類の活字本などを中文研究室に借り出して置いてもらい、また国文研究室も利用させてもらいました。それでもだめな場合は、やむをえず国会図書館に通うことが多くなりました。

 校正は、原稿との初校引き合わせから以後の赤字合わせまで、基本的には平凡社側でおこないました。しかしわたしも、三校あたりで校了になるまで、その都度校正を読んでいました。いまも保存してある当時の作業日程表によりますと、いちばん面倒であった第一巻の「十二支考」は一二六日(うち九九日が自宅と図書館、校正が二一日、出社が六日)かかり、ほかの巻の平均は六〇日(うち三〇日が自宅、一五日が図書館、校正が一〇日、出社が五日)というところでした。

 最初と終りでちがいはありますが、平凡社からもらった報酬は一冊五〇万円前後で、一冊あたり三か月前後かかっていますので、毎月一〇〜二〇万円の収入でした。はじめの年は、前借り分が引かれましたので、義姉から生活費を借りてやりくりする始末でした。

 しかも校訂という仕事の面では、かなり判断に苦しむものも多く、毎巻、付箋がたくさん着いて未解決のまま校了にした個所も多く、その都度、長谷川さんの意見をあおいでいました。とくに江戸文学や生物学の分野では、わたしのすべき仕事までも、ずいぶん長谷川さんに助けていただきました。しかし、その相談の結果としては、少し強引な処理をしたこともあったように思います。

 深追いをすればするほど仕事ははかどらなくなるので、たえず追い立てられるような気持で仕事をしていたことは確かです。一日中ほとんど坐ったままの作業で、神戸大のころ初めてかかった十二指腸潰瘍が何度も再発して、一か月近く下血が止まらない時でも、禁酒して睡眠を十分にとるだけで、仕事をやめろと言われるのをおそれて医者には行きませんでした。

 3 表記の書きかえをめぐって

 乾元社版全集に手を入れて出すという方針は、長谷川さんが責任者になって、全体の状況が把握されると、もっと実質的な全集をめざす方向に大きく変更されました。結果的には、平凡社版全集は乾元社版のほぼ二倍の分量となり、書簡や新聞掲載の文章以外の論文はほとんど収めることができました。当初十巻の予定で出発し、二巻を追加するというのは会社を説得する苦肉の策だったのでしょう。

 乾元社版に手を入れて出すだけの場合には、必要な人には一応原文に忠実な文章がなんとか見られるわけです。しかし、平凡社版で新たに加わった残りの半分については、もとの文章がたやすく参照することができないのに、表記に手を入れる結果になってしまったわけです。

 全集が終わったころ、わたしあてに、ある熊楠ファンの方から、エコノミック・アニマルならぬ「学校アニマル」(金のためならなんでもやる学者という意味か)である校訂者が、熊楠の文章を改悪したことへの激しい抗議状が送られてきました。最終回配本の月報で、わたしが多くの人に読んでもらうためには表記の手入れもやむをえないという書き方をしたことを読んでのものでしたが、わたしはなかば当惑し、なかば共感せざるをえませんでした。平凡社としても、最初からこういう規模の全集を出すつもりであれば、別の考え方をしたであろうと思っていたからでした。

 平凡社版全集は、新聞や教科書のやり方ほどではないにしても、旧仮名づかいを新仮名づかいに改め、文字は原則として当用漢字(のちに常用漢字となる)を使って、多くの異体字を整理し、送り仮名はたくさん送る方式をとり(のち一部改正される前の方式)、かなりの漢字を仮名書きに改め、改行や句読点を加減してあります。乾元社版全集と比べてみれば、その違いは歴然としています。読みやすくはなっていますが、独特な味わいのある熊楠の文章が損われていることは明らかです。

 もっとも、これから作る全集の場合、原文どおりの文章は田辺の顕彰会か研究所に行けば簡単に見られるということになれば、もっと中間的な改変案を決めることも可能です。日記や書簡集などで別の方々が採用している方式も参照して、新しい書きかえ方を考える必要があります。私としては、仮名づかい以外の表記はそのままにして総ルビをつける可能性を夢想しますが、熊楠の文章の読み方をすべて決めることは、これまた校訂以上の難事業で、実現はむつかしいことでしょう。

 そのほか、新しく活字となった書簡などをのぞきますと、熊楠の自筆原稿の残っているものは少なく、比較的に誤植の多い雑誌か、雑賀貞次郎さんやほかの方の浄書されたものを原稿としなければならない場合が多かったために、いろいろな問題がありました。

 熊楠の仕事をやりだして、しばらくたったころ、わたしは益田勝実さんをたずねて意見をききたいと思い、まず電話をしてみました。当時、『民俗の思想』(一九六四年、筑摩書房)の解説などで、熊楠を正当に評価していた唯一の人が益田さんだとわたしは思っていたからです。それに益田さんの評論集『火山列島の思想』におさめる論文の何編かは、わたしが岩波の『文学』編集部にいたころ受け取って掲載したもので、面識もありました。

 益田さんは、たずねてこられても困ると言いながら、つぎのような趣旨の意見を電話で話してくれました。熊楠の文章には手を入れない方がいい、あの文章を読める人が熊楠を読んで理解すればいいので、読みやすくすればいいというものではない。また、その引用などを正確に校訂するためには、田辺の書庫にある本を全部運んでもらってやるくらいの気構えが必要だ、と力説されました。それはまさに、わたしの引き受けた校訂のやり方に対する全面的な批判というべきものでした。

 益田さんの力説されたような校訂を可能とする作業が、かなり進んだ現在からすると、まったくお話にならないほど貧弱な状況で、わたしの作業は進められていたのです。おなじ本の引用をあたる場合でも、熊楠の使ったテキストでないものと照合すれば、たとえ異同があっても直すか直さないか迷わざるをえません。

 かなりたくさんある漢訳仏典の引用についても、結局手近かにある『大正大蔵経』しか使えず、しかも断片的で検索できないものも多かったのです。これも、法輪寺にある『黄檗版大蔵経』か、それから抜書きした『田辺抜書』を見れば、かなりカバーできたはずです。最近、ようやく完成した平凡社版全集の大蔵経索引(『熊楠研究』三号)は、その準備のために役立つことを願って作成したものです。

 また、わたしが依頼された仕事の一つに、漢訳仏典をふくむ漢文そのままの引用を、原文と照合した上で読み下し文にしてほしいという件がありました。当時のメモによりますと、わたしの書き改めた読み下し文は、全巻あわせて四百字詰で一千枚近くありました(これは謝礼も別扱いでした)。この読み下し文は、すべて当時京大にいた入矢義高さんが、ていねいに校閲して赤字を入れてくださいました。

 読み下し文に改めた個所は、平凡社版全集の本文では、ふつうのカギに対して小さめのカギで区別していますが、素人目には区別がつきません。しかし、これも熊楠調の文章とは似て非なるものです。読み下し文は、もともと漢文を日本式に読む便法として考案されたものですが、ある種の翻訳であると同時に、意味が分からなくても日本語にできるゴマカシの技術でもあります。それに読み下し文にも、京都調、某々氏調など、それぞれの人の流儀があります。別の個所では熊楠調のおもしろい日本文になっているのに、ある個所では漢文のまま引用されていて、口調のちがった読み下し文に改めることしかできず、もどかしいこともありました。

 新しい全集でのわたしの改善案は、熊楠が漢文のまま使った個所はそのまま残し、現代語による翻訳を注釈のようにつけるか、短文の場合はカッコ内に入れるかするということです。これも書きかえの方式と同様、関係者の論議の対象としてほしいと思います。

 以上は、長谷川さんとわたしの往来にかかわることではありませんが、全集の校訂について今後も考慮すべき問題点を、全集最終回配本の別巻2の月報や『ミナカタ通信』一二号にのせた文章の主要部分に加筆して、再録させていただきました。

 4 長谷川さんとのその後

 全集の刊行の大筋が決まった一九七〇年十一月二十五日夜、岡本清造さん、文枝さんご夫妻や監修の岩村忍さんなどを招いての集りが、本郷の料亭「のせ」でありました。おなじく監修の入矢義高さんには、その年六月、「中国古典文学大系」の用事で見えていたおりに、お目にかかっていましたが、ほかの方々とは初めての出会いでした。

 まだ新社屋に移る前の市ヶ谷駅の近くにあったビルの前から車で出かけようとした時、誰かが三島由紀夫が自衛隊で自決したというニュースを口にしました。 それはそこからさほど離れていない場所でしたし、事件の異様さにも驚いたことが忘れられません。

 わたしがそのころもよく立ち寄っていた『中国』の編集部は、七〇年前後の大学闘争にかかわりをもっていた若者たちの集まることが多く、わたしも酒が入るとみんなと夜明けまで徘徊したり、友人の家に泊まりこむこともしばしばでした。翌朝、目がさめると始発の電車で帰って、自宅の机に向かって校訂の仕事をするというのが、ごく日常の風景でした。

 仕事の上での関係は親密になっても、そのわりには、長谷川さんと酒を飲むような機会は多くありませんでした。意識的に避けたつもりはありませんが、おたがいにそれぞれ別の世界に生きているという感じがあったのかもしれません。十歳年上という世代のちがいもあったように思います。

 一九七一年八月十二日から十九日まで、長谷川さんと二人で田辺までの旅行をしました。わたしにとっては初めての紀州への旅で、印象深いことがたくさんありました。この旅行のあいだ、長谷川さんから昔の話をいろいろ聞かされましたが、その内容はほとんど記憶していません。その話を記憶にとどめる気持のゆとりが、当時のわたしになかったのが残念でなりません。

 最初の一夜は吉野に泊り、つぎの夜は十津川のダムのほとりにある宿に泊りました。食事がすんだあと、しばらく長谷川さんのそばを離れたい気持ちで、わたしは一人で庭のベンチに横になって星空を仰ぎながら、となりの部屋の女性たちのざんざめく声を気にしていたのを覚えています。

 わたし自身、全集の仕事が終わったあとについてはなんの見通しもなく、千葉の田舎へ帰って連れあいに死なれてまもない母親の世話をしながら、校正や翻訳で生活をする予定でいました。そこへ自分の出た大学から、大学闘争でやめた先生のあとのポストに呼び戻されました。一九七四年春、田舎へ転居するのと同時に、四十歳で大学の教師となり、中国語の初歩から専門の授業までを、にわか勉強でやらざるをえず、わたしはあたふたしていました。

 それでもはじめての給料つきの夏休みはうれしく、その最初の夏休みをつぶして『柳田国男南方熊楠往復書簡集』の編集をしました。わたしが配列をかえ、章建てとコメントを書き、それに長谷川さんが丹念に雑誌の現物にあたり、丁寧な注釈をつけてくれました。このあたりが二人の共同作業がいちばんいい形でまとまったものでした。

 長谷川さんの仕事がたいへん困難な状況で進められるようになったのは、やがて平凡社の経営が悪化し、熊楠の本をそれ以上出版できなくなり、のちに八坂書房から日記その他が出されるまでの十数年だったと思います。

 しかし、いつのまにか、わたしは長谷川さんにとても信頼されるようになっていたというか、あてにされるようになっていました。いま手もとに一九八〇年二月十七日付の長谷川さんからのめずらしく長い手紙があります。電話をしたが不在だったのでという前置きで、その前年に亡くなった岡本さんにかねて日記の解読をお願いしていたが、それが大正十二年ごろまで進んでいたことが分かり、その補いを文枝さんにお願いして、明治・大正篇の日記を平凡社から出したいので、ぜひ校訂者として加わってほしい、という内容です。

 この時点では、わたしは筑摩書房からまもなく刊行される『竹内好全集』(全十七巻、一九八〇〜八二年)の解題とゲラ読みが控えており、あまりはっきりした返事はできなかった可能性がありますが、ともかくこの計画は実現しませんでした。(それ以後のことは前田さんや八坂さんの文章に書かれています。)

 その後も、なにかあるたびに調べものを頼まれたり、ゲラや原稿を読まされたりしました。時には、またかと思って当惑することもありましたが、おかげで熊楠の世界にわが身をつなぎとめておく結果になりました。

 長谷川さんの亡くなられたあと、松居竜五さんから声をかけられて、資料調査の作業を手伝うことになったのも、いわばその延長線上のことのように思えます。

 一九九三年四月九日に開かれた「長谷川興蔵さんを偲ぶ会」で、わたしは短い文章を用意していき、読みあげました。そのなかにふれた大半のことはすでに言及しましたので、最後の部分だけを再録して追悼の言葉とします。

 「南方熊楠のことが世にもてはやされるようになり、その長谷川さんが、ようやく自分の肉声で熊楠のことを語りはじめたと喜んでいた矢先に、こんなにあっけなく亡くなってしまうとは、まったく予想していませんでした。そういえば、最後のころ長谷川さんの書いた文章には、どこか遺書のような、痛々しいひびきがありました。

 平凡社からの前借りで酒を飲んでいたころ、よく新宿で夜を明かしました。いまは高層ビルの林立している新宿西口がまだ一面の空き地で、そのなかをさまよい歩きながら、のぼってくる朝日をあおいで、がらにもなく『夜明けの歌』の切れっぱしを口にしたりしていました。

 その歌をうたっていた岸洋子さんの亡くなった記事と長谷川さんのことが、おなじ夕刊に出ているのを見て、わたしの三十代後半の個人的な思い出につながるものですが、ふしぎな因縁を感じました。

 わたしには、世の中が騒然としていた一九七〇年代前半に長谷川さんと熊楠の仕事をした印象が強烈で、その長谷川さんに、今日のような、こんな賑やかな追悼の会があることが、かえってうそのような気もします。長谷川さんのいなくなった空白は、にわかには埋めるべくもありませんが、これを機会に、わたしも少しは熊楠とのかかわりを回復しようと思っています。」


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