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  長谷川興蔵の思い出

銀林 浩     

 1.私が旧制第一高等学校へ入学したのは、敗戦の年の一九四五年。当時一高は全寮制だったので、数学の学習が活発だと聞いていた科学班というものに入寮した。そこですぐ紹介されたのが、木下素夫、通称「ホッテン」と長谷川興蔵であった。木下は典型的な弊衣破帽、尻を突き出した格好はまさに渾名の通りホッテントットそっくり。長谷川は木下よりはましなものの、大きな顔に派手なニキビと腫れ物がある堂々たる体躯で一度見たら決して忘れられない。以後のちのちまでも、このお二人にご厄介になろうとは、その当時は夢にも思わなかった。

 2.この御両人はともに一九四二年入学だが、木下は中学四修の一六歳で一高合格という秀才。肺浸潤と教練全欠席のために二年留年、いまだに在学中だったのに対して、長谷川は当時の在学期間短縮のため、二年半の一九四四年一〇月にはさっさと卒業し、順調に東京帝国大学の医学部薬学科に入学していた。だから同時入学とはいっても、木下は四月一日早生まれなので長谷川の方が二歳年長。ただどういうわけか、長谷川は引き続き科学班の寮に住んでいて、この二人を含む部屋は「元老部屋」と呼ばれ、格別の待遇を受けていた。

 この元老部屋には、東大理学部数学科へいった岩堀長慶氏とか、名古屋大学理学部物理学科で素粒子論をやっている山田英二といったそうそうたる先輩達がよくやってきて、何やら高尚な談義を交わしている。われわれ新入生などには近寄りがたい一種の聖域であった。いまだに思い浮かぶが、マッカーサー連合軍最高司令官の命令で直前になって中止された、例のいわゆる「2・1スト」(一九四七)の日、この元老部屋のドアに 「単独スト突入」と書いた一枚の紙が貼られていたのを見た。粋な抵抗と感心したのが、鮮やかに思い出される。ということは、このお二人ともすでにこの頃から若干は左翼がかっていたのかも知れない。そういった次第で、一高時代は親しくお付き合いするには、格が違いすぎた。

 この頃科学班では、マラルメの詩やヴァレリーの詩・評論が流行っていたのだが、その震源地は恐らく元老部屋だったのだろう。同じ年に入学して同室だった音楽史家の戸口幸策氏によると、長谷川によるヴァレリーの 「海辺の墓地」の文語調の試訳を見たことがあるそうだから、彼が震央だったのかも知れない。

 3. 私が東大理学部の数学科の入試を受けた一九四八年、なんと同じ受験会場に木下がいた。彼は一高を前年卒業し、一年浪人して私と同時の受験となったのであった。幸い二人とも合格して同窓となったわけで、私がこれら二人の先輩と親しくしていただいたのは、この東大時代からである。木下が頭脳明晰な秀才で抜群の主導力を備えていたのに対して、長谷川は優しい眼差しと慎重な知恵袋を持っていた。 そしてこれだけ性格が違うのに、このお二人の意見が食い違ったり、喧嘩などしたのは見たことがない。パパ木下、ママ長谷川というか、いやいっそイエズスととりなしのマリーアといった方がぴったりかも。少なくとも私にとってはそうだ。

 東大入学早々、木下は日本共産党に入党、私もその感化でやはり入党。長谷川についてははっきりしないが、アルバイトで東大職員組合の書記をしていたはずだから、もっと早くから入党していて木下を入れたのか、それとも木下といっしょにはいったのか? あるいは木下に引きずられて入党したものか? ともかくこうして同窓どころか、まさに同志(タヴァーリシチ)となったわけである。

 4.東大時代でまず起きたのが、一九四九年に学部の看護婦の寮であった芙蓉寮で、彼女らの一部が、医学部の封建的体質に抗議してハンストに突入するといういわゆる「芙蓉寮闘争」であった。その頃木下と私とは理学部の自治会(理学会)を「乗っ取って」、木下は確か委員長であったと思うが、この闘争支援や大学管理法反対のストライキ(同盟休校)の責任を取らされて、無期限停学処分となった。長谷川は当時東大正門前か赤門前の安下宿に暮らしていたと思うが、医学部であったし、東大職組にも関わっていたから、連日闘争指導に明け暮れていたに違いない。

 この一九四九年という年はその他にもいろいろな出来事があったが、翌一九五〇年はもっと波乱万丈となった。この年の正月コミンフォルムは、日本共産党の指導者野坂参三を名指しして「帝国主義美化の理論」とこき下ろし、共産党は、この批判を受け入れるべきだとする「国際派」と、それに反対する主流の「所感派」とに分裂した。当時の東大細胞は無論国際派だったため、党中央からは解散させられた。そこでひそかに独自の細胞をつくり、その外被として「反戦学生同盟(AG)」という大衆組織をつくって、五月のイールズ声明(学園からの左翼教授の追放を説く)反対の大衆的デモや、一〇月のレッドパージ反対の全国的同盟休校を闘った。木下・長谷川も私もこれらに参加した。

 ただ長谷川はこの一九五〇年三月で在学期間六年になるので、医学部の薬学科を中退している。これは文筆業あるいは作家の道に本格的に進もうと志したからだといわれている。私の方は自治会の委員長に就任していたので、この年の一〇月の全学ストの責任を取らされて退学処分となった。

 5.私が長谷川の本格的ご厄介になったのは、翌一九五一年のことである。この年の四月の東京都知事選挙に際して、所感派が加藤勘十を推したのに対抗して、国際派東大細胞は文学部教授で哲学者の出隆を担いだが、その選挙運動を飯田橋の駅前で始めた途端の四月五日、私も含めて一六人の東大生が、政令三二五号違反の容疑で一挙に逮捕されてしまった。この政令は占領軍への誹謗を禁じたもので、一九日間いくつかの警察署や小菅の東京拘置所をたらい回しされたのち、 四月二四日アメリカ占領軍の軍事裁判に移され、 どういうわけか一六人のうち三人のみが起訴(procecuted)され、これもどういうわけかそのうち二名が執行猶予つきの有罪判決を受けた。もちろんこの政令も判決も、この年の九月に調印されたサンフランシスコ平和条約の発効とともに消滅した。

 私は獄中にあってあまり知らなかったが、中間の拘留理由開示公判(四月一六日)で述べた一六人の陳述(全員完全黙秘を貫いたが、この日は氏名は除いてみんなしゃべった)が、ただちにルイ・アラゴン張りのレジスタンス風文体で起こされ、『吾が友に告げん』(東大学生救援会)という、初めはガリ版刷り、後に活版パンフレットの形で、一六人の拘留中からベストセラーとなっていた。それを書いたのが長谷川と湯地朝雄の両氏だったという。よく考えると驚くべき早書きといえる。そのお陰かそのせいか、 みんな一躍英雄になったようなものだが、これは運動資金(救援・選挙費用も含めて)にも多大の貢献をした。同時に長谷川の文才を初めておおやけに証明したようなものであった。

 6.この一六人事件以降国際派の学生運動は、一九五一年八月コミンフォルムが一転手の裏を返したように、所感派を支持したこともあって、 下降線の一途をたどる。私は退学中(?)でもあったので、反戦学生同盟の事務局をやることになり、しばらくは東大のグランド下の半地下室へ通った覚えがある。しかしそれも五一年秋には国際派そのものが解散、その外被の反戦学生同盟も解散で失業。その頃長谷川は同じグランド下で「わだつみ会」の事務局をやっていたはずだ。一方木下は、五〇年四月ほぼ一年で停学解除となり、五二年卒業、東京工大の遠山啓の研究室に特別研究生として移り、東大を去った。私も五二年三月には復学して五三年卒業、またも木下に誘われて東京工大の遠山研究室にいくことにした。こうして波乱の東大時代は終わった。

 7.木下は一九八七年心筋梗塞で急逝したが、その追悼文集の編集責任を私が、校正・印刷等の実務を長谷川が担当した。その追悼文中で彼は李白が張子房をしのんで歌った詩句: 「嘆息す 此の人去りて 蕭条として徐泗の 空しきを」を引いて悲しんだ。その女房役の長谷川がわずか五年後に他界するとは。

(2001年2月17日)


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