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  長谷川さんと八坂書房

八坂 安守     

 長谷川興蔵氏の生涯については彼の親友であった前田棟一郎氏によって詳細な内容の一文が別に執筆されているので、私は前田氏の内容とできるだけ重複しないように心がけ、長谷川さん(以下、この表記にさせて頂く)と八坂書房との間の、特に長谷川さんが八坂書房のために携わってくれた企画・編集の仕事を中心にして、その跡をたどっていくことにしたい。その期間は当然ながら長谷川さんが平凡社を退社した年の一九八四年頃から亡くなった一九九二年末頃までの十年足らずが中心となるであろうが、長谷川さんに関する八坂書房の窓口は専ら私自身だったので、やはりそれ以前の長谷川さんと私の個人的なつき合いから始めなければなるまい。

 実は長谷川さんと知り会う以前に、平凡社内に知った人が幾人かあった。前田棟一郎、大森政虎氏などの方々である。前田氏は草野心平主宰の同人誌『歴程』の会合で一九七○年頃から時折顔を合わせていて、一緒に立ち寄る酒寮も新宿に二、三軒はあった。大森氏は私が企画・編集した『日本博物学史』(上野益三著、一九七三年十一月刊)の平凡社での刊行にお骨折りいただいてからのつき合いである。

 長谷川さんと初めて面識を得たのは多分もう少し後のことで、『全集』(以下、平凡社版『南方熊楠全集』、一九七一〜七五年を『全集』と略記)の完結前後のことではなかったかと思う。この頃から「前田、長谷川氏と会う」とか「長谷川氏と同道」といった手帖のメモ書きが月に一、二度は現れるようになるからである。多分何か用件があってのことではなく、気楽な酒席談笑の一宵のためであろう。

 長谷川さんが平凡社を退社(一九八四年六月末)するまでのほぼ十年間はお互いの勤めもあって、仕事絡みのつき合いはほとんどなく、長谷川、前田、八坂ほか旅行好きの仲間が数人集まって二、三日の気ままな小旅行を繰り返していた。高遠・伊良湖岬・輪島・小浜・日光・小川町などに出かけ、そのたびに車中でも酒宴の席でも、長谷川さんの蘊蓄を拝聴したものである。

 この間にただ一度だけ長谷川さんに企画の相談をもちかけたことがある。一九八三年の秋頃のことで、前記の『日本博物学史』の図説版を作ろうと考えた。長谷川さんも強い興味を示し、積極的にいろいろ示唆して下さった。この企画は編著者としては上野益三先生の了解も得ていたのだが、実現しなかった。高い予定価となって売れ行きに自信が持てなかったためである。

 いま思い返してみると、長谷川さんは平凡社に勤めていても比較的自由気ままに行動していて、旅に出ることも私の仕事をサポートして時間を割いてくれることもあまり気にかける様子もなかった。

 一九八四年の六月末日で長谷川さんは平凡社を退社したが、おつき合いはこれまでと変わることなく、むしろ会う機会が多くなっていたかも知れない。そんな或る日、恐らく退社後二、三ヶ月の頃のことだったと思う。日付の記録はないが、その日のことは妙に鮮明に覚えている。私はいつものように「学校」(草野心平氏が始めた居酒屋、新宿一丁目にあり、一九六○年六月より八八年十二月まで続いた)で飲んでいると、長谷川、前田両氏も現れ、忽ちにぎやかな小宴となった。退社まもなかった長谷川さんは余暇を満喫しているような風でふくよかな笑顔だった。彼の左右には前田さんと私が坐っていたが、突然私の耳もとに口を近づけて、「おい八坂、お前の所で南方熊楠の日記を出さないか」と切り出された。「ええ?」、あまりにも突飛な話に私は驚き、「まさか。それは平凡社さんの仕事でしょう」というと、彼は続けて「いや、平凡社はいいんだ。どうだ、やらないか」とさらに畳みかけるようにいう。私は一瞬、社の非力も頭を横切ったが咄嗟の判断で、「本当にいいんですか、うちでやっても。あなたがやって下さるんでしょうね。それだったらやらせてもらいます」と答えた。「じゃあやろう。じつは平凡社ではやらないことに決まったんだ」。この一宵の短い会話で『日記』(以下『南方熊楠日記』を『日記』と略記)の刊行が決まり、長谷川さんの八坂書房での仕事が始まった。一九八五年初秋のことである。数日後に来社した長谷川さんから、平凡社でも『日記』の他社からの刊行に異存はないと正式に返事があったことを聞いた。

 思わぬ方向に話が進み、私は急にあわただしい毎日となり、長谷川さんとの会合を重ねながら『日記』の内容を具体化する作業を進めていった。というより長谷川さんの方針を私は拝聴する立場で、時折社の事情を考慮して希望を述べるといった打ち合わせが続いた。『日記』の正式な企画書を長谷川さんから社に提出していただいたのは翌八六年三月二十五日となっている。二人の間ではすでに充分検討して作った企画書だったので、社内には内容案の報告という感じで即決され、正式にスタートした。その内容の概略は

 一、本来ならば日記の全容を逐一刊行すべきだが、(社の能力からみて)先ず第一期として初期の分から始める。

 一、その範囲は日記の残る一八八五 (明治十八)年から、熊楠が田辺で柳田国男と邂逅する年の一九一三(大正二)年頃までとする。この間の熊楠については客観的な資料が少なく、伝説的な話題で語られていることが多いので、そのためにも貴重な第一級資料となりうるであろう。 

 一、全四巻(予定)に収録。体裁はA5判上製凾入、9ポ二段組み、各巻四五○頁前後。

 一、日記は年代順に収録。巻末には『全集』未収録の評論・記録・書簡・関係資料などを収録日記の年  次に合わせて適宜併録する。

 一、刊行は三ヶ月間隔を目標とし、第一回配本(第一巻)は年内刊行(八六年内)とする。

 一、各巻の解題は長谷川が当たり、他に各巻の解説をつける。解説は飯倉照平、谷川健一、鶴見和子、 中沢新一の各氏に依頼する。

といったものであった。企画書提出の日の長谷川さんのノート(メモ)には次のような記録がみえる。「九月までに一、二巻分の入工完了、年内には一巻を出す、間隔は三ヶ月。四〜六月に出来るだけ未着手の日記を片付けること。各巻解題は長谷川。」これを見るとこの時点ですでに相当の解読と浄書は終わっていたものと思われる(六月の終わりには一巻分の原稿を印刷所に渡し終えている)。

 社としては先ず第一に田辺の南方家から『日記』刊行の許諾を得なければならない。これまでの交渉ではすべて親しくおつき合いの長谷川さんにお委せしていたが、 社としても正式にお願い申し上げるべきで、遅れ馳せながら八六年五月十七日に田辺を訪ね、南方文枝さんにお会いして『日記』刊行の許諾をいただいた。その夜は田辺湾のみえる伯扇閣に泊まり、翌日高山寺の熊楠の墓に詣でたことを覚えている。

 長谷川さんにはこの『日記』と並行してもうひとつの企画『江漢全集』(以下『司馬江漢全集』一九九二〜九四年を『江漢全集』と略記)にも参画してもらうことになっていた。この企画書も長谷川さんに作成してもらい、『日記』より約二ヶ月遅れて提出されている。『江漢全集』は長谷川さんの他に中村愿氏(岡倉天心研究者、現蘭花堂主人)と森登氏(司馬江漢研究者、現中央公論美術出版編集部)の二人にも参画していただいて、三人よる共同編集でということで作業を進めることにしたが、やはり中心は長谷川さんであった。編集委員は朝倉治彦・海野一隆・中山茂・成瀬不二雄ほかの方々にお願いした。全四巻の『日記』とほぼ同様の体裁をとり、刊行は『日記』に続けてと予定したが、『日記』の刊行が遅れ、しかも『江漢全集』中の作品写真や挿画図版の撮影などで手間どり、実際には大幅におくれて一九九二年末からとなった。

 『日記』『江漢全集』のほか、長谷川さんは今ひとつ大きな仕事に携わっていた。NHK出版から刊行された『原敬文書』(『原敬関係文書』、一九八四〜八九年、以下『原敬文書』と略記)の編集である。第一巻は彼が平凡社退社後に刊行され、『日記』の完結と同じ年にやはり完結している。『原敬文書』の編集室はNHKの近くの渋谷宇田川町にあったので、この数年間の長谷川さんは神田と渋谷を掛け持ちの移動で多忙な日々であったが、彼にとっては充実した毎日のようであった。

 『日記』と『江漢全集』の二つの企画がスタートしたので八坂書房の編集室は手狭になり、急遽近所に一室を借りて「両洋社」と名づけ、二つの企画を中心とした新しい編集室を作った。一九八六年四月のことである。机四つと応接室セット、本箱、キャビネット、冷蔵庫、湯沸しつきの流し台ぐらいの簡素な小室だったが、長谷川さんはこの部屋が随分と居心地よかったとみえて、週に三、四日は現れていた。この部屋には南方家から借り出していた『日記』の原本をはじめ、貴重な写真資料などが保管されていた。

 小編集室への来訪者も多かった。『日記』と『江漢全集』関係者はもちろんだが、長谷川さんや私の知り合いも多く訪ねてきて、夕方からはサロンの様相を呈する日も多かった。二人だけのときでも、どちらからともなくグラスを二つのテーブルの上におき、無言で飲みはじめる日々だった。

 『日記』の刊行は大幅に遅れて予定よりも約半年後の一九八七年七月に第一巻を出すことができた。内容案内などによって前評判も比較的よかったので、第一巻は三千部印刷している。第二巻以降は二千五百部ずつだったと思う。最終回の第四巻は八九年一月に出て完結した。

 『日記』の編集作業中のある日、私は長谷川さんに、『日記』完結後に出す新しい企画について相談した。八七年の終わりか八八年の始め頃のことである。数日を経て彼の口から矢継ぎばやに三つの企画を聞かされた。『南方熊楠アルバム』、『南方熊楠・土宜法竜往復書簡』および『南方熊楠百話』である。『アルバム』(『南方熊楠アルバム』一九九○年を以下『アルバム』と略記)については、かつて『全集』編集中に挿入する口絵のため熊楠関係の資料写真を多数集めた経験がある。『往復書簡』(『南方熊楠・土宜法竜往復書簡』一九九○年を以下『往復書簡』と略記)は先例として『南方熊楠・柳田国男往復書簡』があり、しかも南方家には土宜法竜から来た書簡が未発表のままでほぼ完全に一括保管されていることを確認している。『百話』(『南方熊楠百話』一九九一年を以下『百話』と略記)は既刊の『南方熊楠・人と思想』にならってさらに拡大し、現在までの熊楠に関するエッセイを集めて一冊にする、という趣旨であった。長谷川さんにとってはこの三つの企画はどれも内容をきわめて具体的に想定でき、いつでも実行に移せる企画だった。

 『日記』の最終巻の編集作業は人名索引や正誤表などもつけなければならず、面倒な作業が重なっていたにもかかわらず、この新しい企画も積極的に同時進行していった。この頃(八八〜九○年)の長谷川さんの仕事ぶりはまさに超人的としか言いようがなく、前田さんはじめ、みなでその異常な働きぶりを心配したものである。

 私の手帖によると、一九八九年二月十六日から十八日の三日間、長谷川さんと二人で飯能の奥にある旅館の大松閣へ出かけている。『アルバム』編集のためで「細項目拾い上げと頁決定、執筆者」とメモしている。それまでに集められた写真はすべて複写していたが、これを旅館の広い部屋に並べてみて、足りない部分を補わなければならない。その後三月と六月に二人で田辺を訪ねて南方家および記念館で不足の写真や資料の複写撮影を行っている。五月には他用もあって私はアメリカを訪ね、アナバーの大学周辺を撮影した。こうして『アルバム』は九○年の五月に刊行、現在は第六刷で、総部数は一万五千を超えている。

 『往復書簡』中の土宜法竜の手紙は南方家から一時借り出して編集室に保管していた。その後さらに新たに二通の手紙が京都栂尾の高山寺(ここには法竜の墓がある)に残っていることがわかり、一九八九年八月二十六日に長谷川さんと二人で訪ね、その手紙を二、三時間借り受け、市内までタクシーで往復してコピーをとらせてもらったこともあった。法竜は高僧らしく大変な達筆ですらすらとは読めない。編集室でコピーを眺めながら、わずか二、三行のためにくずし字辞典を片手に終日格闘したこともあった。『往復書簡』は九○年の十一月に刊行、発行部数も少なかったが、熊楠曼陀羅論の核心にふれる資料と喧伝されて、一年後には品切れとなった。

 『百話』は長谷川さんが「死後五十年という〃ひとくぎり に際して、改めて百篇の文章と資料を集めようと思いたった」とあとがきに記している通りである。これも長谷川さんの南方研究に注いできた並々ならぬ努力と情熱から生まれた賜物といえよう。百篇中、二、三篇は著者または著作権継承者との連絡がとれないものもあった。

 長谷川さんの熊楠への情熱はとどまるところを知らず、その後も『南方熊楠男色談義―岩田準一往復書簡』(一九九一年、月川和雄・長谷川興蔵共編)、『熊楠漫筆―南方熊楠未刊文集』(一九九一年、飯倉・鶴見・長谷川共編)と続き、さらに『南方熊楠曼陀羅論』(一九九二年、鶴見和子著)、『覚書・南方熊楠』(一九九三年、中瀬喜陽著)の企画も残してくれた。

 南方熊楠に関する長谷川さんの最後の大きな仕事は、河出文庫で企画された中沢新一個人監修の『南方熊楠コレクション』(全五冊、一九九一〜九二年)への参画だろう。編集担当の若い安島真一氏がたびたび編集室を訪ねて来ていたことを覚えている。

 一九九○年十月には「南方熊楠イベント」が田辺市で開かれ、翌年の一九九一年十一月二十一日、長谷川さんの多年にわたる南方熊楠研究への貢献で、第一回南方熊楠賞の特別賞を受賞した。そのお祝いをごく内輪の人びとで十一月三十日に高円寺の行きつけの酒場「華甲」で催した。

 一九九二年四月になって、長谷川さんは急に編集室に現れる日が少なくなった。話には聞いていたが彼とのつき合いで私はまだ遭遇したことはなかった彼の鬱病が出たようだとの噂だった。そして十五日頃の電話で、膠原病の疑いがあるので入院することにしたとの連絡を受けたときには社では大騒ぎになった。数日後、前田氏と一緒に国立駅北口前の喫茶店で長谷川さんと会うと、顔の数カ所に紫色の斑紋が出来ていて、腕に力がなく歩行がつらい。近々立川病院に入院予定で、いまは部屋の空くのを待っているということだった。

 五月一日、通院中だった立川病院に入院する。病名は膠原病皮膚筋炎。この日から八十余日後の七月二十二日に一時退院するが十月二十七日に再入院し、十二月十一日早朝に不帰の人となるまで、約四ヶ月の病院生活が始まる。入院二週間後の五月十四日から書きはじめている「病院日誌」の冒頭には次のようにある。

「五月十四日(木)晴。一日に入院以来、諸種の検査を受け、体調を整えてきたが本日よりプレドニゾロンの大量投与を始める。……大量投与前の本日の膠原病皮膚筋炎の症状を記しておく。発疹は顔面の蝶型のほか、首、胸、前腕、上腕。他に頭部に痛み、落せつ(屑)、若干の抜け毛あり。日中および夜中に熱感あり。ただし体温は36・1度。ももふくらはぎ、上腕から肩、上背にかけて筋肉の脱力感と、張った感じあり、手指に軽いしびれあり。ベッドにあお向けに寝て直ちに上半身を起こすことが出来ない。一旦横向きかうつ伏せになってから起きる状態である。立上がれば歩行はさして困難ではないが、階段の特に上がりはやや苦痛、歩行中落としたものをすぐ拾えない。手を充分に上げることもできない。ベッドで膝を立て、かかとを引きつけると、ももに鈍痛を感じる。以上。」(原文のママ)

 実に冷静に自病をみつめている。この日からプレドニゾロンという特効薬の大量投与に踏み切ることになるのだが、医師はその副作用が心配だったようだ。長谷川さんも覚悟の治療と考えたようである。やがて血糖値に変化が現れ、早朝は一○○以下の数値だが午後から夕方には三○○を越えるようになっていく。しかし入院中は殆ど毎日、三食とも残さずきれいに食べ終え、日記には「すべて食う」「完食」の文字が続いている。

 長谷川さんは入院中も病室で仕事を続けている。この頃進行途中であった『江漢全集』と『南方熊楠コレクション』の編集と雑誌『現代思想』の〈南方熊楠特集〉号などの仕事で、考える時間を充分にとれた病室の長谷川さんに編集者一同、いつも追いまわされていた。『江漢全集』の編集会議を数人が集まって病院廊下のロビーでやったこともある。気分の良い日には連れだって病院を出て、立川駅近くの喫茶店でコーヒーを飲むのが楽しみのようだった。廊下の歩行や階段の上り降りに杖が欲しいとのことだったので持参したことがあったが、六月の終わり頃だったのであまり役には立たなかったかも知れない。

 入院二ヶ月が過ぎた頃に突然退院が決まる。七月二十二日に退院し、以後約三ヶ月間、通院による注射治療が続く。この間、小康状態の日には高円寺の「華甲」にも出かけて一杯やることもあった。しかしそれも、二、三回のことで、時間とともに衰弱した風貌が露わになり、十月二十七日に再入院が決まった。やがて食べ物がのどを通らなくなり点滴に頼る日々が続く。再入院以降は日記をつける気力も失われていたのであろうか、残っていない。

 十二月一日夕方に病院を訪ねたが、話もできず、ただ手を握っただけで帰る。黙って枕もとに『江漢全集』の最初の巻(第一巻)の出来見本を置いて帰ってきたが、喜んでもらえたかどうか、表情はうかがえなかった。

 十二月十日午後五時、個室に移された長谷川さんは酸素吸入マスクをつけ、静かに目を閉じていた。付きそっておられた姪御さんがかすかに首を横に振られた。私は言葉もなく、そっと立ち去った。その夜、午前零時半頃、長谷川さん死去の電話をいただいた。十二月十一日午前零時二十八分、永眠。六十八歳の生涯であった。


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