『長谷川興蔵集 南方熊楠が撃つもの』のページへ <b>

『熊楠研究』のページへ <s>

サイトのホームへ <0>


  長谷川君追想

佐々木 亙     

 君にはじめて会ったのは、六十年の昔、旧制第一高等学校に入った時だ。

 その前年の暮れ、大東亜戦争と謳って始めた戦争の戦況は緒戦の華やかさを見る見る失い、学校での授業時間は次々に軍需工場等への動員に回され、しかも本来三年の年限を半年端折って未完成のまま、卒業という名だけで放り出される羽目に我々は逢った。

 しかし、慌ただしくはあったが素晴らしい一時期を享受できたと思う。良き師友に恵まれたおかげだ。往事は茫々、君に言わせれば「奇妙な、しかし必ずしも明るくはない」時期を、記憶の底から呼び出そうとして浮かんでくるのは切れ切れの断片でしかないが、君への鎮魂の一端になればと願って記す。

 旧制高等学校の授業時間は二つの外国語が圧倒的に多く、理科のクラスにも国語漢文の正課の授業があった。どの科目にも風格豊かな「名物教授」がおられて、その薫陶を受けたものだ。

 漢文を受け持たれたのは阿藤伯海先生で、教科書には『大学』を使われたが、教科書とは名のみ、講義の中味は唐詩からロシアやフランスの小説、はては明治大正期の小説家の文体論に及ぶ一種の文学論のようなものだった。

 ある時の授業では、黒板に端正な字体で七言の詩を書かれた。「少陵野老呑声哭」で始まる杜甫の詩であり、また王勃の「滕王閣」で、書き終わって音訓まじりで淡々と読む先生の声はむしろ低く、王勃が如何に天才的な詩人であったか、また、杜甫、李白をシラー、ゲーテに対置して説かれたのを思い出す。

 これだけでは阿藤先生の思い出になってしまうが、君と僕が共にした唐詩への親近感は確かに先生の講義が引き出したものに違いない。平仄の知識もなく音韻的な詩興を持ち得るはずはないのだが、日本流の音訓読みによっても漢詩は味うに耐えるものということを先生の唐詩講義によって教えられた。君の唐詩についての造詣は既に深く、また君の好みは杜甫の感慨よりは李白や賀知章の飄逸に近かったと思う。

 小説から哲学書まで、乱読耽読の日常で、二人とも教室での授業一般にはあまり熱心でなかったような気がするが、それでもお互い落第もせず二年に進級した。クラスは分かれたが、寮では同じフロアの一つか二つを隔てた部屋で卒業までの一年半をすごした

 ただ勤労動員が繁くなるにつれ、顔を合わせる機会は殆ど無くなった。生物班に参加していた君はどこか別の動員先に出ていたのかもしれない。大学の進路を君は医学部薬学に、僕は工学部航空学科にとり、卒業の日に校門で別れて以後、お互い疎遠になったまま、会う機会をもつことは遂になかった。

 やがて敗戦を迎え、君自身が川出宛の手紙に書いているように、学生運動から左翼活動に入ったとは風の便りに聞いたが、一高時代の飄々とした高踏的な理知的な君の姿からは、僕には想像も出来ないことだった。

 ただ学業半ばで軍隊にとられ、父母たちの国の未来のためと己に言い聞かせながら戦陣に散った同窓生、そしてその近親の人達の無念に、 なにかの折りに触れたとき、君の内に血が騒ぐのを止め得なかったかと思うばかりだ。

そう言えば、一高時代にはこんなことがあった。あるとき文庫版のエンゲルスの本を、読んでみるかい、といって貸してくれた。好奇心から開いてはみたが、何が面白いのやら有り難いのやら僕にはさっぱり分からず、二頁ばかりで投げだしてしまった。この手の本は持っているだけで憲兵隊に引つばられたご時世だった。君の心の中には左翼への思いが既にあったのかと今にして思う。   

 敗戦から四十年余りを経たある日、近所の図書館で偶然手にとったのが君の手になる南方熊楠の書簡集だった。そしてほとんど同じ頃、 君の南方熊楠賞受賞を知らせる川出からの来信を受け取った。熊楠が残した膨大な、そして読みやすくはない手跡を丹念に考証する君を想像するのは、心休まることだった。それは和漢の素養、生物の学識のそなえをまって、はじめて成し遂げられる事業だから。しかし、三人で酒を酌み交わす日を待たず君は旅だってしまった。それからまた十年が過ぎようとしている。

  花発多風雨 人生足別離

の感慨は、年を重ねるにつれ切なものがある。


[このページのはじめへ]

[前へ] <p> [目次へ] <b> [次へ] <n>