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  わが友長谷川興蔵と「わだつみ会」のこと

岡田 裕之     

 「君にひとつ偉大な男を紹介しよう」と木下素夫は私に言った。一九五一年の秋だった。

 木下は理学部数学科の学生であったが、私が彼と親しくなったのは数学からではなく、学生運動からであった。学生運動名士には、荒っぽいアジ演説を下手な論理で長々とぶつ活動家は少なくなかった。そうした人物のなかには仲間内の権力争いには敏感で付き合いかねる人物もいた。木下は処分を受けた活動家、リーダー、ではあったがこうした人物とは反対で、あくまでも「論理的な説得」を本領とし、五一年初の戸塚査問事件という共産党国際派内部のスパイ容疑とテロ事件を良く分析し処理した経過から、私は深く敬意を表していた。運動仲間でも彼は後に「学生運動のエラスムス」と回想されるほど、冷静、公平で、繊細かつ鋭利な人物だった。犠牲的であり、かつそれを〈名声で補償する〉気分は露ほどもなかった。その尊敬する木下が「偉大な人物」と言う。

 現れた長谷川は愛想のない無口でのっそりした大柄の人物だった。長谷川については、その年の春『吾が友に告げん』という一六学生軍裁事件救援のパンフレットの作成者と聞いていて名前は知っていた。国際派内では几帳面で事務的な能力からビューロー(書記局)役を務めた。『吾が友に告げん』はよく売れて国際派の運動資金となった、とのことだった。


 国際派が一九五一年秋に解散し、ビューローのあった御殿下グランド半地下(「御殿」は『三四郎』に出てくる池―心字池、漱石以来の俗称「三四郎池」―東側の山上にあった「山上御殿」のこと、この御殿跡の下、病院側にグランドがある。地下室は現在はない)の元銃器庫の一室がわだつみ会の事務室に使われたのが縁となり、長谷川はわだつみ会の仕事をするようになった。もっともこれは事情が逆で、長谷川がわだつみ会機関紙編集を引き受けたので、国際派ビューロー室がわだつみ会の部屋になったのかも知れない。(わだつみ会は、初任給八千円位の時代に貧困事務局学生に三千円くらいの給与を払ったから、生活費にはなったろう。)

 法文経二号館の経友会室、ないし一号館の一○番の民文協室が私の〃住所〃だったように、いずれにしてもその部屋が長谷川の東大における〃住所 だった。われわれは教室の講義に出るよりはそれぞれの〃住所〃の方に連日「出勤」した。

 彼は、四四年戦時中の帝国大学時代の医学部薬学科に入学したが、五○年初、帝大生として卒業する最後の機会を自ら放棄して、学生運動に専念した。木下とは一高科学班以来の親友である。二人が戦後再会したときには共にマルクス主義に共鳴していた。初対面のころから彼は医者兼作家への志を立てている、と推察した。文章に自信もあったのであろう。父親は医者で、母方の赤松家を通じて鴎外とは縁続きだったし、木下杢太郎、安部公房、加藤周一、と見習うべき先輩もいた。チェーホフもそうだった。


 わだつみ会は、四九年の『きけ わだつみのこえ』出版の成功を受け、五〇年四月に発足し、六月、折からの朝鮮戦争に対抗するように、映画『きけ、わだつみの声』を上映する。そして一〇月には機関紙『わだつみのこえ』を発行したが、これははじめは採算を無視していた。しかし『アカハタ』始め朝鮮戦争に反対する反米傾向の機関紙の多くが発禁となっていて、『わだつみのこえ』はよく読まれた。五二年初からは長谷川の編集となり、読者もふえ、機関紙売上収入は『きけ わだつみのこえ』の当初の印税と基金を失ったわだつみ会の資金の中心となった。

 反戦学生同盟が解散して私がわだつみ会事務局に移動した五二年春には、すでに長谷川は会の中心にあって活動していた。こうして私と長谷川二人は五二年春頃から五五年末まで、互いに二三歳から二七歳、二七歳から三一歳の青春をわだつみ会に捧げた。事務局員に、古山洋三、吉川勇一、平井隆、子安宣邦などの諸君がいた。共同生活でこそなかったが、会活動の毎日で無給無休の「労働」だった。文字通りこの青春の苦楽を四年間ともにしたのが長谷川だった。

 木下とは彼の死まで三五年間〃語り続けた が、〃生活を共にした〃実感は長谷川のほうが強い。結局、両親家族を除けば、長谷川こそ我が人生のもっとも長い「伴侶」だった。彼は九二年末六八歳で逝去したから、都合四〇年の親友であった。木下、長谷川、この二人の弔辞を読むことになろうとは、学生時代には夢想だにしなかったが、死ぬまで信頼しあえたのは友情の証しである。血縁、家族ではなかったからより純粋であったといえる。

 現在のわだつみ会は学生よりは市民、知識人の組織であるが、会の歴史を振り返ると設立初期の五〇年代にはもっぱら学生平和運動の組織体であった。長谷川はこの第一次わだつみ会の中心的な組織者である。

 というのは、五二年頃には、会は『きけ わだつみのこえ』の印税、販売益金を「わだつみ像」の制作や慰霊祭に費やし、出版不況で東大協組が予定した百万円の基金寄付金を削ってきたりで、財政上逼迫し行きづまっていて、この困難を財政上、運動上、組織上打開したのが機関紙を軸とする活動であり、これを推進、企画したのが長谷川だったからである。

 会のこの困難に、左翼運動の中で権威を振るっていた日本共産党主流が火炎ビン戦術をとり、平和運動を無視ないし軽視した事情が重なる。自治会を基盤とする大学生の政治運動は沈滞の極にあった。ここで会はカンパアニアではなしに、地道に持続的に幅広く平和運動を拡大するために機関紙の読者組織を考えた。平和を訴える面白くて啓蒙的な、それでいて現実と切り結ぶ新聞を販売すれば、運動の継続と財政基盤を同時に確保できる。火炎ビン戦術は学生平和運動をないがしろにしたから、その空白にわだつみ会が支持を広げる機会となった面があった。しかし会事務局は火炎ビン派(主流派)に対立し、警戒されたので、会が混乱する面もあった。後述する長谷川査問事件はその最大のものだった。


 長谷川は機関紙『わだつみのこえ』の編集企画において冴えていた。彼による特集記事の執筆、地方支部からの通信、読者の投書の採用選択、国際情勢の解説(これは主に私の仕事)、協力してくれる知識人への依頼原稿による文化欄の作成、と機関紙は急速に紙面を改善し、売れ行きを伸ばす。とくに読者は高校(新制高校)において伸びた。文化欄は、レンブラント論やドストエフスキー論、湯川秀樹の原爆論、林光の音楽論、遠山茂樹の歴史論、野間宏の文学論、許南麒の詩、朝倉摂の挿絵と、いま読み直しても高い水準のものだった。

 戦争の危機、徴兵制の危機には大学生より高校生の方が敏感であった。機関紙に徴兵反対署名運動を結び付けて会の運動定型が確立し、地方支部が勤労者を含めて増加してくる。 機関紙読者サークルすなわち会員支部組織、という運動は、組合なり自治会なり会費制の機関紙発行とは逆をいったもので、『わだつみのこえ』 の編集水準が高く、かつ面白いことから可能になった。因みに現在の会機関誌――おなじく『わだつみのこえ』を名乗るが――会費制・会員配布の原則で、五九年以来、一一三号まで発行されている。

 彼の編集で鮮やかに記憶に残っているのは、五二年宮城前広場メーデー事件の写真特集の第二六号と、第三〇号から四五号におよぶ村八分事件の発端から映画化(脚本・新藤兼人、演出・吉村公三郎)にいたる静岡県富士宮高校の運動のシリーズ記事だった。当事者の先生、生徒は大変な苦労であったろうが、主体が女子高校生でもあって機関紙は高校生によく読まれた。企画は二人で相談したが、断を下すのは長谷川だった。


 彼の才能はしかし編集の能力だけではなかった。 当時、月刊ないし旬刊の会機関紙を支えたのが、彼の実務活動であった。私はむしろいまでも驚嘆しているのだが、学生運動の活動家といえば弁は立つにしても、組織の健全財政には無頓着で、しまりのない者が多い。運動赤字はカンパ、カンパで埋めてゆき、カンパが無くなれば運動はお仕舞い、というスタイルが通常である。ところが長谷川は全く違った。機関紙はおおよそ(この期間はインフレだったので)一部一〇円で支部費に二円還元、上納八円、これで印刷費、通信費を支払い、残余が編集費、活動費となる。これを毎回発行ごとに、発送から代金請求、回収、支払を反復しなければならない。この号令を長谷川が掛けると事務局員が一糸乱れず働く。会財政はこうして健全化した。『わだつみのこえ』 は最盛期には固定読者約一万、発行部数二万、支部は三五〇以上に達した。


 私は年齢が彼より下だったこともあるが、しょっちゅう機関紙掲載の文章を直され、指導された。しかし文章のうまさよりなにより彼に驚きかつ感心したのは、平和運動はこうした地味で間違いのない細心の活動を重ねてはじめて実現できる、という事実を彼が示したことである。これは長谷川から学んだ最大の事項だった。運動のためには、思想があり、基礎理論があり、現状分析があり、それから宣伝と説得があり、動員や交渉があって、リーダーにはそのための能力が必要だ、ということはそれまでの運動経験から得ていた。思想と理論の面では私にもいささかの自負があった。だが長谷川の身を以て示した、〈編集―販売―組織―代金回収〉の運動サイクルの教訓はこの時期に初めて会得した。

 だから平和運動、学生運動、で美辞麗句を操っても、実務が着実でない人物は評価できない。これを理解しない「指導者」に、私は時折怒って「(責任者を)やめろ」と叱り付けるのはこの経験による。理論的、思想的にはいまではすっかり別になったが、一高時代に上田建二郎(不破哲三)と一緒に党活動をしていまでも思い出すのは、彼の活動の着実さ、熱心さであり、先頭に立つ気概である。私は研究者の生涯をおくったが、運動にかかわるかぎりはいまでも彼らに学びたい。


 会の組織者であった彼のもう一つの面はその人間関係への理解、処理にあった。とくに若い青年の集う運動ではときに「男女関係」と言う難題が入り込むのだが、これの相談、解決が組織の難問となる。失敗すればこと面倒である。私も若かったから異性に魅かれたが、しょせん淡彩で、運動への情熱を脅かすには至らなかった。長谷川も恋愛感情はプチ・ブル的結果をもたらす、などと言っていた。

 しかく互いに単純ではあったが、彼は真剣に「惚れあっている」と見込むと「どうしようもないぞ」と男女の縁結びをしたこともあった。彼の死後に姉上、川上ふみ子さんにこれを話したら「興蔵はまあ、自分は結婚しないでそんなことを!」と驚いておられた。会員どうしの結婚は珍しくない。

 ともかく「男女関係」が発生すればみんな逃げ腰で、正直なところどうしていいかは分からない。固有名詞は控えねばならずこれ以上は語れないが、発生した難件はみな長谷川まかせだった。このほかにも金銭問題、本人や家族の病気その他、などなど、組織員の相談ごとはつきない。私は「それは苦手」と逃げ出すが、長谷川はいわば長老役を嫌な顔をせず引き受けたから、〃長谷川さん〃は人気と信頼を集めた。

 長谷川自身にはこれはどうであったか、愛情を互いに確認した異性は「いた」と信ずるが、運動のために〃結論〃には至らなかった。真相は聞きそびれた。


 けれども、わだつみ会でともに活動した青春の風景で楽しい思い出は、深夜の地下室で、最終編集の徹夜のひとときの語らいにあった。それは貧窮の中であったればこそ記憶に深く刻まれている――

 新聞雑誌の編集終了、印刷所渡しに追われた経験あるものは、それがいかに精神的、肉体的に集中力を要するかは熟知しているだろう。半月毎でも、ましてや一〇日毎の旬刊となればなおさら、訪問記事、ルポルタージュ、原稿依頼、写真現像と確保、囲み記事・論壇を集め配列し、軽重を決定し、配列する編集者の仕事は大変である。竹の三〇センチ物差の裏に刻んだ行目盛に従って、タブロイド四面、ないし六面の組み立て(活字棒組)ができるように構成し、キヨズリ見出しの長さ幅を決定して編集を完成するのが徹夜の仕事となる。印刷所で棒組に立ち会い、紙型を固める蒸気を浴びてホッとする瞬間にそれまでの力が抜ける。

 『わだつみのこえ』も例外ではなく一〇日あたり二晩は徹夜だった。こうして東大病院前の地下室に幾晩徹夜をくりかえしたことだろう。疲れると、二人は物差を手に「茶でも淹れるか」となる。「茶」といってもすべて一日の呑みがらし、出がらしの葉を再三再四、ニクロム電熱器で煮だすだけである。淹れなおす茶を買う金も食物を買う金もない。深夜から朝方にかけて茶はしだいに只の湯に変わり湯だけで空腹をみたす。それでも温かいものは深夜の語らいの馳走であった。志があれば青春の一文無しも耐えられる――


 〃志〃といっても「今にみていろ、俺だって」式のものとは無縁で、ひたすら自分の成し遂げたいこと、理想、を語るだけである。長谷川の話題はほとんど文学への志に行き着く。現在の会の機関誌第九六号にすでに書いたことであるが、彼は目標を藤村と鴎外においていた。藤村では『夜明け前』が目標であり、明治維新に期待した草莽の理想がいかに裏切られていったか、そこに明治日本、日本近代化の根本的な欺瞞がある、『夜明け前』はこれを見事に造型した、と彼は、木曽路は馬籠、妻籠、中津川と青山半蔵一家を追って見てきたように語り出す。伊那の平田国学と一派の結末はとくに印象が深い。後に子安宣邦が「本居宣長と平田篤胤」を主題に著書を書いたが、平田への関心は長谷川からえたのかもしれない。

 鴎外では『澀江抽齋』だった。主人公は周知のように、医学校の教授で歴史の考証家でもあり道儒仏の思想の総合を試み、詩謡曲に打ち込みつつも藩政にも貢献するという、中国の文人の理想に合致する人物である。抽斎夫妻は鴎外の理想像の投影であった。長谷川の理想像は自然(医学)から社会(歴史)への百科全書的な知的関心のひろがり、学問と芸術の両面に生きる才能、それでいて藩の政治にも有能に貢献できる人材、にあったように思われる。そういえば「大賢は市に隠る」で木下と長谷川の二人は若い時から東洋大人の風格があった。友人木村勝造は、二人を評して「あれは偉大な暗闇だぜ」と言った。


 もちろん話は、ソ連共産党から丸山『日本政治思想史研究』へすすみ、生物学はダーウィンとウォーレスへ、世界経済分析へ、めぐりめぐって最後は唐詩の朗誦に終わる。戦時中に多くの友人を失った同世代だけに、彼は、王翰「葡萄美酒夜光杯、欲飲琵琶馬上催、酔臥沙場君莫笑、古来征戦幾人回」が一番好きだった。ヴァレリーへハイネへ(いずれも原詩)、ふたたび〃古来征戦、幾人か回る〃でわだつみ会の我に帰って、ふたたび文化欄編集企画にもどり、依頼執筆者の月旦に立ち返る。

 こうして運動は無給無休で苦痛の連続だったが、長谷川を中心とする事務局員のお喋りは楽しかった。後に大阪から上京して編集部に加わった永野仁は、これを「私の大学」と書いているが、長谷川の熱弁はでがらしの安茶と一緒になって思い返すのだが、私が文学と生物学に何がしかの見識を得たすれば、それはみな長谷川からのものだった。


 長谷川は、赤門前は森下町の木造三階建、いまにも倒壊しそうな下宿屋(改築消滅)の一部屋にF氏と共同で下宿していた。おそらく家賃はF氏が払っていたのであろう。会からは三千円の月給がやっとでインフレにも修正されず、三食に不自由したにちがいない。ある同志は着のみ着のままの彼を「キタナイスキー」と呼んだが、これはかなり失礼なあだ名だった。でも「キタナイスキー」と呼ばれても「おう」と返事をした。ついでながら学生運動仲間のあだ名は失敬なものが多く、「ホッテン(トット)」、「腐敗(スキー)」またある者は「ヒス(テリー)」だったりした。

 そんなとき、彼が根津の酒屋で一杯焼酎を求め、梅干を入れて、うまそうに呑んでいた光景を思い出す。こちらは恥かしながら卒業後も親がかりで食事に不自由はなかったが、酒を自分の金で呑む習慣はなかった。焼酎を呑みほすと焼きそばを平らげてお仕舞いである。これは彼の貧しい夜食だった。低い暮らしのなかに志を高く生きた長谷川の青春だった。


 虚飾なく伝えれば、わだつみ会の活動、一般に彼の活動には、組織および他人に迷惑をかける行動があった。それは彼の激しい鬱状況のためであり、本質上病気だった。「鬱」になると、なにもかも捨てたくなり、行方不明になって数日から数週間も連絡が途絶える。これは組織活動、とくにその指導者としては大きな欠陥であり、若い会員同志にはなかなか理解できない。私も最初は長谷川の「無政府行動」を批判、攻撃したが、東大病院の長畑一正講師から「躁鬱病だ」と聞いて、理解した。

 「鬱」になるとどうしようもない、と本人は言う。「岡田、これは器質性疾患ではなく本態性疾患だ」と医学用語で自己分析をした。「自殺の恐れがある」 との長畑さんの言に従って失踪した彼を探し回るが、行方はつかめない。それでも必ず「帰還」はする。そして「帰還」すると行方不明の時間を償うかのように働く。その集中力たるや何ぴとも及ばない。 

 「もう治ったよ」と言うのだが、わだつみ会時代しばしばこれがあった。のちに勤務先の平凡社の同僚もこれを知っていたから、躁鬱病は治らなかったのだろう。これが彼の唯一の欠点と言えば欠点であった。いまもって長谷川は約束を破る、と非難する人がいるが、彼の精力的な活動はこの病気と一体だった。でもその活動成果に比べればこのマイナスは小さい。


 こうした行動と、親切なのだがわりにぶっきら棒な人柄が根底にあって、これに五四年からの共産党の「スパイ」探し、国際派復帰組党員への迫害、が重なり、五四年末から五五年初に長谷川査問事件がおこった。これは会にとっても、わだつみ会時代の長谷川にとっても、最も不幸な事件であった。当時会事務局にあり親友というべき間柄にありながら復帰組党員としてレーニン原則(上部決定への服従の民主集中原則)に拘束されて、査問に参加した私にとっても、これは自分の背信行為を恥じる忘れることのできない事件となった。これは正直書きたくないのだが、長谷川とのことで書かざるをえない事件である。

 経過は私の『我らの時代』(一九九九年)に詳細に記したが、〃人間の自由と解放を目的に出発しながら、裏切りと専制に帰着する〃(ドストエフスキー『悪霊』による)、共産主義運動の本質を体験し、友人を裏切らせる信条との絶縁を決心したのはこの事件のためである。そして回心の天啓ともいうべきこの体験こそ、長谷川と私を逆に生涯の友に結合した契機である。党上部機関が容疑を撤回して無実が明白となり、陳謝する私に長谷川は静かに言った――岡田、君は『悪霊』を読め、と。

 ドストエフスキーは藤村よりも鴎外よりも心に食い入った。五〇年代半ば、自分の無知を反省し、むさぼるように古典を求めた。 六〇年代初、『神曲』に出会って 『悪霊』と重ね、やっと生きる光明を前途に見出した。以後三〇年間、長谷川、木下のほか、我が親友群は一二月に毎年泊まりがけで語り合った。語って語って語り残し、語り継いだ。


 長谷川が南方熊楠に行きついたのは当然でもあった。まずそこには一切智の夢があった。自然科学(生物学、粘菌研究)がありながら歴史考証(人文、地理、社会慣習)があり、和漢の素養がありながら深い欧米理解があった。長谷川には、南方熊楠を文学的に造型する意図があったというのが私の推論である。一切智を追求しつつも神社合祀に反対し自然保護を志向する政治行動に走り、制度教育に背を向けつつも学の志を堅持し、古風でありながら同時に時代の先端に立ち、紀州田辺に住みながら世界を睥睨する知識人。彼は南方熊楠に深い共感を覚えたに違いない。

 これは私の思い描いた長谷川興蔵であったのだが、今は空しい。人それぞれに宿命――過去の闇から始まっている無限大の歴史の与件である――から逃れることができない。躁鬱病を基底とし、天性の感受性と構想力に獲得した思想を加えて、彼は、恐らく友人が思う以上に自己を限定した生活を生きていたのであろう。

(2001. 2.20)


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