『長谷川興蔵集 南方熊楠が撃つもの』のページへ <b>

『熊楠研究』のページへ <s>

サイトのホームへ <0>

  長谷川興蔵小伝

前田 棟一郎     

 長谷川興蔵は、生前、生い立ちをほとんど語らなかった。『赤松則良半生談』(平凡社東洋文庫317)が刊行されるまで、彼の生母が森鴎外最初の妻赤松登志子の妹登久子の娘であることを、私は知らなかった。それから一九五七年六月彼が平凡社に入社した折、同時に入った山田亨が、これまた鴎外の孫に当たるという、因縁めいた話も知らなかった。これらは後に触れることとして、まず、彼の出生から筆を進める。ただし、すべて彼の死後の聞き書きであることを冒頭に断っておく。また敬称をすべて省略した。ご寛恕を乞う。

 長谷川興蔵は一九二四(大正一三)年四月二○日、東京市芝区桜田久保町一八番地に生まれた。父は越後出身の医家長谷川駒八(一八八四年一一月一五日〜一九四二年一月七日)、母は佐久(一八九六年三月九日〜一九四六年六月三日)。父母ともに申年の一まわり違いである。佐久の母は海軍中将男爵赤松則良(一八四一〜一九二○)の次女登久子で、一八七五年神田錦町三丁目に生まれ、経済学者、法学博士土子金四郎に嫁し、一九三五年練馬区早宮一丁目で死去、享年六〇歳。登久子の姉が登志子で、先に触れたように一八八九年三月六日一八歳で鴎外に嫁ぎ、翌年九月一三日於菟を生んだ後一一月二七日離縁された。興蔵の述懐するところによれば、この祖母か母かあるいは両者に連れられて静岡県の赤松邸を訪れたとき、孔雀の歩む光景に驚愕したという。

 話を長谷川家に戻す。長兄は典男(一九一五年一○月七日〜一九八六年一一月五日)といい、三高、京大医学部を出て、滋賀県甲西町で医院を開いた。次兄は隆二(一九一九年五月一日〜一九九一年五月一六日)で、東京外語フランス語科を出て京都外語の教授を勤めた。隆二には二卵性双生児のふみ子が健在で、一九四四年会社員川上和一と上海で結婚、今日に至っている。

 以下興蔵の少年時代を年譜ふうに列記する。

○一九三一年四月 芝区南桜小学校入学。

   本校はいま港区に属す。もと南佐久間町二の一六にあったが、関東大震災で亡われ、一九二八年四月田村町三の六の一に新築開校。鉄筋三階建で、彼は完成三年目のまだ新しい校舎に新入生として学んだことになる。

○一九三七年四月 府立第五中学校(現小石川高校)入学。平凡社社員で本校卒業生に市場泰男、栃折多喜郎、柴田安啓がいる。

○一九四二年四月 第一高等学校理乙入学。南寮科学班にいた。

○一九四四年九月 第一高等学校卒業。

○一九四四年一○月 東京帝国大学医学部薬学科入学。以後、毎年留年を繰り返す。

○一九五○年三月 同学部を中退したらしい。

 彼が河出書房の雑誌『知性』の編集員だったことは本人から聞いたが、いつの入社か定かでない。編集長だった山口瞳から

 「お前は井伏先生の宅へ原稿取りに行っても、将棋に勝ってはならん。お前のほうが腕が強過ぎる」

と注意された話は何度か聞かされた。第二次『知性』は一九五四年八月号から五七年四月号まで続き、山口瞳は五四年四月に入社している。井伏鱒二は五五年二月号に「一別以来」を載せていて、もし彼が井伏宅へ原稿取りに行ったとすれば、入社は五五年正月以前であろう。しかし彼にはこの頃複雑な事情があって身動きできなかった。河出入社は同年の早くて三月、遅くて八月頃と推定され、井伏と将棋を指さなかったのが事実のようである。

 さて、長谷川興蔵と私とのえにしは平凡社である。私は一九五二年春に入社して『小百科』の編集に携わった。彼の入社は五年後の一九五七年六月一日付で、山田亨とともに『世界大百科事典』理科系編集員として採用された。どんな経緯で平凡社に入社したのか、紹介者が誰だったのか、私は知らない。

 当時平凡社は『世界大百科事典』を刊行中で(五五年三月第一巻刊行)、本巻二八巻(のちに三一巻)の半ばくらいにさしかかっていた。月刊体制を標榜したものの、そうそう最初からうまくいく筈がなく、一冊に五〇日ないし四五日もかかった。人員不足の声が各分野からあがっており、中でも理科部門の生物関係が目立って手不足であった。このような編集体制の下で、長谷川、山田両名の入社はひときわ待望されたと思われる。ちなみに山田亨は仏文学者山田珠樹と森茉莉との間に、一九二五年六月一○日に生まれた。二男である。両人ともども鴎外と関係あり、の噂は社内にじきに広まったらしい。その山田は九五年五月二二日に亡くなった。

 入社時三三歳の長谷川は、一九五八年末本巻完結まで『世界大百科事典』編集者として働き、つづいて『図説科学大系』に移った。この企画は五九年九月から出発するが、彼は第四巻〈生命〉、第六巻〈人間〉などを担当したようである。

 ところが六一年二月一日、『国民百科事典』(全七巻。通称《白版》)第一巻が配本されるや増刷に次ぐ増刷となって二〇万部以上も売れた。にもかかわらず各月刊行の予定は、人員不足も手伝って第二巻が四月三○日、第三巻が八月三○日というように遅れるいっぽうであった。この時期私はセンター・グループに属していた。

 仕事の手順を大雑把に記すと、五十音順を無視して活字にした入工原稿の校了紙(小バリ。校正中のものもあれば入工遅れで初校段階のものもある)を音順に整えて、別進行の図版、写真、表の青焼(一部に間に合わなくて寸法のみ記入した紙。通称手形)とともにレイアウターが割り付けてページアップ、これを入念に校閲してから入工するのだが、センターを称するグループはこの最終校閲に責任を負う。たとえば本文と表との食い違い、写真のウラ焼き、サンショウウオの前趾が五本であるというような描図のミス、等々を発見、訂正していく役目である。

 刊行の遅延は売行き良好とウラハラに編集現場へ重くのしかかった。いっぽう五九年九月にスタートした『図説科学大系』は、道半ばにさしかかって暗中模索の状態であった。一時刊行をストップして『国民百科』の応援を、との社の要請に応えて部員全員が出向することに決まり、ここに『国民百科』の刊行プランは大いに改善され、六二年六月めでたく完結の運びとなった。

 この間彼は持病である鬱病のため、原稿を携えたまま雲隠れしたり、筆者名を落としたり、入院したりを繰り返して幾度か問題を起こした。

 私が彼と親しくなったのは『国民百科事典《緑版》』の索引編集の時、一九六六年夏の頃である。《白版》には索引がなかった。営業、月販会社、読者からの強い要望があって、改訂《緑版》編集の中ほどで急遽索引をつけることが決まった。そのため別働隊を組織しなくてはならない。校正室とOBを中心とした線引隊が編成された。できあがった索引を点検したところ、無用ないしは貧弱な内容の事項まで引いてある。一例を挙げればコマドリの鳴き声ヒンカラカラまで引いてある。衆目はこれを〃ヒンカラ索引 と呼んでこきおろした。友野代三編集局長の決断でやり直しが決まり、キャップに長谷川興蔵、ほか十名以上が組織されて再度線引を行ない、どうにか期日に間に合った。本巻の部分訂正が終了した段階で私も合流し、索引項目の校閲を泊り込みで担当した。庶務掛として山田亨はその才能を十分に発揮した。もと『世界美術全集』編集部の使っていた部屋をわれわれは根城にしたが、呑ん兵衛どもの要望を充たすべく、彼はニッカウヰスキーの角瓶を連日升本へ注文し、やがて空き瓶を部屋(十畳くらいか)の壁面をほとんど一周するほどに並べた。

 《緑版》『国民百科事典』は全八巻となって一九六六年一○月二○日一括刊行され、ほどほどの成績を挙げ、編集部および関係者一同は慰労を兼ねて山梨県西沢渓谷に遊んだ。

 池田敏雄、石井雅男両書籍担当の間で、『南方熊楠全集』の構想が浮かんだのは六六年か翌六七年の頃らしい。企画当初は乾元社版の訂正ていどと考え、役員会の承認が出たのが六七年七月二八日(石井メモ)。事務方として林澄子が加わったのが七○年、このあとメンバーに長谷川興蔵が、遅れて鈴木晋一も加わるのだが、と同時に企画は根本から練り直されて、七一年二月第一巻が刊行の運びとなる。

 百科ブームで莫大な利益を得た平凡社は、旧満鉄副総裁の東京官舎だった四番町四の一の社屋を毀ち、あらたに地上八階地下二階建の新社屋を建設して七二年三月二四日大々的に落成記念を行う。机や椅子もすべて新調した。ことにハーマン・ミラー製の椅子のお椀のようなデザインは毀誉褒貶さまざまであった。

 この年六月、社員旅行に新幹線利用を折り込んだ。長谷川の企画と聞いた。行先は、比叡山をバス・ドライブして四明岳から峰道へ、琵琶湖大橋を経て大津に出、ホテル紅葉に一泊して解散というものであった。この後彼を中心に有志を募って浜大津から竹生島を回り、安曇川で中江藤樹の墓に詣で、次いで興聖寺、秀隣寺庭園などを見て栃生に泊り、翌日帰った。

 彼の旅好みは社員旅行のみにとどまらず、仲間を誘って東京近郊へしばしばでかけた。酔えば白居易の「長恨歌」七言百二十句を残らず吟じた。またgout(痛風)に二種あり、一は金持の痛風でキャヴィアを食べる故、一は貧乏人の痛風で焼鳥を食べる故、これはディケンズからの借用という。

 『南方熊楠全集』が完結したのは七五年八月だが、一仕事終った安堵感、解放感からか、翌七六年には二度小旅行を企てた、六○年安保の頃新宿御苑前に開店した草野心平のバー「学校」で知り合った八坂書房社長八坂安守やらを混じえて、四月初高遠と、五月田原、伊良湖岬から津回遊とである。高遠は城址公園の桜と江島の墓、田原には渡辺崋山記念館がある。彼は歴史の旅をとくに好んだ。以後、小浜、越前岬、福井(七七年)、輪島、金沢(七八年)、小川町(八○年)、少し置いて伊東(八四年)、青梅観梅(八五年)等々、切りがない。

 ユニークな感覚の編集者で『世界文化年鑑』や『人間の記録双書』に携った兒玉惇が逝き、お通夜が一九七九年六月二日小金井市中町の自宅で行われたとき、鶴見俊輔、しまね・きよし、鈴木均、立石巌らに混じって長谷川の姿も見受けられたし、先に触れたバー学校の開校二○年記念祝賀会が、八○年六月六日厚生年金会館で開かれた折も、柳沢正司・越路店長と談笑する彼の声が聞こえた。いささか渋っていたのを、私が強く勧めると、出席する気になったのである。

 彼の囲碁の腕前はさほどではなかった(マア四、五級くらいか)が、将棋は強かった。河出の『知性』編集部にいたときの山口瞳編集長の言葉は前述したが、平凡社の東洋文庫に入っている『詰むや詰まざるや』(282 一九七五年一二月刊)、『続・詰むや詰まざるや』(335 一九七八年七月刊)は佐藤伸と長谷川興蔵との協力の結果である。彼らは箱根にあったHOLPの社員研修所に籠りっ切りで棋譜研究を続けたようだが、長谷川の棋力はアマ四、五段とみられ、平凡社の昼休みのザル将棋の面々とは月とスッポンだと聞いた。いつごろ将棋の力をつけたものか、履歴を調べても分からない。

 同じく東洋文庫に入っている、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(240 一九七三年一○月刊)についても一言触れたい。「いつの間に調べ上げたのか余人の知らぬ企画を、興蔵さんは持ってくる」とは林澄子の述懐である。

 彼は六○歳、一九八四年六月末日を以て平凡社を退職した。常日ごろ、送別には留別で応えるのが古来のしきたりだから俺はやる。ただ前者は複数、後者は独り、財布の心配なきにしもあらず、と若干弱気ものぞかせていたけれど、六月二九日夕、当時平凡社は社屋を子供服メーカーのワールドに売却して、三番町五、イギリス大使館の近くに間借りしていたのだが、そこの広間を借りてオールド・パーを一ダース注文、念願の留別会を開いた。多数の参加があって大満足の体であった。

 私は彼より三年前の一九八一年四月末にリストラで退職し、日本放送出版協会に通っていた。

 一九八一年は原敬暗殺満六○年に当たる。折も折ちょうどこのころ原の郷里盛岡の土蔵から文書がぎっしり詰まった鞄が発見された。このおびただしい書翰と書類を出版する話がまとまって日本放送出版協会が版元を務めることになった。推薦された私はこの『原敬関係文書』の事務方を引き受けたが、膨大な企画の露はらいとして一般向読者を対象としたNHKブックスに、山本四郎京都女子大教授編『原敬をめぐる人びと』(一九八一年一○月刊)、『続原敬をめぐる人びと』(一九八三年八月刊)の編集と校正を、同時に退社した平凡社校正課長大沢六郎とともに担当した。大沢を加えたのは長谷川の主張に従ったからで、彼の他人の能力を見抜く眼力はきわめて鋭かったのである。事実、大沢の校正力は抜群で、原文校正をもよくしたから、関係文書完結への大きな原動力となった。

 さて、平凡社と日本放送出版協会との掛持ちを続けていた長谷川が退社して、毎日渋谷の宇田川町へつめるようになると仕事もずいぶんはかどり、装丁やら内容見本、推薦者の選定と依頼、この他盛岡市にある原敬記念館の取材などを大車輪でこなすことができた。

 原敬関係文書研究会が京都に置かれ、文書の解読、書き起こしに当たり、そこから送られてくる原稿を整理、指定して印刷所へ回すのがわれわれの仕事であった。ガリ版、こんにゃく版、活版などで読み取り可能な文書は原文書のコピーで、解読を要する書翰等は新たに書き起こし原稿として渡す。印刷所は渡された原稿に基づいてゲラ刷を出し、これを大沢が校正する、という仕組みで、書き起こしに付きものの誤読誤記は、大沢の原文校正による網で洩れなく御用となる。関係文書の第三回配本までは書翰篇だった。後に計算してみると、七一二人二三四八通の書翰を活字化したことになる。年代は明治から大正にかけて、巻紙、墨書による候文がほとんどである。そのため用字は正字体を原則とし、かな遣い、送りがな、清濁は原形通りとするなど、「凡例」についてはすべて長谷川が定めた。そして恐らく著者校正も含めて数校を要すると思われるので、当時まだ活版印刷部門を稼働させていた三秀舎に植字、印刷を依頼した。

 文書の書き起こしについて今でも記憶に残るこんな話がある。京都から送られた原稿に「此二事」とあるのがどうしても納得できない。原文書のコピーを探し出してしばらく凝視、「分かった」と長谷川が言う。「些事だ!」 つまり「二」が筆の勢いから「此」と離れて下方へ大きく垂れていたのだ。彼はいくら原文書通りでも意味が通じなければ駄目だ、と口癖のように言った。

 『関係文書』は書翰篇三巻、書類篇七巻に別巻索引という大冊で、書翰篇一が一九八四年六月、書翰篇二が一○月、書翰篇三が八五年三月に発行された。つづいて書類篇に入り、修行時代、外務省、農商務省、大阪毎日新聞、西園寺内閣内務大臣、政友会総裁と、原敬の経歴を辿りつつ多彩多忙な日々を送った。官庁文書が増えるに従って表組み書類もますます多様となり、複雑さを加えたため、活字のヴェテラン長谷川に表のすべてを一任した。また既に活字化されている文書はこれを省略するという原則があるので、国会図書館へ連日通いつづけることもあった。こうして八九年八月二○日、補遺、人名索引を含む別巻第一一回配本が刊行の運びとなってめでたく完結した。いっぽう長谷川は『南方熊楠日記』全四巻を八坂書房で刊行するという超人的力業を演じた。時に六五歳であった。

 遅ればせながらここで長谷川興蔵の風貌を叙して置くのもむだではあるまい。背丈は私と同じ一メートル六八か六九センチくらい、側頭部をかなり上まで刈り上げた短髪に、ポマードをこってり塗り付けてオールバックとしていた。ひとえの上瞼がやや垂れたその奥に、黒目勝ちの鋭い瞳孔がのぞいていた。歳を経るにつれ猫背の具合が増したから、背丈はもう少し低くなったかも知れない。煙草を切らしたことがなく、缶入の両切ピースをもっとも好んだ。洋服は鉄紺ないし羊羹色の三つ揃い、時折チョッキの胸ポケットから懐中時計をキザに取り出した。酒をこよなく愛で、肴もこれまた存分につついて、俺はイジキタナイノダと言った。日本そばが殊のほか好物で、NHK前のおくむらへは時間をずらした昼食によく通った。ビールかお銚子をつけてもらって午後三時過ぎまでねばることもあった。大沢六郎も負けず劣らず酒好き煙草好きであったが、こちらは専らパイプ党で、ハーフ・アンド・ハーフをくゆらしていた。酒は度の強いウォトカや焼酎、ウィスキーを好み、時に乱れた。その大沢が一九八八年二月二一日東京医大病院で亡くなった。食道癌であった。『関係文書』第九巻の校正が進行中であった。この巻には、「地方新聞雑誌通信内情調」と題する、明治三九、四○年内務省調査の無慮四○○ページ近い表が載る予定であった。あわてたわれわれは、元平凡社の森一雄校正主任に懇願して急場をしのいだ。大沢六郎の告別式は堀之内の妙法寺で行われ、一時は俳優を志したという童顔大沢の死に顔が良かった。

 一九八九年は長谷川興蔵にとって『南方熊楠日記』と『原敬関係文書』との完結という、記念すべき年となった。旅行のほうも以前に増して幾回も企てられた。例えばこの年一一月の九州めぐり、翌九○年一○月の四国路、九一年三月の吉野梅郷歩き、六月の飛騨高山行というふうに。そして一一月二一日第一回南方熊楠賞特別賞の授与が決まったのである。これより前の一○月二五日には熊楠新発見とか題した自伝ふうの原稿を読む彼の姿がNHKで放映され、一○月二八日朝日新聞夕刊で特別賞受賞が報じられた。彼がいなかったら、のちの南方研究はありえなかったが、このとき余命は一年と少々であった。

 一九九二年四月初め、彼が鬱病らしいとの風聞を耳にしたのだが、同月二五日、顔面に湿疹ができて立川病院でみてもらったところ膠原病の疑いがあると診断された旨、本人から電話があった。膠原病は治療法がないと私も承知していたから、たいへんな事態に驚いた。翌日八坂安守を伴って国立駅北口の白十字で彼に面会した。みると両眼の周囲が紫色に変り、筋力も衰えて腕が挙がらず、階段の上り下りがきついと訴えた。とりあえず来月入院して服薬一か月くらいと言う。言葉通り五月一日国立立川病院へ入院。以下経過を手短かに辿ることにする。

○五月一四日よりプレドニゾロン投薬開始。

○五月二二日 電話で頼まれた電気剃刀、ライター、テルモス、座椅子を買う。

○五月二四日 大森政虎、津野輔猷とともに見舞う。顔面に蝶紅斑という発疹痕が残り、赤く腫れている。

○五月二八日 九州別府から上京した元平凡社社員阿部義郎を案内して見舞う。

○六月一日 依頼された板(30×60センチ)を持参。机の代用にするつもり。

○七月一日 立川病院へ見舞う。同行津野輔猷、井上禮子、大沼陽子。二二日に退院、あとは通院ですむ とのこと。恢復が速いのに驚く。窓框に本をギッシリ並べている。

○九月九日 重陽。高円寺の華甲一周年を祝うとて仲間が集り、彼も立ち寄る。

○九月二五日 彼を伴って華甲へ。ただし背中は曲がり八十老翁のよう。

○一○月二七日 立川病院へ再入院。

○一一月一日 ものが食えぬと電話してくる。食道癌か。大沢六郎の例が頭を横切る。

○一一月四日 ものが食えぬと電話あり。点滴中。

○一一月八日 立川病院へ行く。一○月二七日以降ものが食えず、糖尿、肝機能不全、食道狭窄と言う。一日当り一・六リットル点滴している由。癌とは言わぬが本人は気付いているようだ。

○一一月二五日 立川病院へ見舞う。

○一二月四日 義兄川上和一から電話あり、命旦夕に迫り個室へ移ったと。

○一二月五日 午前一○時立川病院へ。午後一時平凡社OB会で出版クラブへ。その席で長谷川は退職金をもらわず、厚生年金支給の申請もしていないと聞く。

○一二月一○日 酸素呼吸を始める。

○一二月一一日 ○時二八分永眠。享年六八歳。

○一二月一二日 一二時国分寺市西恋ヶ窪東福寺にて葬儀(私は急用で大分へ出向き欠席した)。

○一九九三年四月九日 飯田橋のホテル・エドモントで「長谷川興蔵さんを偲ぶ会」開催。

○一二月一一日 高円寺・華甲で一周忌。この日八王子上川霊園二区一六番八二号の川上家墓所に詣で、ウィスキーを供える。

○一九九四年一二月一○日 高円寺・華甲で三周忌。


[このページのはじめへ]

[前へ] <p> [目次へ] <b> [次へ] <n>