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  長谷川からの一通の手紙

川出 由己     

 真珠湾攻撃から四ヶ月の一九四二年四月、一七歳のぼくは一高に入学した。理科乙類、ドイツ語を第一外国語とするクラス三つのうち、医者の卵が大部分のクラスだった(ぼくは医科志望ではなかったが)。教室の席順は身長順に決められていて、ぼくは長谷川と佐々木亙にはさまれていた(これはたいへんな幸運だった)。

三人はじきに仲良くなった。 ぼくは神戸一中(バンカラと軍国風のカーキ色の制服が有名だった) の出身で、東京は初めて、家族と離れるのも初めてで、大いなる解放感にひたると同時に、自分の世界の狭さを存分に感じることにもなった。長谷川はぼくにとっては典型的な東京人、それも才気あふれ、 洗練されて皮肉な下町っ子だった。そして佐々木は対照的に、山の手の代表だった。

 ぼくが理科に入ったのは、理系を志望したわけではなく、もっぱら徴兵猶予があったからだ。一高にはいった解放感のなかで、理科の勉強はすっかり怠けて、小説を読みふけったり、 だんだんひどくなる戦時生活のなかで、あちこちの小さな映画館で、まだ辛うじてやっていた戦前のフランスやドイツの映画を探して歩いたりした。長谷川もまた、理科あるいは医科を志望して入学してきたようには思えない。何しろこと文学に関しては、たいへんな知識と批評眼、それに愛情の持ち主で、ぼくは圧倒されながらたくさんのことを教えられた。

いまだに記憶の底にかすかに張りついているのは、彼があの、少しくぐもるような声で口ずさんだ次のような詩句の断片である。詩には縁の薄いぼくに、衝撃を与えてくれたものだった。(次の詩句は、ただそんな感じで記憶にあるというだけで、正確なものではない。)

〃ここ過ぎて、永遠(とわ)のなげきに〃

ダンテ『神曲』地獄編の有名な一節らしいが、〃ここ過ぎて〃は北原白秋の『邪宗門』だったのかもしれない。そして

〃かはいさうに、あしのうらには陽が当たる……浅草の馬道〃

これも白秋、『思ひ出』にある。

〃かの平和なるひびき 町より来る〃

はヴェルレーヌ。このあとに、『珊瑚集』ならば、〃君、過ぎし日に何をかなせし云々〃と来る。 十八歳の長谷川に、すでにそんな感懐か、感傷があったのだろうか。やはらかい物音が町からやってくる、というのは、あるいは彼の家での実感だったのかもしれない。彼が一度自宅によんでくれたことがあった。たしか新橋の、裏通りのほう、とあるビルの狭い急な階段を上がって行くと、思いがけない所に、という感じで彼のうちの住居が現れた、そして彼のおふくろさんが歓迎して下さったのだろう、着物姿のおふくろさんが長火鉢の向こうにすわっている、というような図柄が記憶に刻まれているが、はたして正確かどうか。ぼくの他に誰がいたか、何をご馳走になったか、全く覚えがない、ただ狭い階段を昇って行ったことがぼくの心に強い印象を与えたのだった。

  ――往事渺茫――

 長谷川の風貌姿勢、やや顔色が悪く、猫背気味で、弊衣破帽、皮肉な目つきで微笑んだり、肩をゆすって大笑いする様子などは、今でもありありと眼前に思い浮かべることができるのに、いざ具体的なこととなると、ほとんど記憶が残っていないのは実に残念である。

 思い返せば、彼と親密だったのは、一年に過ぎなかったようだ。二年生になるときに、佐々木とぼくは理乙の別のクラスに移され、そして高校三年のはずが戦争で二年半に短縮されて、一九四四年九月に卒業してからは、彼は医学部(薬学)、ぼくは理学部(化学)と、別れ別れになった。戦争末期から敗戦後の混乱期、めいめいが生きていくのが精一杯という時期を経て、ぼくは京都に住みつき、長谷川とはすっかり接触を失った。

 それから四十年あまりもたって一九九一年一〇月、彼が南方熊楠賞を受けたことを新聞で知り、そんな仕事をしていたのかと驚くとともに、懐旧の念に耐えず、ぼくは手紙を出したのだ。嬉しいことに彼はじきに返事をくれた。 お互いに近いうちに会おうとやりとりするうちに、彼は病気になり、出不精のぼくの上を月日は遠慮なく過ぎてゆき、翌一九九二年一二月、ふたたび新聞紙上で彼の死を知ることになった。後悔先に立たず。

 彼がはじめにくれた手紙は、私信ではあるが、ぜひここに紹介したいと思う。これについては、一高の昭和一九年卒業の同窓生が、卒業五十周年(一九九四年)を期に出版した『学徒出陣――星霜五十年』に簡単に書いたことがあるが、それがこちらの読者の目に触れることはおそらくほとんどないだろうから、あらためてここに全文を示すことを許してほしい。八坂書房の二百字詰、縦書き原稿用紙三枚に、達筆とはいえない、几帳面な文字がきちんと桝目を埋めている。

 拝啓。御手紙なつかしく拝見しました。論文集も落手しました。

 五十年前の記憶はまことに茫々としています。 奇妙な、必ずしも明るくはなかった学生生活でしたが、貴兄や佐々木兄との交遊の断片は、記憶の霧の底からよみがえってくることがあります。東京から関西まで半日以上もかかる汽車に乗って、神戸へ貴兄をたずねたこともありました。たしか沈丁花の香りのする季節でしたが。……半世紀の歳月が流れ去ったことだけは、どうやら確実のようです。

小生は結局、大学を卒業せず、妻子も持たず、徒に馬齢を重ねました。学生運動から左翼活動に入り、挫折を経験し、三十年近く編集者として生活し、定年後は、南方熊楠という在野の学者の資料の研究を中心に、幾つかの出版社を相手に、自分の好みにあった編集だけにたずさわっています。

  孤房弄筆歳年移  一誤生涯何可追

お送りいただいた本は「はじめに」 だけ読んでこの筆を執りました。どうやら「研究遠望」だけは門外漢にも読めそうに思いますので、年末年始に一読したいと思います。

 関西方面には年に数回は参りますから、一度機会を得てお目にかかりたいと思います。

         右とりあえず御返事まで。 不一

  一九九一年十二月二十五日

                   長谷川興蔵

 川出由己様 硯北

 短い文章の中に、ぼくの全く知らない彼の長い年月、そして深い感慨がみごとにこめられていて、ぼくは胸を衝かれた。情けないことに、彼が神戸までやってきてくれたことは全く記憶がない。「奇妙な、必ずしも明るくはなかった学生生活」――そう、年をとってからは一高の二年半は宝石のように貴重で、輝いて見えるが、その中にいたときは、暗い気持ちの方がずっと強かった。大人になろうとする少年の鬱屈に、戦争という巨大な重石がのしかかっていた。

 一高は全寮制で、一室十人くらい、スポーツ関係その他いろいろの部ごとに部屋が割り当てられていたが、何の部にも属さない自由が認められていて、そういう連中の入る「一般部屋」があちこちにあり(一般部屋は湿気が多いとか、便所の隣とか、概して条件のよくない所が多かった)、一匹狼や奇人・変人の巣になった。長谷川は終始一般部屋だったと思う(ぼくも最初の三ヶ月以外はそれだった)。社会に出てからも、彼はいわば一般部屋暮らしの心情を貫いた、といえるかもしれない。

 彼が南方熊楠という対象を見出し、彼の豊かな才能と感性を発揮し得たことは実によろこばしいことだった。しかも日記の校訂など、地味で骨の折れる資料研究という仕事を選んだことに、ぼくは深く心を打たれる。正味わずか一年のつきあい、しかも半世紀も前のことで、具体的な思い出がいくらも残っていないというのに、これほど彼の「存在」がはっきり感じられるのは、どうやら彼の魂の一部が、ぼくのなかに入りこんで生きつづけているのに違いない。


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