『長谷川興蔵集 南方熊楠が撃つもの』のページへ <b>

『熊楠研究』のページへ <s>

サイトのホームへ <0>


  海辺の墓地にて ― 木下素夫追悼 ―

長谷川 興蔵     

 四十五年前の記憶はまことに茫茫としている。細部はあるいは磨滅し、ときには前後して、もどかしいほどにとりとめがない。しかし、いくつかの場面だけは、奇妙なくらい鮮明によみがえってくるのである。わたしが木下素夫を知ったのは旧制一高の二年の新学期、一九四三年の四月で、その夏に帰省中の彼を的矢村にたずねて数日逗留したのが、たしか七月のことであった。以後、彼の死に至るまで交わりはつづき、学生運動の時期にはほとんど毎日のように顔をあわせていたし、晩年にも少なくとも年に一、二度は酒盃を手に語りあうことを欠かさなかった。しかし、今でも暮夜ひとり酒をくみながら木下のことを憶うとき、よみがえってくるのは、そのような後年の記憶よりも、半世紀近くもむかしの面影なのである。―そのときわたしたちはともに二十歳前であった。

 昨年(一九八七年)の十一月に、わたしは木下の新しい墓を的矢にたずねた。同行は奥山、岡田、遠藤の三君である。わたしは前に一度来たことがあるというので、いっぱしの案内者気取りであった。四十五年前、わたしは国鉄の鳥羽から志摩電鉄で穴川まで行き、そこから船で的矢に渡った。「的矢に来るには船の便しかないのだ」というのが、一高の寮での木下の案内のせりふで、わたしもその言葉に心を惹かれた記憶がある。残念なことに、その船の便は近年廃止されたというので、わたしたち一行四人は、近鉄の志摩磯部の駅からタクシーで的矢にむかった。磯部は、穴川と同じく、細長く入りくんだ的矢湾のいちばん奥に位置している。的矢までタクシーで二十分ほどの道のりだったが、船では小一時間の航程だったように覚えている。あのとき、わたしは暑をさけて船室で仮眠した。そして、まもなく的矢だと言われて甲板に出たとき、一羽のカモメが舷側に羽を休めていたのを、妙にはっきりとおぼえている。

 タクシーでついた的矢の家並は、半世紀近い歳月を考えれば、記憶の中の面影をかなりのこしていた。一筋の海沿いのまがりくねった道路の両側には、まだ古い家がいくらか残っている。わたしが逗留した木下の家もそのままだった。ただし道路をはさんで向かいあった同じような二階建がどちらも木下家だと言われて、わたしは当惑した。たしか山側の家だったと思うが、記憶がさだかでないのである。玄関口からのぞいてみたが、すぐに二階へ上る階段があるのも同じ構造である。あのとき、わたしが玄関に立って案内を乞うと、待っていたように木下が例の腰つきで階段をおりてきて、「来たな、あがれ」と言った。……

 わたしは一九四二年に一高の理乙に入学し、木下は同じ年に理甲に入学した。わたしは南寮一階の一般部屋にはいっていたし、木下ははじめから南寮二階の科学班に属していた。したがって、一年生のときはまったく交際がなかった。

 町医者の三男だったわたしは、当時はまだ医者になるつもりでいたし、生物の教師のすすめもあって、一高医務室の一室を借りて結核菌の培養試験をしていた。二年の新学期をむかえると、その教師の勧誘らしく、二人の新入生が「生物学研究会」に入りたいとやってきた。まったく一人の仕事のつもりでいたわたしには迷惑な話だった。しかし二人の新入生は気の毒である。わたしは教師には相談せずに、科学班に吸収合併の申入れをすることにした。

 理乙の同級生にも科学班員は二人ほどいたので、わたしはまず彼らに相談した。科学班の方では「生物学研究会」にいささか胡散臭いものを感じていたようだったが、わたしの説明と申入れをだいたい納得してくれた。しかし、最終的な話はホッテンとつけてくれと言う。どうやらホッテンなる人物が実力者らしい。だがホッテンとはなんだ? 会えばわかるさ、ホッテントットの略だ。―まもなく木下がわたしたちの話しあっている部屋に入ってきた。わたしはその足取りを見て、寮の廊下などで何度かすれ違った人物だと思うと同時に、その失礼な渾名の由来をただちに諒解した。

 木下との話はすぐついて、わたしと二人の新入生は科学班に移ることになった。そのときの私の木下に対する印象は、交渉や相談の相手としては得難い人物だというものだった。すこしおおげさにいえば、明晰と寛容とはなかなか両立しにくい美質だが、彼においては両立していた。この第一印象は、その後の長い交遊を通じて深まることはあっても、彼の死に至るまで変らなかった。

 科学班に移ってから、木下とは実によく「ダベリ」あった。消燈後、蝋燭をともして語りあかしたこともまれではない。乱読だけは自負していたわたしも彼の博識には驚嘆したし、おそらく彼もわたしの中に格好の話相手を発見したのだろう。もっとも彼はわたしに数学の話だけはしなかったが、哲学、歴史、文学と、互いに話題には事欠かなかった。哲学者の総論をこころみると、二人ともカルテシアンを自認していたことがわかって共鳴したし、作家や作品の好みにも通じあうものがあった。そして自分が愛好し相手がまだ知らないものをみつけると、躍起になって自分の熱狂を感染させようとしたものだった。

 当時ポール・ヴァレリーの訳本がつぎつぎと出版されていて、二人とも愛読者だったが、彼は自分の郷里の「海辺の墓地」のことを話してくれた。たぶんそれがきっかけだったのだと思うが、知りあって三ヵ月にしかならない夏に、彼はわたしを的矢に招待してくれたのである。

 木下に案内されて、的矢村の「海辺の墓地」に北条霞亭の墓をたずねたのは、たしか到着した翌日のことだったと思う。鴎外は、二人がよく語りあった作家ではあったが、わたしは当時、抽斎は読んでいても、蘭軒の中途で挫折して、霞亭はまだ読んでいなかったと思う。いま、この文を書くために久し振りに読み返してみたが、旧制高校生の容易に味読できる文章ではない。しかし、鴎外がなぜいわゆる「二流の学者」である霞亭を「史伝小説」の主人公として選んだかということは、作者の文章からも明らかである。それは「学成りて未だ仕へざる三十二歳の時」の霞亭の行状が「隠逸伝中の人に似てゐた」ことに係っている。もっともこれは作者が知命をはるかに過ぎたときの感懐である。まだ二十歳前の木下が、同郷の学者という以外に霞亭のどこに惹かれていたのか、わたしはその時も、そしてその後もついに聞きもらしてしまった。しかし木下のなかに、生涯つねに「隠逸」への止みがたい傾きがあったことを、わたしは知っている。

 四十五年後の的矢行のとき、わたしは長い石段を案内されて裏山の「海辺の墓地」に登った。この石段はわたしの記憶にはない。あの時はたしか細い山道を蝉しぐれの下にたどっていったと思う。しかし木下の墓に詣でてから、やがて探しあてた霞亭の墓は、記憶のままであった。その自然石の墓はだいぶ風化して、裏面の銘文などはほとんど読みとれない。頼山陽の墓碣銘で知られる巣鴨真性寺の墓にくらべればはるかに素朴である。しかし聞くところによると、木下の父君も、そして木下自身も、本来は自然石の墓を望んでいたということである。

 やがてわたしは日和山へ登った。墓地の一角にあって、渡鹿野島と的矢湾を見はるかす見晴し台である。ここは短い逗留の間に、毎日のように木下と登って話しあった場所であった。再行のときは十一月とはいえ、あたたかい日であったために、四十五年前の夏の陽光にきらめく海面の記憶がよみがえってきた。「あまた鳩の歩むこのしづかな屋根瓦」から始まり「風が起る。今こそ生きることを試みなければならぬ」という終結へ進んでいくヴァレリーの詩とともに。―木下は「的矢にいるときは、ほとんど毎日のようにここに来る」とうちあけてくれた。そこには、知的な静謐への愛とともに嵐の予感があったにちがいない。

 あのときわたしたち二人は何を語りあったのだろう。残念ながら歳月はすっかり記憶を風化してしまった。しかし二つのことだけはわたしたちは話題から外していたと思う。一つは死についてであり、いま一つは時局についてである。死について語るには、わたしたちはあまりにも若かったし、時局について語ることは一種のタブーであった。当時すでに戦況は相当急迫していた。山本五十六の国葬は六月に行われていたし、新聞を読んでいてもイタリアの敗戦は予想できた。だがわたしたちはなるべくそのような話題を避けていた。たとえばわたしは、自分の読んだ本のことをほとんど木下に語っていたが、南方にいった兄が遺してくれた発禁の岩波文庫(いわゆる白帯)のマルクスやエンゲルスについては語らなかったし、彼の方にも同じような事情があったかもしれない。時代はどのような友情にも何らかの歪みを与えずにはいなかった。―そして四十五年たった今、この「海辺の墓地」でわたしが思いめぐらすのは、あのとき避けた二つのテーマなのである。

 あの夏、木下家を辞して、わたしは京都在住の二人の文科の友人をたずねてから東京に戻った。寮での木下との交遊は同じように続き、同好の若い友人を誘って、手書きの廻覧雑誌をつくったりした。しかし十月には、学生の徴兵猶予停止の勅令が出され、十二月一日の学徒出陣となった。わたしがその夏にたずねた二人の友人は、このとき出征し、ともに還らなかった。この頃、木下は健康を害して休学し、わたしは半年短縮された旧制高校(教練以外の課業はなく、工場への勤労動員ばかりだった)をおえて、一九四四年十月に東大へいき、交遊はしばらく絶えた。―これは余談だが、わたしは教練をサボって不合格になったが、卒業と大学進学にはさしさわりなかった。その後、木下が教練で不合格になり(クラスで一人いるかいないかの事例である)、卒業できなくなったという話を聞いたとき、わずか一年の間に時勢がこれほど悪化するのかと嘆いたものである。

 戦争が終って、わたしはふたたび木下とめぐりあった。二人とも東大へ通いながら、住宅事情のせいで一高の寮に居候するという次第だったので、以前と同じような交遊が復活した。そのとき「海辺の墓地」の追憶が話しあわれたかどうかは覚えていない。それよりも、久しぶりの徹夜の討論のはてに、お互いに「マルクス主義者」に転身していたことを確認したことの方が、重大だったのである。

 それ以後の木下との交遊については、稿を改めて語るしかない。それは「わたしと木下素夫との物語」の第二部なのである。そして『ファウスト』ではないが、第二部がどれほど重要な内容を含んでいても(それは間違いないのだが)、わたしの追想はやはり第一部にむかってしまうのである。

(『木下素夫を偲ぶ』木下素夫追悼文集刊行会、一九八九年)


[このページのはじめへ]

[前へ] <p> [目次へ] <b> [次へ] <n>