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《対談》 南方学の基礎と展開−テクスト、マンダラ、民俗学−

中沢 新一・長谷川 興蔵     

南方学の基礎

中沢  平凡社の『南方熊楠全集』はどういうふうにしてつくられてきたのか、その前の乾元社版がどうやってつくられてきて、いまの南方学の基礎がつくられてきたのか。そうしたことについて南方の著作を読んでいる読者は知りたいと思いはじめています。そこで、今日は長谷川さんにそのあたりのことをおうかがいしたいのです。長谷川さんが中心になっておつくりになった平凡社版の『南方熊楠全集』と、以前の乾元社版の『南方熊楠全集』が、熊楠研究の土台をつくっているわけですから、その土台の部分がどうやってつくられてきたのか、とても興味ある話題です。

    まず、南方がいろいろなところに書き散らした膨大な論文や書簡などをまとめて乾元社の全集にまとめていこうとする動きはどのようにして始まったんですか。

長谷川  その経過は岡書院の岡茂雄さんが一番ご存じだったんです。岡さんが編集者としては南方さんに一番近かった方ですから、岡さんの『本屋風情』(平凡社、一九七四年)に書かれているのが一番正確な経過だろうと思いますね。

中沢  岡さんはたくさんの民俗学者とつき合いがありましたから、その中で南方と関係していたわけですね。

長谷川  そういうことですね、柳田さんとのつき合いが非常に長くて。

中沢  柳田さんの本は、岡さんのところのものがずいぶんありますね。

長谷川  しかも『本屋風情』という名前を皮肉たっぷりにちょうだいするくらいだから、相当親しいわけです。もちろん岡茂雄さんは大変な南方ファンで、柳田さんとは不協和音があったわけです。それは『本屋風情』によく書かれています。結局、中山太郎さんが仲介して、『南方随筆』『続南方随筆』の二編を大正十五年に岡書院でお出しになったわけです。

中沢  それが例の中山太郎の「略伝」の問題とも絡んでくるわけですね。

長谷川  そうそう、「私の知ってゐる南方熊楠氏」。もっとも柳田先生の反応も少し異常なくらいで、大人げないですがね。

    岡さんは南方さんに気に入られまして、『続々南方随筆』という名前にしようか、『南方筆叢』という題にしようかということをいって、続いて収録すべき随筆の選択などにもかかっていたわけです。ただ、はっきり申し上げて、昭和になってからの南方さんの文章はその前に比べればやや衰えが見えます。したがって、南方さんにも躊躇があったでしょうし、岡さんも相当厳しい編集者ですから、おいそれと簡単に『続南方随筆』の次に三作目を組むという形にはいかなかっただろうと思います。

中沢  中年期までのものはずいぶんポテンシャルが高いのですが、昭和になってからは少し散漫になっている感じですね。

長谷川  少し散漫になっています。そういうこともあって、結局、それは日の目を見なかったですね。しかも、南方さんは、昭和になってキノコと粘菌に精力を傾けていました。粘菌は熊弥さんの事件があって挫折したという形になりますが、これはいまだに謎の部分が多いんです。

中沢  あの事件については、はっきり記録があるわけじゃないですね。

長谷川  あるわけじゃありませんけれども、上松蓊さんなどへの手紙を見ても、粘菌図譜はまず間違いなく最初は熊弥さんが相当破棄したんだろうと思います。ただ、ご当人が、つまり南方熊楠自身が破棄するという意図がない限りは、あんなに何もかも残らないはずはないんです。

中沢  あれを熊弥さん一人で全部破棄するには超人的な体力が要るでしょう。

長谷川  体力と専門的知識が要る。

中沢  偏執狂的な丹念さも必要です。あの頃の熊弥さんの精神状態からすると、こういうことはできないんじゃないかと、僕も秘かに疑いを抱いていました。

長谷川  熊弥さんの事件がショックになって、南方さん自身が破棄したんだと思いますね。でなければ、いくら探しても一枚もないはずはない。

ミナカタ・ソサエティと乾元社版全集

長谷川  岡書院のあとで南方さんの著作を出版しようとする動きは、昭和の時代にありました。特に昭和十五、六年ごろ、恐らく中央公論社と大岡山書店―大岡山書店というよりは、横山重さん個人ですね。

中沢  大岡山書店も柳田国男の本を何冊か出していますね。

長谷川  そうです。横山さんが南方さんのものを出すということを企図されたのが昭和十五、六年ごろ、中央公論社が接触したのも岡さんの話では逝去の前後と言います。そのときに、何しろ昭和十五、六年ですから、選集なり著作集なり、本を出すのは一番難しい時期で、紙の統制もある時期ですから。話があったことは事実ですけれども、ほとんど頓挫した形で、戦争を迎えて……。

    戦後になって、渋沢敬三さんが中心になってミナカタ・ソサエティというのをつくりまして。渋沢敬三さんですから、当然のことながらキノコの図譜まで全部含めて南方さんの全集を出そうということを考えたわけですよ。何しろあの人は大蔵大臣ですから、ポケットマネーでいろんな人にいろんな仕事をさせるんですよ。岩田準一なんかもそうです。岩田準一も渋沢邸で発病して死んだんです。渋沢邸で吐血して……。

中沢  それは日本常民文化研究所でやっていたわけですね。

長谷川  ええ、アチック・ミュージアムでやっていて、たしか近衛公の資料を一括して、疎開をする前に渋沢さんのところへ持ち込んで、カードをとろうということになっていますね。岩田準一さんは伊勢の方で、国学院出身ですし、漁業関係にも詳しいということで、岩田さんが上京して、渋沢さんのところでカードをとっている。

中沢  ミナカタ・ソサエティの仕事とはどんなものでしたか。

長谷川  そのときに中心になっていたのが岡田桑三という人で、もう亡くなられましたが、ものすごい南方ファンの方です。

中沢  長谷川さんもよくご存じの方ですね。

長谷川  あの人は戦後は科学映画を作っていましたが、とにかく二枚目で俳優でしょう。満鉄調査部の方に行っていて、個人的に南方さんのファンだったんです。結局、渋沢さんのところへ行って、渋沢さんをスポンサーとして担ぎ出してミナカタ・ソサエティをつくったんですが、そのときに岡さんの方はずっと前から雑賀貞次郎さんに整理してもらって、最終的には岩波書店をねらっていたんです。ところが、渋沢さんの方がミナカタ・ソサエティをつくって、南方さんのものを出そうということになったときに、乾元社の牧野さんという社長はたしか中央公論社にいた方で、戦前最後の段階で中央公論社が南方さんに接触したことを知っているわけです。そのこともあって、牧野さんが岡田桑三さんの友人だったので、乾元社で刊行しました。乾元社というのは小さい出版社ですし、とにかく昭和二十五、六年ごろですから、本のつくり方は粗雑といえば粗雑ですが、あのときはいまと違いまして大変な時代ですからね。

中沢  雑賀さんが筆写したものは、相当に完璧なものだったんですか。

長谷川  ええ。それがなければ、あんなに早くは出なかったでしょうね。もちろん、いろいろな欠点はありますけれども、雑賀さんはずいぶん長い間かかって準備していましたから。乾元社はB6判の四百ページ近いものを毎月一冊で十二冊出しましたが、毎月一冊というのは相当しんどいんです。特に昭和二十六、七年ですから。

中沢  最初に出た『南方熊楠全集』はどの程度売れたのですか。

長谷川  相当売れたらしいですね。部数については、私はいまデータを持っておりませんけれども。

    ただ、岡さんは大分ご不満だったようです。いい点は、柳田さんあての手紙を含めて、たくさんの書簡を載せたということで、そのほかは、量的にいっても内容の吟味からいっても「全集」という名前はつけにくいものであって、渋沢先生も「著作集」にしろとおっしゃったけれども、乾元社の方で、それは勘弁してくれということで、そういう点では不満があったらしいです。

平凡社版全集のできるまで

中沢  さて話は平凡社版の企画にうつります。いつごろから平凡社版の全集企画が持ち上がってきたんですか。

長谷川  昭和四十三年ごろでしょうか、平凡社の企画委員会でとりかかりました。私も企画委員だったんです。

    最初の発想は、柳田さんの全集が出て、折口さんの全集が出て、残るのは南方さんの全集ぐらいのもので、出版社の企画としては、結局、日本民俗学の三番目の巨人の全集という発想で、初めは乾元社の全集を下敷きにすればすぐできるだろうと思ったんです。

中沢  甘かったんですね。

長谷川  僕は乾元社の全集に恩になっているから、あまり悪口は言いたくありませんけれども、一番初めに乾元社の全集を下敷きにして―ちょうどそのころ、益田勝実さんが筑摩書房から『南方熊楠随筆集』を出したんですが、あれは一般によく読まれたものの一つだったんです。しかも、あのときに現代仮名遣いに直して、漢文を全部読み下し文にしたんです。

中沢  あれは乾元社版に基づいてやったんですね。

長谷川  そうです。乾元社版のときは、漢文は南方さんの白文のままですが、南方さんは風俗壊乱で二回ひっかかって懲りているものですから、きわどい話はしばしば漢文の白文のままで書くんですよ。

中沢  あれで懲りているんですか。

長谷川  やっぱり懲りているんです。そういうところは筑摩書房が読みやすくしました。桑原武夫さんが平凡社で南方の全集を出すときに非常に強力に応援してくださったんですけれども、桑原さんはそのときに、文学者の全集を出すんじゃないんだから、南方さんが雑誌に発表したままということを考えるのは全くばかげている、とにかく現代仮名遣いに直し、漢文はしかるべき人に頼んで全部開いてもらえと。

中沢  卓見ですね。

長谷川  君たちの私物にしてはいかんという話で、一般の人にわかるように、つまり朗読して同じだったら、それでよろしいというんです。口で読んで、ラジオで朗読したときに同じだったら、現代仮名遣いでよろしい。口語訳にしろとは言わない。そうしたら文体がめちゃくちゃになってしまうから。

    そういうことで初めてゴーサインが出て、手をつけますと、結局、乾元社版を土台にしたのでは使いものにならないということになりまして、雑誌を全部集めました。単行本になった三冊に載っているのはごくわずかで、二割ぐらいしかないわけです。「十二支考」を初めとして、乾元社の全集に載っているものでも、新聞・雑誌を探してきて、それを底本にしなければだめだということがはっきりしたんです。

中沢  いまと違ってコピーがない時代ですから、雑誌にしても何にしても現物が全部なければいけないわけですね。

長谷川  その現物は、雑賀さんが筆写して乾元社で使ったんですけれども……。

中沢  それがそのまま使えないんですね。

長谷川  残念ながら雑賀さんの原稿は残っていないし、乾元社の全集は誤脱が相当あって使えないんです。ただ、南方家は焼けなかったものですから、南方家にほとんどの雑誌が残っているんです。しかも南方さんが誤植訂正してあるんですよ。

中沢  几帳面な人ですね。

長谷川  それで非常に助かりましたね。

    一番厄介なのは、同じ活字が次の行や次の次の行にあると、ひょいと飛んで文章が続いてしまうことがよくありますね。これが多いのが「十二支考」なんです。なぜかというと、「十二支考」はたとえば「鶏」という活字がやたらに多くて、「鶏が」とあって、次の行にも「鶏が」と書いてあるとき、間が抜けてしまうんです。それで文章の意味が続いたら悲劇ですよね。乾元社版を土台に初校をつくって、試しに雑誌のものと読み合わせてみたら、「鶏」一編で飛びが七、八か所出てくるんです。それで、これは全然使えないということになったんです。

    もう一つは、手紙などの場合に、弟さん夫婦や知名人の悪口や、東大とか官学とかいうものに対する批判を少しやわらげているところがわりあい数多くあるんです。たとえば小さなことのようですが、東大が大学に書き変えられている。それで手紙も原手簡から起こさなければならない。それから柳田さんのいう「下がかった話」やスースー、ハーハーなどという表現も削られている。したがって、当然のことながら裸体画なんかも削られてしまうんです。「履歴書」のお尻を突き出した図版、あれはいいですよね。

中沢  いいですよね。

長谷川  あれは乾元社版にはないんです。

中沢  惜しいですね。

長谷川  忽然とお尻が出てくるんですね。

中沢  話題も忽然としている。

    当時は、平凡社は長谷川さんを含めて何人で全集を担当していたんですか。

長谷川  全集は二人ないし三人です。

中沢  あれはまったくの小人数でやったんですか。

長谷川  そうです。

中沢  すごいな。そういうふうにして新しい全集をつくる場合に乾元社版が使えないということになると、もとの雑誌に当たったり、書簡なんかは原文に当たったりしなければいけなくなるでしょう。その場合に、僕なんか見ても全く読めない。あの南方の悪筆を長谷川さんは最初からお読みになれたのですか。

長谷川  いや、最初は読めなかったですね。あれは結局なれるしかないです。

中沢  どのくらいかかったんですか。

長谷川  数カ月ですよ。一番初めに「十二支考」を出しまして、出版社としては発売は「十二支考」「南方随筆」「履歴書」という順序でね。

南方マンダラの出現

中沢  「履歴書」の巻には、「土宜法竜宛書簡」が入っているわけですね(平凡社版全集第七巻)。

長谷川  当時は、「土宜法竜宛書簡」というものを過小評価していました。とにかく何が書いてあるか、よくわからなかったんです。はじめ乾元社の全集で「土宜法竜宛書簡」を読んだんですが、あれは公田連太郎さんが解読したと言われていて、これも相当な問題があるんです。公田連太郎と言えば一流の学者ですけれども、たとえば『酉陽雑俎』の原典を照合していないんです。公田連太郎さんは、南方さんが引用する仏経の原典を相当きっちり調べておられて―大体、原典を調べないと、南方さんの悪筆では、右から左に翻字できる人はいませんよ。引用されているものはその本を持ってきて、引用されているところを見れば、南方さんの字も大体わかる。

中沢  エジプトのヒエログリフの解読を思わせる話ですね。

長谷川  公田さんもそれでやられたと思うんですけれども、それでも『酉陽雑俎』の部分については誤読が多いですね。

中沢  原文を対照しなかったんですか。

長谷川  明らかに対照していませんね。しかも、乾元社に載っている「土宜法竜宛書簡」はロンドン―パリの書簡であって、いわゆる那智の書簡は最初の一部分だけしか入っていないわけです。私も、乾元社版で読んで、那智の書簡にぶつかる前はよかったんですよ。坊主との往復書簡だと思っていればいいわけですから。ところが那智書簡が抜けているということで、それを全部入れようと……。

中沢  那智書簡はどこに保存されていたんですか。

長谷川  南方家に保存してあったんです。あまりに量が多いものだから、乾元社はここら辺で打ち切ろうということになった。「岩田準一宛書簡」も、乾元社では岩田さんがテーマごとに整理したものを載せているわけです。

中沢  那智書簡に最初にぶつかったとき、長谷川さんはどんな印象を持たれましたか。

長谷川  何が何だかわからなかったですね。わからなかったですけれども、問題なのは、第三回配本の発行を決めてしまって、「履歴書」は手をつけてしまっている。ロンドンの書簡も手をつけてしまっている。そこへ忽然として那智の書簡が舞い込んだから、刊行しなければならないが、さっぱりわからない。あれはちんぷんかんぷんでしたね。

中沢  でも、いまの平凡社版を見ると、ちゃんと起きていますね。

長谷川  益田勝実さんに相談して、それを読める人を法政大学で探してもらったんです。何とか読める、テーマも大体わかるという人を頼んで起こしてもらったんです。

中沢  どのくらいの期間で。

長谷川  半年ぐらいです。その上で飯倉照平さんが苦心して全体を整理したんです。とにかく南方熊楠について解説する人は、せいぜいのところ、柳田国男のアンチテーゼとしての南方熊楠という段階ですからね。

    益田勝実、宮田登、谷川健一、この人たちが興味を持って、柳田さんだけではだめだ、南方熊楠がいるということでやっている段階ですから、南方曼陀羅や那智のことは、論評する人が一人もいなかったし、ギメー博物館あての手紙でさえもほとんど論評の対象にならなかったわけです。とにかく大急ぎで新たに南方の那智書簡七、八通を起こして放り込むと。

中沢  そういうドタバタがあったわけですか。

長谷川  そうです。

中沢  順々に書簡集をつくっていくとき、八坂書房版でも分量がずいぶんふえていますし、また新たに土宜法竜の書簡が出てきたり、南方熊楠・土宜法竜書簡に関してはあわただしさを感じるものがありましたけれども、そういういきさつがあるわけですね。

長谷川  そうです。しかも土宜法竜宛書簡についていえば、対照すれば参考になる土宜法竜の書簡は見つからないだろうと思って、ほとんどあきらめている段階でしたから。

中沢  その書簡の意味も、当時はほとんど注目されていなかったわけですね。

    しかし、いまになってみると、熊楠の全集の中で最も重要な部分がこの「土宜法竜宛書簡」でしょう。世の中というのは不思議なものですね。ただ、不思議なことに二人の書簡で展開された内容は、熊楠が田辺で暮らすようになってから表立って出てこなくなります。

長谷川  そうなんですよ。

中沢  南方さん自身はその内容を重要なものだと思っていたんでしょうか。

長谷川  さあどうでしょうか。

中沢  熊楠が、自分がそのときに着想した南方マンダラの考え方の重要性にはっきり気がついていれば、それから以後、自分が何か書く場合にも、それについて言及があってもおかしくないだろうと思ってしまうんですけれども、そういうものはほとんどないですね。

長谷川  全くと言ってもいいぐらいにないですね。南方さんという人は、普通の学者の思考スタイルではなかなかはかり切れないところがありますから。南方さんの場合は、古い着物を脱ぎ捨てるみたいに自分の過去の着想や仕事をさっぱりと脱ぎ捨ててしまう。

中沢  その点はおおいに感動させられるところですね。自分がつくったものや自分が着想したものに全然執着しない。

長谷川  全然執着しません。

中沢  普通の学者は、自分が着想したほんのちょっとしたことに一生涯しがみついて、頑張り過ぎてしまうものですけれども。

長谷川  何回も繰り返してね。

中沢  それどころか、他人がちょっとでも似たようなことを言うと、それをすぐ批判したりするものですけれども、南方熊楠という人はこんなすごいものを着想して、それを惜しげもなく捨てることができた。昆虫の脱皮によく似ている。

長谷川  そういう感じがしますね。キノコの図譜にしても、手紙にしても、よくこれだけ膨大なものを書いて、後は「わしゃ知らん」という顔をしているんですね。未発表の小畔四郎さん宛の粘菌関係の手紙なんかを見ると、本当に世の中にこれほどの徒労はないんじゃないかと思うくらいたくさん書いていて、恐らく何百通とあるでしょうね。

中沢  徒労という言葉が出ましたけれども、南方の仕事の全体を見渡していても、自分の業績を上げていって、大学の中でのポジションを高めていくために仕事をするという普通の学者タイプの人から見ると、ほとんど徒労と見えるんじゃないでしょうか。僕たちは、その徒労と見える山の中から重要なものをまた引っ張り出してくることが可能ですけれども、書簡にしても、それを書いたからどうなるものでもない、そんなことに全精力を注いでいきますね。自分のつくりだすものに執着しなかったり、一点に全精力を注いだりという態度には、大乗仏教の菩薩の精神を感じてしまいます。

    菩薩は他人を生かし育てるために自分を捧げなければいけないけれども、その場合に、この人間は自分にこうしたから自分はこうするとか、この人間にはこうするけれども、別の人間にはしないとか、そういう考えは一切持たないで、とにかく自分が持てる力をふるってるというのが大乗菩薩の考え方です。そういう理想を実践している人はお坊さんの中にはほとんどいない。 けれども、南方熊楠が学問をとおしてやったことというのはほとんど大乗菩薩のやり方です。僕が熊楠の学問の中で一番感動するところが、それです。自分がつくり上げたものにも一切執着しないし、全集などが出ても、彼は多分ああそうかと言って書庫には積んでおくでしょうけれども、たいした関心は持たなかったのではないですか。

長谷川  いや、誤植はずいぶん訂正している(笑)。

足穂と男色

中沢  僕が昔、平凡社の全集を読んで異様だなと思った巻は、岩田準一の書簡集の入っている第九巻で、その巻末には稲垣足穂の解説がついておりますね。なぜ異様かというと、日本民俗学の中ではほとんどタブーの領域だった男色の話がかなりの部分を費やしてあって、しかも稲垣足穂さんの奇抜な解説の文章がついていたことです。僕の南方熊楠に対するイメージの大半は、それによって決定的な影響を受けました(笑)。これこそが南方さんという人を知る一番重要なポイントじゃないかと感じたんです。南方さんの学問の中で、あるいは人生の中で、男色の問題はとても大きい意味を持っていたんじゃないでしょうか。南方の男色問題については、いろんな人がおもしろがって興味は持ったでしょうが、乾元社版の全集の編集過程は、どうだったんでしょうか。

長谷川  乾元社の場合は、「土宜法竜宛書簡」と「岩田準一宛書簡」は一つの巻に載っておりまして、法竜宛の書簡は、ギメーにいたときに送ったものにほとんど尽きているわけです。「岩田準一宛書簡」は、想像にすぎませんけれども、そのままというのは無理だろうということになったと思います。結局、岩田さんが整理して、テーマを設定して、さわりをずーっと載せたもので、それを解説したのが稲垣足穂さんの「南方熊楠児談義」ですね。だから、よく整理はされているんですけれども。「南方熊楠児談義」というのは、足穂さんの文章の中でも私は好きな文章ですけれども、それを読んでいて、全集をつくるときには、岩田さんのところに熊楠書簡が百七十何通も全部残っているわけですから、そのまますべて載せることと、足穂さんに文章を書いてもらうという二つのことを考えたわけです。この足穂さんの文章をとるのに苦労したんです。

中沢  でしょうね。あの文章は非常にいいですね。

長谷川  足穂さんに何回手紙を出しても返事が来ないんですよ。伏見の方に住んでおられて、そのうちにお宅が火事になりまして、どこかお弟子さんのところにいるというのですが、行方がわからない。

    当時、いま作家の嵐山光三郎君が平凡社の編集部におりまして、「おまえさんだったら足穂先生がいまどこにいるか知っているだろう」「知ってる、知ってる」とか言ってね(笑)。

中沢  嵐山さんもいいことしたね。

長谷川  それで行ったんですが、暑い盛りでしたね。八月だったと思いますけれども、行って奥さんにお目にかかって、ただ何分たっても先生が出てこないんですよ。何かご執筆ですかと聞いたら、「あなたは初めてですよね」と聞くんです。仕事はしているんですけれども、仕事をしているときは夏は素っ裸ですから、初めての人だと一応あれでも着物を着てくるんだと言うんです。

中沢  南方と同じですね。

長谷川  ところがあの人は不器用で着物を着るのに少なくとも二十分はかかる。帯を締めるのに五回ぐらい締め直さないとよく締まらない。それで人が手伝うと怒る。ほうっといたら、そのうちに出てきますと言うんです。

中沢  体格も南方と似ていますし。

長谷川  そうです。嵐山君の友人に紹介してもらうときに、ちゃんと懇切丁寧に解説が入りまして、足穂先生は初対面の人だと、特に平凡社なんかのお固いところから行けば、必ずからかいに出るに決まっている。どこかでふっと「ところで、君は気があるのかね」と出てくると言うんです。原稿をもらいたいばっかりにうやむやな返事をして、抱きすくめられて、なめられて、びっくり仰天して原稿を取り損なったやつがいるから、用心した方がいいと言うから、そういうときはどうやって撃退するんだときいたら、「いえ、私は全くの文献派でございます」と言うと、足穂先生はつまんなそうな顔をして文献の話になるというんです(笑)。

中沢  長谷川さんは文献派とお答えになった。

長谷川  僕の場合は本当に文献派なんですよ。

中沢  だいじょうぶ、疑ってはおりません(笑)。足穂さんは、男色について南方の書いたものを心底おもしろいと思っていたんですか。

長谷川  ええ、あそこに書いてあるとおり、南方さんの書くものは坊主と武家の男色だからというのが足穂さんの主張ですね。それは確かに卓見だと思います。いわゆる野郎の男色は南方さんの範疇の外に出てはいるけれども。しかし、あれほど大上段にプラトンを振りかぶられると鼻白むけれども、正論は正論なんだと言うんですよ(笑)。

書簡というジャンル

中沢  南方が書いた膨大なものの中には、おもしろいものもあるし、正直言って、書きなぐっているつまらないものもある。これはモーツァルトと同じで、すべてが傑作の森というわけではないですけれども、こと書簡に関しては、ほとんどすべてが傑作です。あの全集の中で、日本文化に書簡というジャンルが大きく浮かび上がってきた印象を受けます。

    土宜法竜との書簡、柳田国男との書簡、岩田準一との書簡、この三本が大きな柱になっていて、書簡が思想を表現する場になっている。日本民俗学三番目の巨人の登場ということ以上に、このことは新しい思想表現のジャンルの浮上として、僕は受けとめました。

長谷川  そうですね。乾元社の全集のときから、ほとんど三分の一を書簡に費やしている。岡さんも乾元社の全集で書簡を多く取り上げたことだけは評価していたけれども、事実、南方さんの全集をつくるときに、書簡に膨大なページを割かなければ意味がないということは間違いありませんね。

中沢  南方さんみたいに、自分の思想を手紙で表現するというのは、ヨーロッパには時々ある話ですね。

長谷川  ヨーロッパではあるんですけれども、日本では少ないですね。

中沢  ヨーロッパで、書簡で深い思想表現をしたのはライプニッツでしょう。ライプニッツは自分の書いたもので本にしているものはほんのわずかですけれども、書簡は膨大で、そこで重要な思想の大半が表現されている。

    ヨーロッパでは人に手紙を書く場合は、大体公表されるということを念頭に置いて書かれます。書簡は大体人前で朗読されることを予期していなければならなかった。恋文のようなものは別としてね。ライプニッツからこういう書簡が送られてきたというと、それをパーティーに集まった人たちの前で朗読などする。ライプニッツの思想は、手紙という私信の形で来ても、朗読を通じて公のものになっていくシステムができている。 日本の場合は、手紙を朗読するというしきたりはまずありませんからね。

長谷川  ありませんね。

中沢  そうしますと、南方熊楠がライプニッツと同じように思想を手紙で表現したとしても、朗読のような形で公になっていく可能性はほとんどないわけですから、ただ個人的な関係の中だけで消えていく可能性も大いにあるわけです。柳田さんの場合は、柳田さんがコピーしているということを早めに知っていたから、彼もかなり意識して書いているところがあるかもしれないけれども、土宜法竜や岩田準一に関してはそういうことは予期していない。それなのに、あれだけの精力を注ぎ込んで自分の思想を表現していく情熱の根源は何なんだろうなと思います。自分が抱いている考えを外の世界に向かってパブリックに表現するのではない、植物で言えば隠花植物のようなものが私信でしょう。顕花植物はいわば出版業みたいなもので、自分のきれいなところを花で表現しますけれども、隠花植物の美しさの重要なところは、胞子が見えないところで移動していって、そこで発芽したりして、パーソナルな関係しか存在しないところにある。そういうことをする南方を、つくづくおもしろい性格だと思います。

柳田と南方、もしくは最澄と空海

長谷川  岩田準一の場合は、岩田準一がひたすら教えを請うという立場にありますからね。土宜法竜と柳田国男の場合は、明らかに打々発止の打ち合いが両方とも相当激しくて、やっぱりこの二人なんでしょう。南方さんは手紙ということについて非常な書き手であったことは間違いありませんけれども、手紙のやりとりの中で協力して新しい視野を切り開くというような観点まで持っていたというのは、この二人だけでしょうね。特に柳田さんとの往復書簡は、往復書簡としてはとにかく材料が豊富でしてね。

中沢  ドラマもあるし。

長谷川  ドラマもあるし。あれをやりながら、すぐ思い出したのは空海・最澄の往復書簡だったですね。似ているんですよ。

中沢  性格が似ていますね。

長谷川  似ているんです。やっぱり往復書簡は顕密でないとうまく成り立たないですね。

中沢  打々発止にはならない。

長谷川  空海と最澄の場合は、最澄の弟子が空海の方に走るという生臭い一件もありますからね。しかも、最澄は最後に相当開き直るでしょう。つまり柳田さんが開き直るみたいに。いつまでも負けておるものではないと言って開き直る、あれと同じでね。

中沢  あの開き直り方を見ていますと、柳田国男も最澄も、本当は勝負では負けていますよね。

長谷川  勝負には負けている。

中沢  あの開き直り方が二人の愛すべき小人物ぶりを物語っている。しかしまたその小人物ぶりが、日本の文化にとっては重要なものをつくりだした。

長谷川  しかし、物すごいしたたかさですよ。

中沢  小人物ほどしたたかなものでしょう。そしてそれが彼らを最後には大人物にした。本当に南方と柳田というのは、タイプの違う人だと思います。

長谷川  事実、空海のものがあまり残っていないから、「最澄・空海往復書簡集」というのは成り立ちませんけれども最後の一番重要なものは残っているけれども、途中はほとんど抜けていますから。柳田さんと南方さんの往復書簡を読みながら、非常に似ていると思いましたね。確かに顕密じゃないと往復書簡はおもしろくない。

華厳と不思議、土宜法竜往復書簡

中沢  南方熊楠・土宜法竜往復書簡は大体三つの時期に分けられます。それぞれにトーンも違う。ロンドンとパリで往復している書簡、那智の時代と、それ以後の田辺の時代、大体この三つに分けられています。その中で一番彼らが打々発止とやり合ったのはロンドン―パリの時期です。

長谷川  一番打々発止ですね。

中沢  南方の思想が一番練れてきて深まっていった那智の時代は、長谷川さんが編集されたものの中でも打々発止というわけにはいかないですね。

長谷川  いかないですね。

中沢  これは発見されていないからそうなんでしょうか、それとも土宜法竜が忙し過ぎたんでしょうか。

長谷川  両方です。発見されていないことは事実で、せっかくあっても、土宜法竜は仏典の話しかしていないとか、曼陀羅の話はしていないとかね。

中沢  往復書簡を読んでおりますと、土宜法竜は、南方があれだけマンダラのことを一生懸命書いているのに、あんまり興味を持っていないという印象を受けてしまいます。

長谷川  ええ。

中沢  土宜法竜は真言宗のお坊さんですけれども、ロンドン書簡なんか見ていますと、南方と最初にやり合ったのは心霊術の問題です。土宜法竜は当時の心霊術に大変に入れあげておりますね。あの当時のロンドンやパリでは心霊術が大流行していて、ベルグソンのような哲学者まで、深い関心を持っていた。ところが南方熊楠は、そんなものはトリックなんだと法竜とやり合った。土宜法竜は、あの時代にブームになってきた神智学と神秘主義と科学に非常に関心があって、それを真言宗が抱えていた宗教の近代化の問題とむすびつけて、真言宗を時代にふさわしい形に成長させていくことはできないかという問題意識を持っていた。それに対して南方熊楠は、土宜法竜の問題意識をあまり理解していないところがありますね。それで心霊術はにせものなんだと、彼の仏教論を展開している。あれだけを見ると、南方熊楠の方が保守的ですね。

長谷川  そうなんです。

中沢  土宜法竜の方がはるかに先進的で、現代的な意識を持っていたところがある。その間に打々発止のやりとりがあり、その往復書簡をよく見ておりますと、南方熊楠の方が、むしろ真言宗ファンダメンタリストではないかと思えるところがありますね。ところが土宜法竜は、白隠禅師のものを送ってくれとか、曹洞禅に相当入れあげていますでしょう。

長谷川  特に帰国してから後、相当、曹洞禅に。

中沢  南方熊楠と土宜法竜というのは、確か真言宗に関係を持った者同士の往復書簡だと言われていますけれども、そのわりには関心の違いも存在している。

    もう一つ僕に興味があるのは、華厳の問題です。二人とも華厳のことをあまりテーマにしていない。ところが土宜法竜は高山寺に深い関係がありますでしょう。高山寺は明恵上人の活躍した場所で、華厳宗のセンターみたいな場所ですから、真言宗と華厳宗の関係など、彼はよく熟知しているはずです。 南方だって知っているはずで、その証拠にたとえば心不思議、物不思議、事不思議、理不思議の「不思議」という言葉は華厳経から来ている言葉ですね。華厳で言う、「理不思議」と「事不思議」の二つの概念を南方熊楠は改造しています。心、物、事という三不思議にして、それに「理不思議」をつけ加えている。「大日如来の大不思議」もある。拡大して南方マンダラをつくっていきますが、そのべースになっているのは華厳です。華厳をベースにして、今度はそれをマンダラに組みかえて動かしていくわけです。その思考方法を見ていると、華厳がべースになっているのに、二人ともそのことはしゃべっていない。

    それから、土宜法竜は、むしろ禅宗のようなこざっぱりしたものの方にひかれているのに、南方はうじゃうじゃした真言宗の方にひかれている。往復書簡自体が、何か複雑な対立とかドラマをはらんで、また時期ごとに展開していくという非常に興味深いもので、これだけを克明に分析したりしていくと、もっといろいろなものが出てくるような気がしているんです。

長谷川  那智時代のものは、もちろん発見されていないことは事実ですけれども、南方さんが書いているものから、土宜法竜がどんなことを書いたかということを推測してみても、土宜法竜が南方曼陀羅というものに対してそんなに関心を示していたとは僕は思わないですね。

中沢  平凡社版で読んでいても、法竜の返答がないので、土宜法竜は、南方マンダラに対していろんなことを書いていたんだろうと想像していたんですが、それほど大したことをしていないらしいので、僕は正直がっかりしたことがあります。南方のひとり舞台だったんですね。真言宗のお坊さんにとって、熊楠が南方マンダラで一生懸命になって考えていることは、いまもそうですけれども、そんなに関心を引かないものなのですね。

長谷川  引かないようですね。

中沢  門外漢の方が、それに惹かれているところがある。ただ、ロンドン―パリ時代は、南方は土宜法竜が神智学とか神秘主義に興味を持っているのを揶揄していますけれども、後になると、彼はとても関心を持ちだしますね。

長谷川  そう、逆転してしまうんです。マイヤーズの『ヒューマン・パーソナリティ』の本なんかに熱中するのもそうですね。大体、心霊調査協会なんか、パリから土宜法竜が言ってきたのに、腐ったオカルティズムみたいなものにほれるとは何事だという言い方でね。

中沢  その腐ったオカルティズムにしだいに心惹かれるようになる。

長谷川  那智に来ると、とにかく話が変わってくる。

中沢  首が抜けたりする体験が加わってくる。

長谷川  そうそう、自分の首だけが障子の向こう側に脱け出て行って、また戻ってきたとか、そういう種類の話になりますからね。

中沢  それに彼は夢に関心があります。熊楠の書庫へ行って、いろいろな本を見ていると、彼の夢に対する関心がわかります。たとえばベルクソンが夢について書いた本を克明に読んでおりますし、宮沢賢治なんかも夢中になった当時の流行思想である四次元思想みたいなものにも関心を持って本を取り寄せていますし、その本の中でも「夢」という章だけ彼は特に熱心に読んでいるんです。夢の中に死んだ人が出てきたり、これから死ぬ人が出てきたり、そういう体験を何度も繰り返していることがあって、夢というのは一体何だろうということを真剣に考えたりしている。それは彼の学問全体の構成の中にも、大きな影響を及ぼしているんじゃないかと感じますけれども。

    土宜法竜の人生全体を見ても、南方熊楠と往復書簡を交わしたころが彼の思想の一番活発なときで、その後はどうもぱっとしないなという気がしますが。

長谷川  宗務に非常に追われた人ですからね。

中沢  かわいそうですね。人がよかったんでしょうね。

長谷川  人がよくて、ものすごく頭の切れる人ではあったけれども、同時に俗務についても非常に切れたらしいですね。ですから、法竜さんのところにみんな持ち込んで、何とかしてくれと。とにかく、あの人が出ていけばおさまるということだったんじゃないですか。

    南方さんは、一番初めに法竜さんと交際して、本を送るとき、おまえは旅行中だから、日本に送る場合にはしかるべき代理人を立てろと言う。そうすると、長谷宝秀という若い坊さんを立てる。長谷宝秀といえば、のちの空海全集の総編集長ですからね。それから高野派の管長になったときには、代理人は水原尭栄でしょう。

中沢  邪教立川流の研究で有名な。

長谷川  そうです。ですから、法竜さんは、南方さんから注文してきて代理を立てるときは、弟子の中で一番頭のいい人間を選ぶんですね。

中沢  南方熊楠が土宜法竜のところへ訪ねていったときは、水原尭栄が小坊主だったんですか。

長谷川  いえ、小坊主じゃなかったんです。既に住職だったのです。結局、南方さんの葬式、それから最後に高野山にお骨をおさめて分骨するときに全部しきったのは、水原尭栄ですね。

中沢  そういう意味でも、立川流といい、岩田準一といい、江戸川乱歩といい、何か不思議なところでつながってきますね。

『告白』と「履歴書」

中沢  ここで那智時代の熊楠についてお話をうかがいたいのですが。『日記』を読むと、那智時代はごくわずかしか本を持っていかないので、いろいろ熟読していると書いてある。その中でルソーの『告白』を一生懸命読んでいますけれども、彼の仕事の中に、あんなに熟読したルソーの『告白』がどういう形で影を落としているのでしょう。

長谷川  「履歴書」の一種の種本なのではないでしょうか。

中沢  そうか、彼は『告白』をべースにして「履歴書」を書いたわけですね。

長谷川  そうだと思います。

中沢  それは思いつかなかった。そういえばちょうど同時期ですよね。熊楠はたしか「燕石考」と同時期に英文の自叙伝を構想していたらしいから、それと微妙に関連があるのですか。

長谷川  それは多屋たかに宛てた手紙に出てくるんです。当時、まだ本の訳名が一定しておりませんで、南方さんに言わせると『自懺篇』というんです。ルソーの『自懺篇』を読んで、そこかしこ和文に直してみていると言うんですよ。この大文豪にかなうべくもないけれども、自分も五、六年かけて英文で一本書こうと思っている。それで、それをディキンズのところに送って、向こうで出版するんだと言うんです。

中沢  そのときはまだ若いですね。

長谷川  まだ若いです。それで英文で書いている。そのときは明治三十六年ですが、それ以後、随筆やいろんな人あての手紙をしらべますと、英文の伝記をまだ書いているというのがずっと続くんです。大正十年ぐらいまで時々そういう記述が出てくる。それで僕の推理が出てくるんですが、矢吹義夫宛に一気呵成に数日で書くわけですが、あれは構想がなかったら書けっこないんです。いかに南方だって、「履歴書」のあれだけの文章をわずか数日で一気呵成に―しかも巻紙二十五尺にずっと書くんですから、英文の構想があって、その英文の構想は実はルソーを下敷きにして書こうとしたということですね。

中沢  おもしろい話ですね。

長谷川  その証拠には、「履歴書」を書いてしまうと、英文の伝記の話はぴたりとなくなってしまうんです。

中沢  熊楠は、矢吹さんに宛てた自分の「履歴書」がいずれは公表されて、自分にとってルソーの『告白』のような位置を占めるだろうということを予測していたわけですか。

長谷川  これは予測していたと思いますね。

中沢  だから気を入れて書いた。

長谷川  ええ。予測していたというのは、小畔四郎という人が間に入っていますから。矢吹さん宛の手紙にもう一つ、「綿神考」というのがありますね。それをパンフレットにしている人です。矢吹さんは小畔四郎さんの郵船関係の上司ですね。矢吹さんもびっくりしたと思いますね。「履歴書」を送ってくるというから、二、三枚くると思っていたら、巻紙二十五尺が来た(笑)。

中沢  びっくりしたでしょうね。

長谷川  びっくりしたと思います。そういう意味で、ルソーの『告白』を種本にして、英文で考えていた。その英文は「履歴書」より小説仕立てだったかと思いますが、恐らく破棄したんだろうと思いますけれども、全く残っていない。ただ、全集の索引にも項目を設けておきましたから、索引でいくつかの随筆や書簡が引けると思います。「南方熊楠の英文自伝」という索引項目をつくってあるはずで、ページ数が刻み込んでありますから、それを引くと出てきます。それは「履歴書」を書く前までですね。

中沢  ルソーの『告白』には、自分のヰタ・セクスアリスについて克明に書いてある。あれが熊楠を喜ばせたんですね。

長谷川  そうだと思います。

中沢  アウグスティヌスもそうですけれども、ヨーロッパの告白文学というのは結構そのことを克明に書くわけです。熊楠は、自分の履歴を書く場合に、そういうことを隠してしまう日本の履歴とか自伝の書き方にあきたらないものを感じていた。

長谷川  それで、そのヰタ・セクスアリスですが、ロンドン公使館で回覧してくれという公使館あての手紙がありまして、和歌山市立博物館で展示されましたけれども、それは未完ですが、ほとんど完全なヰタ・セクスアリスですね。僕は、南方さんの文章で羽山蕃次郎を犯すところの実況描写は初めて読みました。

中沢  それは読んでみたいものです。日記の中にもちょぼちょぼと出てきますが。

長谷川  ええ。夢でやるところ。

中沢  蕃次郎と朝までやる。それは小説のような形をとっているんですか。

長谷川  半ば小説の形をとっていますね。これから活字にします。[のちに『南方熊楠珍事評論』平凡社、一九九五年、に「ロンドン私記」として収める。]

中沢  それは楽しみだな。

南方民俗学の可能性

長谷川  全集をつくったときに、土宜法竜宛書簡の配列が問題になりました。結局、平凡社の全集の場合も乾元社の配列どおりに配列したんです。ところが往復書簡でしらべてみると、その配列の仕方を間違えたというので、八坂書房版では配列を変えたんです。往復書簡の対応がありますし、共通の話題になってくる本の名前とか、そういうのがありますから、それで配列を決定するんですけれども、もう一つ、南方さんの言葉に、およそ人の出処進退はその人の履歴に出づるというのが土宜法竜宛の手紙にあります。結局、柳田さん宛の書簡の場合もそうですし、白井光太郎宛の書簡も、岩田準一宛の書簡もそうですが、文通が始まって、ほんの一カ月かそこらのわりあい早い時期に、自分の履歴をめんめんと語り出すんです。しかも、半分ぐらいは羽山兄弟の話が入ってくる。南方書簡の構造性とでも言うのでしょうか。

中沢  普通の人がそれをやると、僕のことをわかってほしいという何か甘ったれたものが感じられます。女を口説いているときみたいで、「僕の生い立ちは」としゃべり出すのはたいてい甘えですし、自分をわかってほしいというところがあらわになってしまいますけれども、熊楠さんには自分をわかってほしいという甘ったれたものはほとんど感じないですね。

長谷川  それはないですね。

中沢  学問、業績、全部がその人の履歴にありというときは、生き方自体が学問と同じ表現なんだという考え方があるんだろうなと思うんです。

長谷川  そうだと思いますね。

中沢  柳田国男の場合もそうですが、多くの学者は、生活と学問を分ける傾向がある。ところが、南方さんの学問においては、私生活と学問とを切り離すことができない。人生の履歴自体が学問と同じ表現で、お互いの間に自由な交流があって、何かを隠した上で学問ができてくるものじゃないなという感じがするんです。

長谷川  そうなんです。ほとんど生きざまと重なっている。

中沢  普通の考えだと、学問は公のものでなければいけない。公共物だから、履歴の違う人間同士でもお互いの間で交流ができなければいけない。だから共通言語をつくらなければいけない。そのためには、学問のしゃべり方とか用語を決めて、個々の人間がたどってきた生まれとか育ちとか人生は、それとは別個に切り離してやらなければいけない。これがアカデミズムの考えですね。

長谷川  それでなければまた成り立たない。

中沢  柳田さんの学問などにもそういうところがあると思うんですが、南方さんはそれを全部壊してしまっている。そこでは公共のものと個人の体験からつくり出されてくるものとが一直線に結ばれてしまって、彼の人生=学問ができあがっている。だから南方は民俗調査する場合にも、しゃべっている人間のことを細かく聞き出そうとしています。どんな村の人でも、生い立ちがどうで、どんなふうにしてこの話を聞いたのか、その人間の履歴、個人的な体験と彼がしゃべっているフォークロアを直結させて考えている。ところが、民俗学という学問では、個人の部分を消して常民とか日本人とかの中に解消していく傾向がある。そこからフォークロアという抽象的なものができ上がって、学問がつくられていくというふうになり、 それが民俗学自体をアカデミック化しています。

    ところが、南方は、民俗学でも何の領域でも、個人と公のものを分けて、隠したり、体系づけたりするものを全部ぶち壊そうとしていた。だから書簡というものも必要だったし、ヰタ・セクスアリスが学問の表現にとって非常に重要なものにもなった。それは個人を形成する上で一番のキーポイントなんだ、それがなかったら彼の学問もないんだという、あらゆる領域がつながっていくものを彼は学問と考えていたのではないか。だから彼の学問は、普通の人が考える学問とはまったく違う構造になってしまったのではないかと思います。

長谷川  日記を復刻したときに苦労したことが二つあります。

    時間的に言いますと、日記で一番精力を使ったのは、主として初期のアメリカ時代―南方さん自身がまだ非常に若かったとき、植物を採集しますね。それを全部、一々学名(ラテン語)で書いてあるんです。こんなものを翻字しても、 だれも読んでくれないだろうと思いました。しかも全部それを墨で書いてあって、その学名を解読するには、当時のアメリカのエーサ・グレーとか、ウィリアム・チャップマンという人のハンドブックを持ってきてやらなければ、いまの植物学の本ではだめなんです、学名が違うんです。

    もう一つ苦労したのは、田辺時代の日記帳の金銭出納とか、そういうところを全部つぶして、聞き書きを日記の本文じゃなくて後ろに細かく書いてあるんです。あれは難読でした。南方さんの表現によれば、「勧学院の雀は『蒙求』をさえずる。南方熊楠先生の下女は民俗の天才なり」とある。その下女から聞いた話を細かく書いてあるんです。奥さんがこう言うと、下女が違うと言う。あの聞き書きは、田辺の町の風呂屋とか、南方家の下女と奥さんと熊楠との三人の対話とか。

中沢  広畠広吉さんとの対話とか。

長谷川  そうそう、広畠さんのところとか。本当に生き生きとして、話の聞き取りの現場という感じがして、非常におもしろかったですね。

中沢  普通の民俗学者は、どこから聞いたとか、あそこまでしつこい検証はやらない。あれをやっていくと、結局、フォークロア一つ一つが全部履歴をつくることになる。南方はそういう履歴も含めて全部がフォークロアなんだという考えをしている。だから、南方民俗学は柳田民俗学とは別の構造を持つことになったと思うんです。南方民俗学にとっては、真実とは何なのかということが一番大きなテーマになって、それが柳田の方法論との一番の違いをつくっていくんじゃないか。真実というのはどうやればわかるのかということについての考えの違いですね。

    確かに、民俗学としては、南方民俗学は大成できないところがある。公共物になりにくいから。大学で教えられないし。大学で民俗学を教えるためには、柳田のような体系づけが必要です。ところが世の中には大学で教えることができない民俗学というのが存在する。その民俗学は、世界の真実はどうやったらわかるかということを考えつめている学問だ。そのことをいつか僕ははっきりさせてみたいと思っています。

狂気と弱さ

長谷川  結局、ある時期に那智から中辺路を通って田辺へおりてきますね。あのときに、どうして那智から出てきたかということですね。

中沢  それをお聞きしたかった。植物調査が終わったとは言っていますけれども、そんなものは終わるわけがない。

長谷川  ええ、終わるわけがない。僕は、これ以上いたら気が狂うと思ったんじゃないかと思うんです。

中沢  まさにおっしゃるとおりだと思います。狂ってしまうと思ったんでしょう。柳田に書いているように、自分は狂ってしまうかもしれないというのはうそじゃないですね。

長谷川  あれは本当です。

中沢  だから熊弥さんに対しても複雑な対応をしていますね。子供というのは、大体、親の表現だから、熊弥さんは確実に熊楠の何かを表現しているものですね。

長谷川  あれほどの大酒の人が酒をやめるというのはね。熊弥さんの発病でやめたわけですから、それは衝撃だったでしょう。

中沢  放っておいたら、多分、那智で熊楠が熊弥になっていたんじゃないか。それが田辺へ来て、ああいう町中へ来て抑えたわけです。抑えることは大事なことだと熊楠は考えていると思います。

    熊楠さんの生涯を書く仕事の中で、その視点を失ってもらいたくないと思います。人はよく、熊楠は狂気に満ちた巨人であるとか、野放図で奔放な男だとか書きますけれども、熊楠自身は、ほうっといたら狂ってしまうという意識を持った人だと思います。だから自分で意識して田辺の町中へ入ってきて、抑えている。抑えて、田辺なりの狂気の表現法をいろいろ模索していますでしょう。ところがそれが熊弥という部分で破綻してしまってあらわれてきた。それがいかに恐ろしいものか、熊楠はぎりぎりいっぱいのところまでいって、さわって知っているから、自分で自分の狂気を縛っているんだろう。そのことの方が、熊楠という人の偉さじゃないかというふうに僕は感じるんです。

長谷川  たしか、こういう言葉もあったような気がします、「これ以上自己の心理実験をやると気が狂うかもしらん」という。那智で盛んにやっていたことですからね。それで田辺へ来て、一方では田辺の梁山泊で、すってんてんに酒飲んで、もう一つは神社合祀反対の……。

中沢  あれもバランスをとっていますね。

長谷川  そうそう。

柳田の森、熊楠の森

中沢  話がロマンティックに広がっていくときに、熊楠は結構水を差してしまうところがありますでしょう。

    「燕石考」もそうですけれども、「燕石考」のよさは、アストロノミカル・ミソロジーみたいな、想像が肥大してしまったようなものに水をかけて、こんなものは地べたに転がっていたり、動物がつくったりしている現実の中に根拠があるんで、想像の中にあるものじゃないというひっくり返しをする。 ある点では南方民俗学は夢がない。現実主義的な側面がある。それは彼が科学者だということも関係しているかもしれない。

    「森」という視点をとってみましょう。柳田さんも森のことは何度も書きます。「神社の森」とか書いていますけれども、柳田さんが書くときはいつも祖霊なんですよ。

長谷川  結局、依りしろなんです。

中沢  霊というのは、森の上を行ってしまいます。山宮があって、山の上に本当の祖霊がいまします場所があるという考えにいたりつく。森自体は重要な場所なんですけれども、柳田の観念の中で重要なのはその上を飛翔して行く霊なんです。吉本隆明さんが柳田国男論を書いたときに、柳田国男というのは、飛行機みたいに、いつも地上の少し上を行く視点で見ているんだと書いているけれども、確かにそのとおりだなと思います。

    しかし、南方のは、地上を離れて霊みたいになって森の上を行ってしまうことをしないで、森の中へ入って、粘菌みたいに動いたり、昆虫みたいに動いたりする方を選んでいるなという気がしますね。

    だから、柳田にとっての神社合祀問題は、観念の中にある祖霊の問題と日本の神道にとって重要な森が結びついて、これはやらなければいけない社会運動であるというふうな理解をしていたと思いますけれども、南方みたいに、民俗学をやるにしても地べたにくっついた視点から上へ行かないんだと決意して民俗学をする人は、実際に森の中にいたり、森の中へ入ってやることの方が重要だった。神社合祀のときに、柳田が大事にしていたものと南方が大事にしていたものとは、確かに同じ破壊は受けているけれども、二人の対応が微妙に違うのは、その距離のとり方に関係していて、南方にとっては身を切られる事態であるけれども、柳田にとってはそれとは違う意味をもっていたのではないですか。

長谷川  そうだと思います。柳田さんにとっては、森というのはあくまでも依りしろとしての森なんです。南方さんにとって大事なのは、森の場合には下草なんです。中沢 木を見て森を見ない。

長谷川  木を存在せしめている下草ですね。それが隠花植物の世界なんです。

中沢  「燕石考」の場合も同じでしょう。いままでの神話学は森を上から見て分析しているけれども、南方はそれを逆転して下草にしたんです。燕石というのはいわば下草なんです。下草ははっていこうとする。今後の日本の民俗学で、このような思考法が生きていけるか、この点はとても大事なことだと思うんです。

    柳田の民俗学には、いま飽き足らないという意見がいっぱい出ていて、南方が持っていた視点みたいなものにもう一回接合していったらどうなるだろうと考えはじめている。これはかなり可能性のある方法だと思うけれども、そのときに大事なのは、長谷川さんがおっしゃったように、下草を行くやり方を徹底させていったらどうなるのかということの問題につながってくるんのではないか。

アメリカ時代の熊楠

中沢  長谷川さんは、今後のお仕事として、いま計画なさって進行しているのはどういうものですか。

長谷川  短期と長期に分けますと、長期は何といっても日記の続編ですが、短期的には一番大きな穴がアメリカ時代なんです。ロンドンはある程度わかるんですけれども、アメリカというのは、いままでのところ……。

    皆さん、柳田さんの「一番大切な壮年期を、いわば比較的無意味な仕事に暮らされていた」云々という言葉を非難はするけれども、実際、アメリカで何をしていたのかということははっきりわからないんです。

中沢  知りたいですね。

長谷川  たとえばアメリカのアナバーというところにミシガン大学があって、南方が二年以上もくらしますが……。

中沢  日本人が非常に大勢いるんですね。びっくりしますね。しかも郷里が同じ人間がいっぱいいるじゃないですか。

長谷川  二十五人もいるというのは驚異なんです。

    ミシガン大学の歴史も少し調べているんですけれども、あそこにおもしろい学長がいまして、それがキーパースンだと思うんですけれども、そのために日本人がたくさん集まっているんですね。

    エンジェルという学長なんですけれども、ある版のブリタニカではちゃんと項目があるほどの人物で、ミシガン大学というのは、その学長がいわば中興の祖みたいなもので、一躍一流大学にのし上がってくるんですよ。その方針がなかなか見事で、ご当人は国際法の大家なんです。国際法の大家だったということが、ミシガン大学で法律を学んだ人間が条約改正当時の日本においてはある程度の経歴になったということもあるんですね。

    それから、ミシガン大学では、アメリカでほとんど最初に近い段階でブラックとウーマンにカレッジを開放している。当然東洋の留学生にも開放的でしょう。また東部を除くと初めて医学部をつくっている。南方の友達でも二十五人のうち五人ぐらいは医学生なんです。それからヒストリー・オブ・アメリカの講座を全学につくるんです。これは一八七〇年代ですからね。相当な見識ですよ。とにかくミシガンが州になったのは、たしか一八三〇何年ですから。

中沢  おもしろい人物ですね。

長谷川  それでわんさと二十何人も日本の私費の留学生が……。

中沢  あの写真には異様なものを感じますね。何で日本人があんな田舎に行くんだと。

長谷川  しかも、それぞれが一応の面魂をしていますから。

    もう一つ探したいと思っているのは、『珍事評論』というのが三部ありまして、二部まではわかっているんです。一部は日記と一緒に出しました。第二部を今度全部出します。問題は第三部が見つかるかどうかなんです。それを今年の末か来年の初めぐらいに本にしたい……。それから、もう少し調べてアメリカ時代の骨格を大体つくりたい。なぜフロリダへ行ったのか。大体カリブ海をあちこち回ったというのは全部うそで、キューバしかいかないんですよ。そのときに、なぜフロリダからキューバへ行ったか。そして反転してロンドンへ行くわけですね。

中沢  その辺の急展開がわからないですね。

長谷川  そこのところがちょっと問題なんです。

中沢  大体の輪郭はつかんでいらっしゃるんですか。

長谷川  ええ。

中沢  それはお楽しみということですね。

(1992年8月17日、山の上ホテル)

[対談追記]

長谷川興蔵さんとの最初で最後の出会い

中沢 新一     

 私たちの世代の南方熊楠への関心のほとんどすべては、平凡社版の『南方熊楠全集』から出発している。そのために、この全集の編纂の中心人物であった長谷川興蔵さんは、いわば現代の南方研究の土台を築いた父親にあたる方で、 私には以前からとてもまぶしい存在だった。その長谷川さんに、この対談をきっかけにして、はじめてお会いした。人なつこい笑顔で私をむかえてくださった氏は、長い時間にわたって、しばしば大きく身体を揺らして笑いながら、楽しそうに私の質問に答えてくださった。そして、この出会いが、私には最初にして最後の出会いとなってしまったのだ。この日のすばらしい出会いの機会を持つことがなかったら、私はいつまでも悔いる気持ちを持ち続けていたにちがいない。

(『新文芸読本 南方熊楠』河出書房新社、1993年、所収)


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