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 その日を待たず

今村 一雄     
(注:長谷川興蔵の筆名) 

 東京は廃墟の中で敗戦を迎えた。一面の焼野原になると、ところどころの高台の地肌が現れて、東京の街はこんなに起伏に富んでいるのかと驚くほどだった。とくに山手線の高架から眺めると、白亜の議事堂のたっている永田町の高台は、五分も歩いたら行けそうなほど近く感じられるのだった。しかし東大に行くために御徒町で下りて駅から江東一帯を見渡すと、これはまた全く平面の焼野原だった。晩夏の照りかえしの中でローラーで引きつぶしたような廃墟の彼方には国技館の円屋根が見えた。それは三月十日、はじめて東京が大空襲をうけたとき、一夜のうちに何万人かの人が死んで行った地帯なのだ。その中には僕の親友もいた。お下げ髪に黄色のリボンが似合った妹と二人で、炎の中で両親とはぐれた彼の死体は、狂気のようになった両親といっしょに僕らがいくら探してもみつけることができなかった……。

 そういう廃墟の中で、大学だけは全く無事に残っていた。三四郎の池は荒れはてていたが、その木立も、銀杏並木も、いささか古めかしいどの建物も、みんな奇跡のように無事だった。理科生だったため応召は免れても勤労動員と教練で満足な学生生活を知らなかった僕は、その学園の中で大学一年の学生生活をとり戻すことができたのだった。

 それは大学の再生の季節だった。銀杏並木が黄ばみはじめるころ、理科生ばかりだったかたわな学園に学徒出陣の文科の友人たちが続々と帰ってきた。あれから十年たった今でも、僕はあの頃の期待と喜びをはっきりおぼえている。僕は毎日のように銀杏並木で、高校時代や中学時代の文科の学友たちをたずねた。お互いに顔を見合わすと僕らは走りよって手を握りあった。ほんの顔見知り程度の友人でさえ肩を叩きあった。よお、生きていたのか、死にそこなって帰ってきたよ。誰もがやっと暗い月日をのりこえてきた喜びを感じていた。そして相手の言葉をさえぎるように自分の経験を語るのだった。

 「俺は特攻隊でね」とTが僕に語った。「なあにまともな飛行機なんてないのさ、ロケット推進機が二発ついている奴でね。一発をつかって一気に上空に上る。そこで浮遊して狙いをつけ、二発めをつかってB29に突進さ、命中したってしなくたってそれでおしまいさ。俺の死ぬのが早いか戦争の終るのが早いか、ハラハラしていたよ」「だけど毎日の練習は何をしていたんだい」「気密室に入って気圧をグンく下げて体を馴らすのさ、ところが腹がへるんで畠の芋を失敬する。するとガスで腹がふくれて苦しくて一ぺんでばれちまうんだ」そこで僕らはまるで愉快な思い出を話しているように笑いこけるのだった。そうだ、どんなに苦しかったにせよ、それは過ぎ去った悪夢、遂に僕らの若さをおしつぶせなかった悪夢にすぎないのだ。そして現在の生活が如何に苦しくても、僕らは少なくとも死の恐怖からは解放され、未来に夢と希望を抱くことが許される日を迎えたのだ。

 しかしその日を待たず、帰ってこない友もいた。その数は決して少くなかった。お互いの無事を祝うと、僕らはそういう友人の最後の消息を伝えあった。あいつは沖縄でつっこんだそうだ。彼はフィリッピンで行方不明だ。残っていた理科の学生でさえ全部が無事ではなかった。

 「ところで、Yはどうした?」とTがたずねた。Tだけではない。何人かが私にYの消息をたずねた。みんなYと同じ頃に応召した連中だった。「Yは死んだよ。応召して四ヶ月位で戻ってきたが、両肺ともやられてね、半年近くねていたけど……」「やっぱりそうか、大体あれは無茶なはなしだったからな」

 そうだ、それは、はじめから無茶なはなしだったのだ。

 青白い顔の見るからに腺病質なYが発病したのは二年のはじめだった。 三ヶ月ほどで彼は登校してきた。医者が用心すれば授業ぐらいはいいと言ったという。だが僕を驚かしたのは彼が徴兵検査で第一乙だったということだった。文科の学生にとってそれは応召の宣告を意味した。一週間もたたないうちに赤紙が彼の家にとどけられた。

 当時、寮委員会の保健衛生の係をしていた僕は、彼のレントゲン写真をもって校医のところへ行った。校医のO氏は気色ばんだ僕の説明を聞きながらフィルムをみていたが、やがて僕の顔をまともにみないで、怒ったような口ぶりで言った。「これはひろがるね。左の肺門の少し上に小さいけれど空洞がある」

 少し結核のことを知っている人なら、この言葉のもつ冷酷な意味はわかりすぎるくらいわかる。しかしO氏にしても、僕にしても、それはもうどうすることもできないことだった。

 僕は空洞のことをTに伝えた。けれどYには話さなかった。「注意すればまあ大丈夫だろうということだ。だけどくれぐれも注意しろよ」我ながら見えすいた嘘だった。軍隊生活で体に注意できるものか。しかしまた、本当のことを彼に話して、それで一体どうなるというのだ。

 Yの応召の前夜、僕とTは彼の家へ行って送別の酒をくみかわした。当時、応召のときは酒の特配があったから。僕は何回も友人の送別会に列席したが、このときほど酔えないことはなかった。別れの握手をして夜更けの街を歩きながらTがたづねた。「あいつはやっぱり死ぬと思うかい」「それは判らないよ。あいつが軍医に話して、軍医が親切な男で、そこに医療設備が整っていれば……」

 ふいにTが大声で寮歌をうたいだした。彼もまもなく出征だった。僕は急に酔いのまわってくるのを感じながら、愛唱していた唐詩を口ずさんだ。Yの前では遠慮して吟じなかった詩だった。

  葡萄の美酒 夜光の杯

  飲まんと欲して琵琶馬上に催す

  酔うて沙場に伏すも君笑う莫かれ

  古来征戦 幾人か回る

 涙が頬をつたうのを感じながら、僕はもうYにはあえないと思った。

 しかし、Yは還ってきた。いや、還されたといった方が正確だろう。僅か四ヶ月の応召期間だったのに、病状ははげしい勢いで進んでしまったのである。彼の家から僕への連絡がおくれて、僕が彼を見舞いに行ったのは彼が還ってきてから二ヶ月ばかりたったときだった。医者の家に生れ、父を結核で失った僕は、一眼みた時、もう死が時間の問題なのを感じた。Yは極めて冷静だった。余り早口にしゃべれないのだとことわりながら、彼は僕に自分の病状を説明した。左肺は全く侵され、右肺もすでに半ば侵されていること、啄木の歌のように、自分の肺の鳴る音がきこえること……。

 冬の弱い陽射しがあけ放った窓からさしこんでいた。その窓辺にしかれた彼の寝顔によりそっていた僕は、部屋の一隅の畳に大きな茶色いしみがついているのに気がついた。僕がそのしみをみつめているとYが言った。「昨日まで俺があそこでねてたんだよ。寝汗がひどいんでね、ふとんを通しちゃうんだな。二ヶ月もねていると畳がくさりはじめてくるんでね。恰好をみればわかるだろう」

 僕は何と返事してよいかわからなかった。全くそう言われてみれば、そのしみの恰好は人の形だった。

 死期の迫っている人、しかも自分でそれを知っている人と話すことは実につらい。もう彼と僕との間に共通の話題はないのだ。どんなに注意深く話題を選んでも、文学の話でも、また時候の話でさえも、みんな僕にはまだ未来があり、彼にはないのだということと結びついてしまうのだった。

 三十分ばかりのとだえがちな会話の後、僕が帰ろうとすると、最後にYがこういった。「俺の体はもうだめだよ。もっともはじめからわかってはいたんだ。徴兵検査の時にね、検査の医者の奴がこういったん。君の体はちょっと無理だけど、員数の関係もあるんで悪く思わないでくれってね。徴兵検査というのはこういうものなんだな」

 この言葉は僕の心に焼きついた。眼を泣きはらしているYのお母さんに玄関でお別れして寒風にオーバーのえりをたてて道を急ぎながら、僕は烈しい怒りを何にぶちまけていいかわからなかった。僕はそのときまで、間接撮影しかしない徴兵検査がYの病患を見落としたのだと愚かにも思いこんでいたのだ。しかし、そうじゃなかったのだ。はじめから判っていたのだ。ただその検査場から何人の合格者を出すときめられていた員数に不足しそうだったのでYを合格にしたのだ。それで、悪く思わないでくれだって? 強盗だって人を殺すときこんな偽善的な言葉をつかうものか。はじめから殺すことは判っていたのだ。

 それ以来僕はYの家に行かなかった。彼に会うのが、そして彼の母に会うのが苦痛だったからだ。僕が彼の死を知ったのは激しい空襲が続いている時だった。彼の家を訪れる余裕もないうちに、そのあたり一帯も焼野原となってしまった。

 終戦後の或る日、僕はTにさそわれてYの家をたずねた。しかし青森の方へ移ったというほか彼の家族の消息を知ることはできなかった。僕はせめて彼の墓標だけでもたずねあてたかったのだが……。

 僕らは空しく晩秋の傾いた陽射しを浴びて帰路についた。僕らは肩を並べて歩いた。丁度Yの応召の前夜のように。しかしあたりの風景は余りにも変りはてていた。僕はYの最後のことばを思い出した……。

 僅かにあちこちにバラックのたちはじめた焼跡のなかを、僕らの歩いている道はしらじらと郊外の駅まで続いていた。

(わだつみ会機関紙『わだつみのこえ』第一〇六号、一九五五年八月一八日号掲載の
「終戦十周年」記念の文章。復刻版『わだつみのこえ』八朔社、一九九二年、収録)


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