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 南方熊楠・青春遍歴の周辺

   『南方熊楠を知る事典』から ―

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 このページに掲載された各文章は、『南方熊楠を知る事典』長谷川興蔵他著、講談社現代新書 1993年刊)に書き下ろしで掲載されたものです。同書は、現在品切れです。

平岩内蔵太郎(ひらいわ・くらたろう 生没年不詳)

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 「和歌山中学校明治十六年三月定期試験並出席一覧表」(熊楠卒業時、第一級生)の第六級生二十三名の筆頭(成績順)に、平岩内蔵太郎の名が見える。同級に同じく熊楠の少年愛の対象だった羽山繁太郎もいる。平岩の戸籍を調査していないので生没年は未詳だが、新宮出身で、のち上京して職工学校に入学した。熊楠は明治十九年の渡米の前に、三度平岩と同衾しており、十一月四日の日記には、「夕べの夢がまことの夢か 僕はまだまださめやらぬ」と記している。

 平岩内蔵太郎の名は、明治二十三年三月十九日夕出の土宜法竜宛書簡に見える。この書簡で熊楠はダンテの『神曲』(Divina Commedia)の名をもじって Divina Norokeana と 称し、二人の贈答の歌を紹介している。内蔵太郎の歌を「思ひのますかがみ」といい、金粟王如来(熊楠)の歌を「心のはれがたな」という。そして説明に、この美少年は六年前に死せりと書いている(平凡社版全集七巻二七三〜五頁)。

 しかし、「六年前」すなわち明治二十一年に死んだのは羽山繁太郎であって、内蔵太郎は後記のようにずっと生きている。したがってこの贈答歌は、両方とも熊楠の創作と見られるが、その心情は羽山繁太郎にあって、内蔵太郎の名は仮託のものと考えられている。さらに最近、熊楠のアンナーバー[アナバー]における個人新聞『珍事評論』の第二号が発見されたが、その中に「少年と贈答新賦并に序」という作品があり、これが初出であることが明らかになった。「君を思ひのますかがみ」平岩内蔵太郎、「君に心のはれがたな」南方尭猛一名新門辰五郎贈答歌で、内容もほとんど同じで、熊楠がこれに若干手を加えて法竜師に示したのである。ただ、これには相当長文の「序」がついているが、内蔵太郎が熊楠を慕って紀州の果無山脈をさまよいつつ横断して上京する長い描写や、熊楠の渡米後、恋の病いで瀕死の床に伏すくだりなど、一篇の小説として読むほかない。やはり真情は繁太郎にあって、内蔵太郎の名は仮託のものだったようである。

 しかし、仮託するには、それなりの理由があったはずで、やはり内蔵太郎は忘れがたい友のひとりだったのだろう。帰国した熊楠は明治三十五年那智の勝浦で、郵便局長の瀬後国太郎の妻が内蔵太郎の妹であることや、行商人らしい有馬市松という男が内蔵太郎の小学校時代の友人だったこと、そして内蔵太郎が二、三年前に朝鮮に渡り、京城で呉服商と染物を営業して健在であることを知る。すでに昔年の紅顔のとどむべきでないことを知りつつも、やはりなつかしかったのであろう、熊楠は写真を送り、伝言を頼む。こうして明治三十六年五月二十七日、内蔵太郎からの葉書を受け取る。以後も時おり文通はつづいたようで、大正十一年植物研究所資金募集のために上京したときの「上京日記」に今なお健在な友の一人として、平岩の名が挙げられている。

 平岩との交遊に関して今日明らかになっていることがらは、あらまし以上の通りである。

 明治二十五年夏、渡英を目前に控えてフロリダのジャクソンヴィルから、熊楠は中松盛雄に長文の書簡を寄せた。中松は和歌山中学の一期上級で、男色については同好の士であった。書簡中に羽山繁太郎、平岩内蔵太郎の両花についての美文がある。当時の熊楠の慕情をしのぶため、煩をいとわず引用することにする。文中、羽叟は羽山、岩丈は平岩を指す。

「羽叟は逝けり、岩丈は老いたり。到底熊公は上々の薄命なり」。この二人は御存知通り、実にわが紀州の国の花なりき。日々思いを寄する者三、四十人、雪を踏んで百夜歎きし少将あれば、湯殿姿を垣間見て思いに沈みし師直あり。ただ、熊公不肖ながら男振り苦み奔りて、しかも忌味なく、かつ美声のころがしあんばい旨かったればこそ、二つながら御手に入りたるなれ。二人の鑑識は熊公の弁を俟たず、盛公この道の本阿弥なるを知ればなり。しかれども、bisho-nenography は天下熊公に優る者あらざれば、ちょっと 味噌を揚げんに、一は相好円満、新咲きの梅花、衆芳をお尻の下に敷きたるうちに、実なる情おのずから外に溢れ出でて、見る人坐ろに心を天外に飛ばし、一は面首艶妖、満開の桜英、百卉を眼元で慙死せしめたるに外に、風雅なる心持、万般の言動、一笑一撮にまであらわれ、聞く人、思いを屋上の烏に寄すということなし。しかして、一は神仙すでに洞天に帰し、幽顕すでに界を異にして、中有の野その間に寂寞として広がりたれば、熊公、ただ武帝の煙に涙を催して、「あふと見てうつつのかひはなけれども」と吟じ、一は現存すといえども、眼角当情の処今いずくにかある、さすがに老の波立つ影も辱しと、山どりの水鏡にうつろう色を歎ずるにや。音信もせず遇うたところが、まさかフノリの御用も成るまじければ、うつつに一目みしことはあらずと忘れ行き、忘れ行かれなんをかなしむのみ。(一八九二年八月頃と推定される。平凡社版全集七巻一二八〜九頁)

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アンナーバー  Ann Arbor

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 南方熊楠が「于時明治二十年九月九日夜十二時認畢」と記した杉村広太郎(後の楚人冠)宛書簡には「ナイヤガラ瀑布記行」が含まれているが、その紀行の冒頭に、はじめて訪れたアンナーバー[アナバー、以下初出の表記にしたがう]の街とミシガン大学の印象が次のように述べられている。

九月三日朝、ランシンを出発、十一時ごろアナボア府に達す。有名なるミチガン州大学のある所にして、市外は湯浅駅ほどしかなけれども、人家はずいぶんたくさん散布せり。支那の魯のごとく学問一偏の地にて、人家は過半学生の下宿をして活計しおり。すなわち友人小倉松夫氏(因州人)を訪い、ともに大学に往き観るに、只今夏休み中ゆえ学問の景況は分からず。学校はずいぶん広けれども、とてもわが帝国大学には及ばず。ただし建築宏大の一事に至っては、われついにかれに膝を屈せざるを得ざるなり。(中略)書籍庫は米国中に有名なるものにして、大いさわが帝国大学全厦に数倍とはちとほらなれど、何にせよ、よほど宏大なものなり。二階には美術館ありて、古銭、古記念銭、および肖像、画絵等を陳列し、見物勝手なり。(平凡社版全集七巻七八〜九頁)

 さらに熊楠は筆を続けて、「博物館はわりあい小さく三層なり」としながらも、その内容には感銘を受けたようで、こまごまと説明している。事実、のちにこの街に居を移してからも、しばらくの間、熊楠は日記によれば週に一、二回はこの博物館を訪ねている。

 筆者は一八八〇年のアンナーバーのパノラマ地図をもっている。郊外を含めて全市を克明に描いたもので、駅付近に役所やホテルなどの建物が少し群集しているほかは、めぼしい建物はミシガン大学くらいで、鉄道には汽車が煙をなびかせ、街路には馬車が行きかい、大学構内には遊歩する人影が見えるという優雅なものである。一八八〇年といえば熊楠の印象記の七年前で、それが「支那の魯のごとく学問一偏の地」の第一印象に、極めて満足したことは明らかである。

 熊楠が父親から米国留学の許可を得たのには、おそらく商業のような実業の学という条件のあったことは想像にかたくない。しかしサンフランシスコの実業学校はとうてい彼を満足させるものではなかった。サンフランシスコ湾岸地区の対岸オークランドは、セントラル・パシフィック鉄道の起点として、東部の諸都市や中西部のシカゴへ鉄路を延ばしている。ようやく日本からここまでたどりついたものの、資金の都合や事前に十分な連絡・準備ができなかったために、いわばここに「吹きだまった」日本人留学生たちは、いつの日かセントラル・パシフィック鉄道で、より高級な大学へ行く夢を捨てることができなかったという。

 まさにこのような青年の一人として、熊楠は友人の村田源三と共に、明治二十一(一八八八)年八月八日午後四時過ぎにオークランド駅を出発して、東西部の大学遍歴の旅に出た。はじめはリンカーンのネブラスカ州立大学をめざしたが、実地をみて失望し、ランシングに至って、ミシガン州立農学校に入学した。農学校というのは、父親と約束したかもしれない実業の学に範囲内ででもということであろうか。しかし総合大学の「有名なるミチガン州大学」を見て、彼の心は動いたようである。「履歴書」に書かれている飲酒事件によって農学校を退校したかれは、純粋な学問へ独学の意志を固めてアンナーバーに居を移す。もっとも、彼が事情をよく伝えなかったのか、判然としないが、いずれにせよ大学の籍にない留学生として、二年以上の歳月をアンナーバーで送るのである。

 ミシガン大学は一八一七年予備高校としてデトロイトで創立、二一年に現在の大学名となり、三七年にアンナーバーに移転、四一年校舎が造られ、五○年には理事会が構成された。一八七一年から一九○九年まで在任したエンジェル学長(James Burrill Angel, 1820-1916)は、『英国百科事典(エンサイクロペディア・ブリタニカ)』(十五版)が比較的簡単な「ミシガン大学」の項目の中でも特筆しているほどの名学長で、国際法の大家で、『国際法における進歩』(一八七五年)という著書があり、中国やトルコに領事として赴任したこともある名士であった。したがって法学部の評判が高く、当時条約改正問題をかかえていた日本からも、少なからぬ法学部希望者を呼び寄せることになったようである。エンジェル学長の下で、ミシガン大学は急速に一流大学の仲間入りをし、ハーバード大学、エール大学とともに、著名な州立大学として知られるようになった。アレーゲニー山脈以西で最初の医学部が創設され、全学を通じてアメリカ史の講座が開かれ、アメリカでは最も早い時期に、黒人(一八六八年)および女性(一八七〇年)にカレッジの門戸を開放した。当然、東洋の留学生たちにも好意的であったろう。こうして多数の私費の日本人留学生が集中することになった。熊楠は二度にわたって日記の中に、「当時アナボア留学日本人」とし氏名と出身地を列記しているが、その数はともに二十五名に達する。当時これだけの数の日本人留学生のいる大学は、ほかになかったのではあるまいか。

 熊楠自身もアンナーバーには心を惹かれ、ランシングの州立農学校に籍を置きながら、何かと理由をつけて一時滞在をしている。明治二十年十一月から翌年三月まで猩紅熱発生のため農学校が一時休業となるや、同年八月末まで滞在、そして同年十一月には農学校を退校して居をアンナーバーに移すのである。

 この街の郊外で、熊楠は連日のように野外採集にはげんだ。対象はもちろん主として植物だったが、化石などのこともあった。街の北東をヒューロン河が大きく迂回して流れているが、その河辺も絶好の採集地だった。友人の飯島善太郎に誘われて金色の蓮を見たのもこの河である。もちろん猛烈に読書もした。博物学や進化論の書を読みふけったが、仏教関係書も多く読破した。仏教に哲理と西欧近代科学を結合しようという計画もここで生まれた。仏教と植物を両輪とする研究スタイルもほぼここで確立された。『珍事評論』第二号の「渡部竜聖法印に与うる書」の言葉を借りれば、「日中は沢を渉り林を排って物性を極め、夜半は経を繙き蔵を転じて物心を覓む」(原漢文)である。

 酒もよく飲んだ。「酒肆に飲」という言葉が日記に頻出する。しかし酒肆ばかりで飲んでいては財布がもたないから、各人の部屋を廻り持ちすることになる。熊楠がいちばん長く滞在したのは、南十二番街(サウス・ツエルフス・ストリート)の下宿だった。

 明治二十二年十月五日の日記、「夜チッケン [chicken] 及牛肉と葱を合せ烹、渡部氏米を齎し来り、因て諸生を饗す」として、おおいに飲み食い騒いだ記事の後、「当夜予が唄しどど一」として、

私のととさん文化の生まれ、アナバー府サウス・ツエルフス・ストリート、南方君のへやなかに、つどひ給ふはのらくられん、いつもきげんの留学諸君、一の間三好の太郎坊、二の間は麻布のほら大尽、三の間新門辰五郎、気は慷慨の松村君、弁は小沢の正太郎、粋は渡部判吾君、ランセットにピンセットは武石に鈴木君、飲こむお酒はハーフ・ダーズン、酒をのむならこよひのざしき、よそじや一所にのまれやせぬ、ともいはなけやその日がすごされぬ。

と記している。アンナーバーの愉快な日々がしのばれるではないか。

 しかし熊楠は本質的には孤独だった。純粋に学問に打ち込む者は、熊楠のほかには、条件つきで経済の小野英二郎、仏教の渡部竜聖などわずかな例外がいるだけで、多くは洋行で箔をつけようという、帰国出世待望型であった。このことがやがて熊楠を苦しめることになるのだが、それは『珍事評論』や『大日本』の項にゆずることにする。

 それに留学生がめっきり減るという事情もあった。帰国するものに対して新来者が少ないのである。どうやら二十五名ないし三十名前後というのがピークだったようである。これには日本の海外留学事情の変化がかかわっている。明治十年前後までのように、留学さえして帰国すれば、高等教育機関や官庁で容易に職を得られる時代は過ぎ去りつつあった。国内の教育制度の拡大充実とともに、その卒業生だけで充分席をうめることができるようになった。やがて明治三十年頃以降、留学生はもっと専門化を要求されるのだが、この頃はちょうど過渡期であった。事実、熊楠の仲間たちも、帰国しても、大学の教授や官吏より、中学の教師や、新聞記者に甘んじるものが多いように見える。それは留学生の減少をもたらす。ミシガン大学はまだ名門だったが、昔日の盛況は衰えていった。こういう状況のなかで、熊楠の仲間たちは次々と帰国し、熊楠はフロリダとキューバを迂回して、ロンドンへ向かったのである。

 結論をいえば、アンナーバーは南方熊楠が独学で学問の大志に生きることを決意した街であった。連日、植物野外採集に励んだ土地であった。植物と仏教を両軸とした研究スタイルを確立した処であった。英京ロンドンで学びたいという希望もここで胚胎した、と見ることができる。

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『大日本』 (一八八九・二)

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 ミシガン州アンナーバーで発行された手書き回覧新聞。創刊第一号だけで第二号以降は発行されなかったものと見られる。昭和五十五年、埼玉県入間市藤沢の橋本家所蔵の文書から新井勝紘が発見・紹介した。立憲政友会の衆議院議員橋本(のち粕谷姓)義三がアメリカから持ち帰った、明治二十年代のアメリカ邦字新聞三十八点中の一つであるが、これだけが手書きである。たて五〇・五、よこ三八センチ、一頁五段組みで、四頁立てである。筆跡から見ると四人で分担して書いている。「大日本」という墨書のタイトルが第一頁の最上欄を占め、「駅逓局不認可」とある。

 発行日は一八八九(明治二十二)年二月一日であるが、熊楠の日記によると、実際は二月四日らしい。発行所は「安南房南十二番町三十七番地」(アンナーバーのサウス・トゥウェルフス・ストリートの No.37 で、当初は福田友作、ついで堀尾権太郎、南方熊楠と、住人が替わっていく)の大日本社で、持主が茂木虎次郎、編集人が堀尾権太郎、主筆は南方熊楠、それに特別寄稿家小沢正太郎とある。ただし、この南方熊楠は貼り紙で、その下には福田友作と書かれている。また特別寄稿家小沢正太郎も貼り紙である。これは福田を主筆として準備を進めながら、急に南方熊楠に交替し、あるいは小沢も応援に招かれたのではないかということを暗示している。

 この新聞の内容、背景、スタッフなどを説明する前に、その生みの親ともいうべき新聞『新日本』について解説しなければならない。

 一八八七(明治二〇)年オークランドに集まった山口(畑下)熊野、石坂交歴ら、六ないしは七人の青年が蒟蒻版の新聞『新日本』を創刊した。九月のことである。彼らはいずれも国内の自由民権運動に敗北・挫折し、新しい活動の基盤を新大陸に求めようとしていた人たちで、亡命あるいは在米民権家と呼ばれる。『新日本』は月三回発行、一部五銭で、当初は二百部程度発行されたらしく、主として日本国内の有志たちに送付されたが、その激烈な政府攻撃の内容のために、国内では発禁・没収の連続であった。

 しかし、アメリカでもその周囲に支持する留学生たちが集まり、翌年一月には正式に在米日本人愛国同盟会が結成され、『新日本』に続いて『第十九世紀』、『自由』、『革命』、『愛国』、『小愛国』と発禁処分のたびに改称しつつ刊行された。『新日本』は結局十六号まで刊行されたが、福田、茂木、堀尾、小沢、それから直接『大日本』に関与しなかったが橋本義三など、アンナーバーに集まった人びとは、当初からの『新日本』の賛同者、後援者と目される。そして南方熊楠も彼らの誰かからすすめられたのだろうが、途中からの定期講読者であったことが、日記から確かめられている。

 おそらく茂木と福田が企画の中心だったと思われるが、『大日本』と『新日本』との題号の相違が暗示するように、それは極めて国権意識の強いものだった。明確な政治的意図をもって、海をこえて祖国へ紙の爆弾を届けようとするものではなく、たかだか三十名のアンナーバー在住の留学生の間に、主張を展開しようとするものにすぎなかった。「社説」によれば、その主義目的は次の三ヵ条である。

  第一吾社ハ大日本国ノ大日本国タル所以ヲ発表スルニアリ

  第二吾社ハ社会ノ弊風ヲ矯正シ徳義ヲ奨励スルニアリ

  第三吾社ハ政治上ノ自由平等ノ正義ヲ遵奉主張スルニアリ

 第三条で「自由平等」をうたってはいるが、力点は第一条にあり、「国権なくしては民権なし」という主張と見られる。社説中の解説を読んでも、「憂国愛民」をモットーとして、日本国内や留学生間に横行している欧化主義などに反対している。また、朶運生(新井勝紘はこれを福田ではないかという)の寄稿になる「大日本発行」では、自由平等主義、平和主義、道徳主義、愛国主義、愛友主義などに徹して活動することを期待している。これらはすべて発行日以前にあらかじめ準備されていた記事と思われる。

 ところが発行日も近付いた一月下旬にある事件が起こった。それは「日本人留学生禁酒決議事件」とも称すべきもので、これによって前記のような主筆の交替(福田→南方)となり、紙面の第三頁に熊楠の記事が登場して大いに物議をかもすこととなる。手短にことの経緯を記してみよう。

 一月二十四日、留学生大会が開かれ、大学のエンジェル学長から、日本人留学生は借金と大酒で道徳地に堕ちる状態にあるから、対策を講ぜよと小野英二郎に提案があったとして、まず禁酒決議が上程された(議長は岡崎邦輔)。反対意見もあったが、学長の威信が強かったこともあって、小沢正太郎の反対票のほか、全員(熊楠を含めて)が賛成票を投じた。しかし小沢の反対のために結論に達せず解散となった。熊楠は自分の追随的態度を大いに反省したらしい。翌日、サンフランシスコから到着した堀尾を迎え、夜には小沢と会談して巻き返しを図り、二十六日の二回目の会議では借金の問題を前面に持ち出し、ついに禁酒決議を霧散させてしまう。さらに熊楠の日記によると、二月一日と三日に、小沢、堀尾、茂木、南方の四人が会合し、四日に『大日本』を発行している。福田は学長提案に迎合し自ら禁酒誓約書を提出したというから、ここで主筆の交替が行なわれたことは明らかである。

 熊楠の筆になる記事は、「近世名士伝其一 麻布大尽伝」という戯文を除けば、すべて「雑報」記事で、一月二十六日(土)の二回目の会議を皮肉たっぷりに評したもので、急いで追加して書かれたものであろう。いわく、「去る土曜日の衆会、何ぞ中々其初に盛にして、中頃にあやしくなり、其末終にかっぱの屁同然の成り行を促せるの甚急なる、(中略)真に吾輩臍の緒切て以来のつまらぬこと是に過ず」云々と評し、近所の酒屋へ汝が酒を売ったのがけしからぬと説教に行って逆にやり込められた男の話など、具体的に名は挙げないが、当人あるいは仲間内では誰それのこととわかるゴシップが書きつらねられている。

 これを回覧したのだから、福田を含めて学生会派の怒りを買ったのも当然である。さらに二月九日の夜に、南方、小沢、堀尾の三人は学生会派の連中が多く下宿しているチーバー女史宅の上り段に、酒のあきびんと書状一通を置いて帰った。そこで学生会派は、小沢、堀尾、茂木の三名を法学部から追放しようとする。当初熊楠を不問に付したのは大学の籍がないからである。しかし、結局熊楠も謝罪状の提出を求められる。だが熊楠と茂木は頑強に抵抗し、調停に乗り出した中立派もサジを投げて、事態はうやむやのうちに一応おさまるが、回覧途中で『大日本』は行方不明になってしまう。

 以上が『大日本』の内容と、その発行に関する事態の経過である。

 アンナーバーの留学生たちにとって、これで一応事態は終結したように思われた。しかし熊楠にとっては終結しなかった。かれは事件の黒幕である長坂(岡崎)邦輔や、変節漢の福田友作などに筆誅を加え、日本人留学生社会の欺瞞をあばき、あわせて自己の心事を述べ主張を展開するために、一切を自分一人でとりしきる個人新聞『珍事評論』を計画する。その発行は約半年後のことになる。

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岡崎邦輔(おかざき・くにすけ 一八五三〜一九三六)

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 岡崎邦輔(旧姓長坂)は和歌山県出身で、明治〜昭和期の政党政治家である。陸奥宗光の子分かつ分身として出発し、星亨の懐刀、原敬の片腕として活躍し、立憲政友会の領袖として、衆議院議員当選十回、勅選貴族院議員の略歴をもつ。今日あまりその名が知られていないのは、表舞台に立つことを避け(大臣は、農林大臣に一度なっただけである)、もっぱら党務に専念したからであろう。そのため謀士・策士と呼ばれる一方、私欲のない高潔の士とも評された。もとより和歌山県選出議員であるから、その点で熊楠との関わりはある。しかし二人がもっとも緊密に交際したのは、アメリカのアンナーバー時代――それも喧嘩相手としてであった。

 岡崎邦輔は嘉永六(一八五三)年三月一五日(ただし衆議院議員提出の履歴書によると翌嘉永七年同月同日)、紀州藩士長坂角弥の次男として生まれた。長坂家は当時家禄四百石、西町奉行・勘定奉行をつとめるほどの名家であった。邦輔の母は陸奥宗光の母の妹で、邦輔は十歳も年長の従兄を終生尊敬した。維新後、明治六年には陸奥を頼って上京し、陸奥邸の食客となり、いくつかの役所に出仕したが、明治十一年には郷里和歌山に帰り、警察関係の職務に就いた。十三年には和歌山警察署長になったが、博徒との付き合いが原因となって、翌年十一月免職となった。熊楠はアンナーバー時代、邦輔攻撃の武器としてこの「経歴」をさかんに使っている。

 明治二十一年、陸奥が駐米全権公使として渡米したとき邦輔も随行した。陸奥は秘書として使うことも考えたようであるが、当時三十六歳の邦輔は英語の読み書きも会話もできなかったので、日本人留学生の最も多かったアンナーバーのミシガン大学に留学することになった。邦輔には没後まもなく刊行された二つの伝記(小池龍吉『晩香岡崎邦輔』と平野嶺夫『岡崎邦輔伝』)があるが、この時期に関してはあまり詳細ではない。ただ陸奥が邦輔の「才機」を相当高く買っていて、新しく開かれる議会に送り込む考えを持っていたこと、ミシガン大学の学資も陸奥が出し、川田甕江の娘婿の杉山令吉(熊楠と同船同室で渡米、当時ミシガン大学に留学)に世話を依頼する手紙を書いていることなどは、史料的に明らかにされている。ただ、まず小学校初年級に入り、ABCから勉強をはじめたというから、本当に大学に入学したのかどうかも定かではない。

 昭和六十年自民党和歌山県支部刊行の『岡崎邦輔関係文書・解説と小伝』(伊藤隆・酒田正敏共著)が、「前記伝記にはミシガン大学卒業とあるが、正規の大学課程ではなく、なんらかの特別コースでもあったのであろう」と述べ、さらに陸奥の意図について、「当時の日本人が最も多く留学していたアンナーバーに邦輔を送って人材を物色していたのであろうか。あるいは今後の政治的秘書役を訓練することに主眼があったのだろうか」と論じているのは、ほぼ首肯できるところである。――いずれにせよ、こうして熊楠と邦輔との接点が生じたのである。

 アンナーバーにおける熊楠と邦輔との対立と確執については『珍事評論』の項を参照されたい。邦輔の側に立っていえば、 ミシガン大学のエンジェル学長から日本人留学生の酒と借金の問題を提起されたとき、解決困難な借金の問題をはぐらかすために、あっさり禁酒決議で迎合するというのは、おそらく邦輔の知恵だろう。政治家見習としての小手調べの気持ちもあったろうし、留学生間に威信を確立する下心もあったろう。策としては当を得たものともいえるし、成功の可能性も小さくなかった。― 熊楠という奇妙な人物さえいなければ。

 岡崎が留学生の間で勢力を得たのは、バックに陸奥がいて、帰国後出世街道を進むと見られたからである。そして岡崎はこの予測によく応えた。明治二十三年一月、陸奥とともに日本に帰った岡崎は、二十四年には陸奥の地盤を譲り受けて和歌山から出馬、衆議院議員に当選し、やがて立憲政友会の領袖としてはなばなしく活躍する。

 大正十一年植物研究所資金募集のため上京した熊楠は、岡崎と三十年をこえる歳月をはさんで再会した。岡崎は快く寄付に応じ、熊楠も如才なく、色好みの岡崎のために処女を喜ばせる話などをしてサービスしている。以後若干の文通をのぞいて、両者の交遊には語るべきほどのことはない。

 しかし岡崎邦輔の生涯を見ると、有能ではあるが不幸な二流の人という感が深い。傾倒した陸奥宗光を早く病で失い、その智謀に参画した星亨は刺客に刺され、総裁として支えて首相の座に送り込んだ原敬も同じく刺客のために東京駅頭で失い、最後には、次の総裁高橋是清まで二・二六事件で殺されてしまうのである。事件の前年、かれは『憲政回顧録』を著して、苦い思いをこめて政党政治の苦戦の路をふりかえっているが、事件後は自らが政友会の幕引きをせねばならなかった。そしてそのために健康を害し、同年七月二十二日世を去った。

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福田友作(ふくだ・ともさく 一八六五〜一九○○)

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 福田友作は、『妾の半生涯』の著者福田(旧姓景山)英子の夫として知られている。南方熊楠とアメリカのアンナーバーで親交のあったことは、『珍事評論』によってはじめて明らかとなった。

 友作は慶応元(一八六五)年八月、下野国都賀郡穂積村間中(現・小山市)の、近在でも屈指の蚕種問屋の長男として生まれた。繭商人として武相の地を歩いている間に民権運動に触れたといわれるが、同じく後に渡米した海老沼弥蔵らとともに鴎村学者に属していた。明治十九年、茂木(佐藤)虎次郎、橋本(粕屋)義三らと相前後して渡米し、サンフランシスコやオークランドで活動し、愛国有志同盟の結成に参加、ついでアンナーバーに移ってミシガン大学法科に学んだ。熊楠は友作を新井章吾の子分と見ているが、新井は栃木自由党のリーダーで大阪事件に参画した。友作は直接事件には関係しなかったようだが、その渡米の動機について、「アメリカ社会へのあこがれというより、むしろ大阪事件による国家権力の圧迫からのがれる意図が含まれていたと考えられる」(藤野正巳「福田友作ノート」『田中正造とその時代』四号)という見方がある。

 熊楠は『珍事評論』のなかで、長坂(岡崎)邦輔とともに福田友作を名指しで非難し、口をきわめて罵倒している。福田が茂木の友人かつ同志だったにもかかわらず、大学当局の意を体した小野英二郎の禁酒決議提案に迎合し、珍妙な禁酒誓約書を提出したばかりでなく、岡崎などと組んで茂木をはじめとする反対派を圧迫し、追放まで計画したことが、熊楠にとっては許しがたい卑劣な裏切りとうつったのである。なにしろ残されているのが熊楠側の主張と「事実」ばかりだから、福田がなぜこのような言動をとったのかを理解するのは難しい。しかしこの人には、帰国後の生活と照らし合わせてみてもわかるように、あまり苦労を知らぬ人間の性格的な弱さがあったようで、またアメリカ社会に対するコンプレックスも作用したようにも見受けられる。

 当時のミシガン大学学長、J・B・エンジェルの威信は相当強かったらしい。熊楠まで含めて(小沢正太郎という人物一人をのぞいて)全員が一度は禁酒決議に賛成票を投じたくらいでいる。何しろ学者(国際法学者)としても、公人(教育者・外交官)としても令名が高く、ミシガン大学を一流大学に引き上げた中興の祖である。その提案には抗しがたいものがあったとしても無理はない。しかし福田が茂木たちの追放まで画策したとすればやはり問題で、熊楠は一時は福田に憎悪の念まで抱いたようである。

 『珍事評論』における福田に対する筆誅ぶりはすさまじく、些末な言動不一致やアメリカ女性との交際のだらしなさにまでおよんで、ややファナチックでさえある。『珍事評論』第一号に、禁酒決議事件をめぐる諸人数を、フランス革命の名士たちに見立てた戯文がある。自らをルソーに、茂木をロベスピエールに、小沢をダントンに、小野をルイ十六世に擬しているが、福田の見立てはラフェート(ラ・ファイエット)で、「はじめの出はよかったがつまらず、仏国革命史上これほど恥をかきし人はなしとぞ」と笑殺している。「人権宣言」を起草しながら、途中から革命派や市民を弾圧した裏切りを指弾しているのである。

 福田は明治二十三(一八九○)年十月アンナーバーを去って帰国した。国会における民権派議員の態度を傍聴してはなはだしく失望し、教育を手段とする改良派の道を歩もうと考えたらしい。小石川区江戸川町にある中村敬宇(正直)の同人社に招かれて教鞭を執り、館野芳之助の『刀水新報』の社員となり、病気の館野にかわっていっさいの事務を担当し、郷里で『穂積文叢』を著して青年の教育を志したという。こうして景山英子と邂逅する。

 当時英子は大阪事件で結ばれた大井憲太郎と別れ、大井との間にもうけた一子竜麿(のち憲邦)を引き取って生活していた。『妾の半生涯』では福田とはじめて会ったのは明治二十三年とあるが、この年は福田が熊楠とまだ酒を飲んだり喧嘩をしたりしている年だから、明らかに記憶違いで、村田静子の『福田英子』(岩波新書、簡にして要をえた友作の小伝を含む)も指摘するように、二十四年の春のことであろう。やがて福田の方からプロポーズして二人は同棲するが、当然福田の親たちの怒りをかい、経済的にも困難を招いた。長男哲郎、次男侠太を産んだのち、入籍もするが、結局うまくいかず、親族会議の結果友作は廃嫡となり、若い夫婦は東京に戻った。当時夫婦の家の書生だった少年の石川三四郎は、その『自叙伝』の中で友作と英子の姿を同情をこめて回想しているが、やはり友作の性格的な弱さ、優柔不断さを指摘している。やがて友作は、脳を病むようになり、明治三十二年十二月二十日、英子が三男千秋を生んだ日に発狂した。原因は脳梅毒だったという。座敷牢の生活は半年近く続き、翌年四月二十三日、福田友作は短い生涯を閉じた。

 葬儀は日を改めて郷里の穂積村で十二月十五日に営まれた。墓碑銘は、のちの衆議院議員であり、アンナーバー時代の友人であり、因果の『大日本』を日本に持ち帰っていた粕谷(橋本)義三が草した。

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茂木虎次郎(もぎ・とらじろう 一八六四〜一九二八)

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 茂木(のち佐藤姓)虎次郎の名を熊楠はほとんど常に寅次郎と書くが、戸籍上は虎次郎であるという(笠井清による)。また姓はしばしば「もてき」と読まれるが、南方家に保存されている虎次郎の写真(『南方熊楠アルバム』五十頁参照)の裏の署名は、姓をローマ字で Mogi と記している。

 茂木虎次郎は元治元(一八六四)年六月に埼玉県児玉郡本泉町大字太駄の庄屋の茂木太平の次男として生まれた。

 このアメリカ時代の無二の親友の経歴について、土宜法竜に対して熊楠は次のように述べている。

これは、もと茂木寅次郎とて、横浜の原善三郎方の丁稚なり。秩父の里正せしものの子なり。貧にて サンフランシスコよりワシントン領に流寓し、木を伐りて金集め、ミチガン州大学に入り、自分著書を売り出し(『廃死刑論』)、名を博し、帰国後、中島信行君の世話で、右の豪家(注=紀州の佐藤長右衛門)へ婿となり候。これまた独学の人ゆえ、至って固牢執拗なるが、また自然に勇気逞しく、至ってわけ分かりしものにて、私と二人寒家を借り、道明寺ほしいなどいうものを食して勉強致し候。私の苦学せしありさまなどこの人よく知れり。毎度帰国をすすめられ候。他日紀州へ御出でなされ、那智へでも行かるれば、一面会、私の相変わらざることを御述べ下されたく候。留学七年中に、日本人として語るべきものは、このもののみに候。(『南方熊楠土宜法竜往復書簡』第3書簡、一八九三年十二月と推定される)

 法竜とならんでロンドンで知り合った畏友孫文に対しても、熊楠は虎次郎を紹介している。孫文の明治三十四年四月三日付書簡に、熊楠への報告がある。「弟すでに佐藤くんに見過うこと二次、これと天下の時事を暢論し、大いに生平を慰む。この人真に奇男子なり」(原漢文)。

 これよりさき明治二十三(一八九〇)年にミシガン大学を卒業して、親友の橋本(粕屋)義三とともに帰国した虎次郎は、二十四年、橋本とともに『自由新聞』に参加して再び民権運動を開始したが、やがて佐藤長右衛門の養子となり、オーストラリアの木曜島の真珠貝採集事業に着手する。紀州の青年を動員したこの事業は、はじめは順調に進んだようだが、折からの黄禍論のなかでイギリス側の妨害を受けて、結局は挫折してしまう。

 その後、虎次郎は横浜へ出て、原善三郎などの後援で、横浜貿易新報社を創立したりしたのち、群馬県から衆議院議員選挙に出馬する。明治三十六年(第八期)、三十七年(第九期)、四十一年(第十期)と連続当選し、計九年間、最終的には立憲政友会に属して活動している。しかし日糖疑獄に連座したため、親友の粕屋(橋本)義三が衆議院議長にまでなったのに対して、ついに中堅議員の域を脱することができなかった。虎次郎が議員活動を断念して、朝鮮で新たな事業を経営しようと考えたのは、そのためだったかもしれない。

 虎次郎は、参謀型というより、いわゆる大将型の人物だったようである。『大日本』をはじめとする在米時代の熊楠との交遊をみても、そのことは察せられる。熊楠は、かれの快男児的な性格を深く愛したが、かれが関東で議員活動をするようになってから、両者の交遊はうすくなったようである。

 虎次郎の朝鮮での活動や晩年に関しては、笠井清『南方熊楠外伝』(吉川弘文館、一九八六年)に詳しい。それは同民会と称し、朝鮮人も日本人も同じ国民として融和することを基本とした。会長には朝鮮人をあて、虎次郎は実務を担当し、原家の財政的後援をうけてある程度の成果をあげたといわれるが、所詮は融和政策の域を出ることはなかったろうと思われる。若くして民権運動に参加しながら、ついに国権意識を脱却することのできなかった虎次郎の軌跡が、ここに完結しているように思われる。

 虎次郎は、大正十五年四月二十八日、京城で宗学先という三十歳の朝鮮人に刺された。宗は無蓋の自動車に乗っていた虎次郎を、朝鮮総督斎藤実と見誤って刺したのだという。そのときは胸部や腹部に重傷を受けながらも、一命はとりとめ、一時は恢復したように見えた。しかし傷口から病菌が侵入し、次第に健康がすぐれなくなり、それが原因となって、昭和三年九月六日、京城で死去した。

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三好太郎(みよし・たろう 一八六三〜没年未詳)

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 三好太郎は陸軍中尉・子爵、三好重臣(一八四〇〜一九〇〇)の長男で一人っ子である。

 重臣は長州藩士で、通称は軍太郎、奇兵隊の参謀で、薩長連合にも参画した。維新後、明治三年陸軍大佐、西南戦争で軍功を挙げ、十三年陸軍中将、十七年子爵・陸軍軍監、二十七年枢密顧問官という略歴をもつ。『明治過去帳』の三好重臣の項によると、太郎の渡米は明治十八年九月十七日で、後年の熊楠の上松蓊宛書簡によると、継母を誘惑して勘当同然の身で渡米したという。アンナーバーの日本人留学生会では草分け的存在である。この街では学生に部屋を貸す家庭が多かったが、太郎はミシガン大学医学部助手のドクトル・ブルーワル(Dr. Breuer)の家に下宿し、主人夫婦だけでなく令嬢の好意も得た。やがて二人は相愛の仲となった。一八八九(明治二十二)年十一月十五日の熊楠の日記に、三好太郎の「同居報告」とも称すべきものが筆写されている。

拝啓 小生儀兼てミスブルーワー嬢と結婚相整居候処、今般此地に引取申候。付ては婚儀式挙行可致筈に候へ共、以勝手暫暫延引仕候也。日更て可及御披露候間、此段一寸報申上候。早々不具 明治二十二年十一月 三好太郎 南方熊楠殿

 もっとも十一月二十日の日記には、「三好氏はブルーアルといふ女とオハイヲにて婚し(高野、之が証人たり)、当府墓地の辺某街にわびしきすまひ、一ケ月八弗の室、月二人にて十八弗でくらせるとのこと。堀尾の説には、どうやら月が重なりやとの文句通りの由。これ予が前より察せし所ろ」とある。つまり相手はすでに孕んでいるということだが、翌二十三年二月十日の日記には、「今夜高野氏談しに、三好氏女子を挙たる由」と記されている。

 この娘は琴子といい、熊楠はこちゃんと読んでかわいがった。明治二十三年八月二日以降、三好夫妻の家に長期にわたって同居するようになったのである。さらに二十四年三月四日には三好家の長男東一が生まれた。この頃、熊楠は三好家よりも小沢正太郎の下宿に泊まることが多くなったようである。長男まで生まれては、太郎も帰国を決意せざるを得なくなる。熊楠はアンナーバー留学生会の草分け的存在だった三好のために、盛大な留送別会を願い、小沢正太郎に発意してもらって、明治二十四年四月二十五日、クック・ホテルで開催する。しかし、当時すでにフロリダ、キューバ行きを決意していた熊楠は、四日後の二十九日、三好の舅のドクトル・ブルーワル方で決別の晩餐会を開き、その夜ジャクソンヴィルをめざしてアンナーバーに別れを告げる。

 三好は五月一日アンナーバーをたち、七日サンフランシスコからチャイナ号に乗り込み、二十二日妻子とも無事に横浜に着いた。

 琴子について言えば、熊楠はジャクソンヴィルでドクトル・ブルーワルから送られた琴子の写真を受け取り、自分の写真を郵送している。またロンドンにおける日記の記事(明治二十七年一月十二日)によると、アンナーバーで琴子にチェーンバーズの『ブック・オブ・デイズ』を贈ったことがあるという。

 熊楠が昭和四年、田辺で天皇に進講の際に着ていたフロックコートが、アンナーバーで三好太郎にもらったものだったという話がある。後年「地突き唄の文句」(平凡社版全集五巻二六頁)という随筆の中で回想しているが、「……明治二十二年の仕立で、三位中将重臣様(三好子爵)の令息より貰った着古し、破れ次第に、不断繕うから、論理学上問題のテーセウスの船と一般、古いとも新しいとも斉しくいい得る希代の珍品だ」と記し、ロンドンで徳川頼倫から祝筵に招かれたときも、御召艦長門で進講の際もこれを着たと述べている。

 三好太郎の後半生は明らかではない。熊楠との文通も絶えていたようだ。ただ明治四十三年七月十一日の受信欄に、「会田太郎状一(旧姓三好、大坂北区上福島北二丁目九十四)」とある。熊楠の名が新聞紙上にちらほら見えるようになった頃である。おそらく懐旧の念にかられて手紙をよこしたのであろう。しかし、その後文通が復活したようには見受けられない。

 三好重臣は明治三十三年十一月二十九日に死去したが、爵位は嗣子の東一がついだ。東一の姉の琴子は外松男爵に嫁したという。これで大体の事情は察せられるが、筆者はなお太郎の消息を知りたいと思い、三好家を訪ねたことがある。執事が「あのお方は当家と全く関係のないお方ですので、ご返事はできませぬ。お引きとりください」と口上を述べた。国際結婚がそれほど珍しくなくなった昨今ならいざ知らず、明治の中頃、それも子爵家とあっては、むずかしい問題もあったに違いない。子供たちだけを入籍し、自分は相続を断念して市塵に隠れた人のプライバシーを尊重したいと思い、調査を打ち切って今日にいたっている。

ウェブ管理者付記:三好太郎は、後年姓がかわりました。この新しい姓について、長谷川氏編の『南方熊楠日記』(八坂書房)では、日記中の受信記録(1910年7月11日、上述)を「倉田」と読んでおり、本書でもそのように表記されていました。しかし、『南方熊楠邸資料目録』(2005年刊行)の編集過程で、南方邸に現存する来簡と、日記の当該箇所を再検討した結果、姓の読みを「会田(會田)」と改めることになりました。当ウェブでも、そのように改訂いたします。(2005. 4. 18)

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小野英二郎(おの・えいじろう 一八六四〜一九二七)

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 小野英二郎は昭和二年に没したとき日本興業銀行総裁の地位にあったから、アンナーバーの日本留学生仲間では出世頭と言ってよいかもしれない。英二郎は元治元(一八六四)年六月二十三日、筑後柳川藩士小野作十郎の長男として生まれた。維新後、家は貧窮となり、京都に出て同志社に入ったが、明治十七年に中退し、十一月シティ・オブ・トウキョウ号で渡米した。内村鑑三と同船、同室であった。シティ・オブ・トウキョウ号は、二年後熊楠が乗船したシティ・オブ・ペキン号の姉妹船で、ともに四千トン前後、三本マストの機帆船で、サイド・マストと高さを競う煙突から石炭の煙をはいて進んだ。英二郎はクリスチャンで、最初オベリン大学で学び、卒業後さらにミシガン大学に入って、もっぱら財政経済を専攻した。このアンナーバーで熊楠と交遊を結んだのである。

 熊楠は個人新聞『珍事評論』第一号の「アナバ府人傑銘々伝画抄目録」の中で、勉強列伝の筆頭に小野英二郎と記しているから、その点では一目置いていたようである。小野は明治二十二年六月二十七日、「日本における産業の変遷」という論文で、ドクター・オヴ・フィロソフィーの学位を受けた。デトロイト・トリビューン紙は、「日本の小野英二郎、大学における外国人の注目すべき業績」という見出しで、大きな記事をのせたという。

 ミシガン大学当局およびエンジェル学長が、小野を日本留学生中の筆頭の秀才として高く評価していたことはいうまでもない。小野は性格も温厚で、留学生の間に人望もあった。だからこそ学長は小野を呼んで、近頃、日本人学生は酒と借金の二点で乱脈である、対策を講じてほしいと命じたのだ。しかし岡崎邦輔や高崎行一と結んで、反対者を圧迫する小野の態度は熊楠を怒らせた。

 しかし、熊楠は小野に対して基本的には好意を抱いていたようである。明治二十二年十月、小野の帰国に際して、送別会に参加して演説し、九つの都々一を甚句にして歌い、大喝采を博している。「夜十一時前歓を尽して帰る」と日記にあり、この夜、ジョン・ラボックの『文明の起原』、翌八日停車場でフンボルト叢書六冊を贈っている。この送別会に、熊楠だけでなく、茂木、堀尾、小沢など、かつて対立した連中がほとんど集まっているのも、小野の人徳を示していると言ってよいだろう。

 帰国後の小野英二郎は財政エリートの道を邁進した。明治二十三年母校同志社内に政法学校を創設して子弟の教育に当たり、二十九年には日本銀行に迎えられ、東京、大阪、ニューヨーク、ロンドンを歴任、四十四年営業局長に進んだ。大正二年には日本興業銀行に転じて副総裁に任ぜられ、十二年に総裁に推され、昭和二年に没した。この輝かしい軌跡は熊楠の歩んだ道と交差することはなかった。ただ英二郎の息子・俊一の道が、一度熊楠の道と交差した。明治四十五年五月二十九日、熊楠は小野俊一からの書簡を受け取る。雑誌『山岳』に転載された神社合祀反対の文章に感銘を受けての書簡だった。その後二人の間にとくに文通の発展はなかったようだが、俊一にとっては一つの事件だったかもしれぬ。

 英二郎の孫の小野有五は、「熊楠のフィールド・ワーク」(『現代思想』平成四年七月号)という文章のなかで、英二郎が息子の俊一(有五の父)の留学に際して、「社会主義に染まるな、外国人を娶るな、熊楠のようになるな」と釘をさしたという話を、私は聞いたことがある、と述べている。社会主義に染まるなとは、あるいは福田友作や小沢正太郎を思い出したのかもしれぬ。外国人を娶るなとは、おそらく三好太郎や高野礼太郎を念頭においたのであるまいか。それにしても、熊楠のようになるな、とは直截である。よほど強烈な印象を受けたものと見える。もっとも、息子が熊楠とその神社合祀反対運動に関心を抱いていることを知っていたとすれば、心中おだやかではなくなるのは当然だが……。

 小野有五によると、俊一は大正三年に東大を中退して動物学を学ぶためにドイツをめざしたが、モスクワで第一次大戦の勃発に遭い、ペトログラード大学で学んだ。「それ以後の生涯は、むしろ英二郎の生き方に反発し、熊楠の生き方にならうものであった。すなわちペトログラード大学では大いに勉強しながら学位もとらずに帰国し、京都帝大動物学教室の助教授に赴任したものの一年足らずで職を辞し、以後は在野のアマチュアとして生涯を過ごしていたのである」という。

 銀行家としてほぼ最高の地位に昇り、その手腕、学識、人格を誉めない人はないという小野英二郎は、省みて自分の生涯にいささかの悔いも抱かなかったろう。しかし若年一時の友、南方熊楠は、彼にとって喉にささって抜けぬ小骨のような存在だったかもしれない。

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川村駒次郎(かわむら・こまじろう 生没年未詳)

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 南方熊楠が明治二十四(一八九一)年キューバでめぐり合った日本人曲馬師。同年十月二十七日の日記に次の通り記されている。

朝川村駒次郎氏来訪、人物至て美なる人也。良久く話して去る。氏は曲馬師也。弟二人(一は十一、 一は七才)つれ来り有る由。一昨年九月 桑 港 よりテキサスを経てメキシコに入り、それよりキュバに来り、ハイチ、ヤマイカ、ポートリコよりヴェネヂュラに往る又帰りしはしけの内に此家の亭主にあひ、予の此家に在るを知り、旧里の人なつかしく尋ねられたりと也。(芸名京極駒治。)此前には天津よりカルカッタ迄行きし由。

    京都河原町通リ四条下ル 順風町二十八番戸 河(川)村駒次郎(京極駒治)

 その後も、十月二十八日に川村兄弟が来訪、二十九日には熊楠が尋ねて会えなかったが、十月三十日、十一月一日、四日、五日と熊楠は川村を訪うて面談している。十一月八日には、「午後川村氏当地近傍のいなかえ興業に赴く。兄弟共」という記事がある。また十二月十五日には、「昨日より川村氏熱病、余毎日夜看病す」と記されている。ところがこれほど親しくまじわりながら、川村のサーカスに参加したという記事は日記にはないのである。

 また、後年「新庄村合併について」(平凡社版全集六巻一九八頁)という随筆のなかで熊楠は、「明治二十四年、余その辺へ往った時、天晴自分がこの地方へ先着第一の日本人と思うたが、実は自分より先に日本人が四人ほどおった。それはイタリア人でその五年ばかり前に東京へも来たカリニ(日本でチャリネ)氏の曲馬団の芸人で、……」と述べており、それに従って川村駒次郎と、豊岡新吉・百済与市・長谷川長次郎の三人、計四人の熊楠がキューバで会ったサーカス芸人を、いわゆるチャリネ団員とするのが普通だが、この通説をただちに承認するわけにはいかない。というのも、川村が九月にサンフランシスコよりテキサスを経てメキシコに入ったという明治二十二年には、チャリネは日本で興行しているからである。

 蘆原英了『サーカス研究』(新宿書房、一九八四)、阿久根厳『サーカスの歴史』(西田書店、一九七七年)や明治期の新聞記事を総合すると、日本で英語風にチャリネと呼ばれているサーカスは、イタリア人グィセッペ・キアリニー(G.Chiarini)を団長とするヨーロッパの著名なサーカスで、アメリカへ渡って大陸を横断し、サンフランシスコから中国へ渡り、明治十九年上海より来日した。横浜、東京(外神田秋葉ヶ原、築地旧海軍原、浅草公園、〈以下翌二十年〉靖国神社境内)、横浜、大阪、神戸ではなばなしく興行した。離日後、上海、香港、マカオ、シンガポール、インドと巡業し、明治二十二(一八九五)年八月、再び来日し、横浜や東京(浜松町河岸中州など)をはじめ、各地で興行した。蘆原英了によると、その後、オーストラリア、チリ、ブラジルを訪れたが、ブラジルで世界巡業を打ち止めにし、国王ドン・ペドロの個人調馬師となり、リオデジャネイロで死んだという。外国文献でG・キアリニーの足跡を追ってはいないが、以上の記述から見て中米に足跡が及ぶという点については疑問を抱かざるを得ない。

 日本ではあまりにもG・キアリニー(チャリネ)の一座の印象が強烈だったので、すべての外国サーカスをチャリネと呼ぶようになった。それどころか日本チャリネと自称するものまで出る始末だった。だから、熊楠が日本人旅芸人からチャリネの名を耳にしたとしても、それがキアリニー一座のことだったかどうかは疑問で、彼の足跡が一九二四年頃キューバに及んでいたいう記録は見当たらない。東洋・豪州・南米を巡業したとはいえ比較的大都市中心だった彼が、中米のような興業的価値の低い土地を巡業するとは考えにくい。また、熊楠が随筆などでサーカスのことを書いているなかで、日本人や黒人の芸人のことはよく書いているのに、白人の芸人のことを一言もしていないのも、気にかかる点である。G・キアリニー一座はなんといっても白人中心の一座だからである。

 熊楠が川村をはじめ、四人の日本人サーカス芸人とキューバであったことは事実で、彼らは熊楠との邂逅によって日本旅芸人史に名を残した。しかし彼らがG・キアリニー一座に属していたかどうかについては、疑いを残して後考を俟つよりほかない。

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中井芳楠(なかい・よしくす 一八五三〜一九〇三)

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 中井芳楠は南方熊楠と同じく和歌山出身で、熊楠の在英期間、横浜正金銀行ロンドン支店長の職にあり、ロンドン日本人会の初代会頭もつとめ、故郷からの送金・通信をはじめ、生活に窮したときの借金に至るまで、熊楠がもっとも世話になった人物である。日記を読むと熊楠がいかに頻繁に中井芳楠・竜子夫妻を訪ねていたかがわかる。ロンドンに着いたとき父親の訃を告げる弟の常楠の手紙を渡したのも中井だったし、わざわざ呼び寄せて土宜法竜を紹介したのも中井だった。

 中井芳楠は嘉永六(一八五三)年十月十三日、和歌山藩士作左衛門の長男として城下東鍛冶町に生まれた。戊辰戦争で藩の兵役に服し、維新後、大阪の兵学寮で下士官資格を取得したのち上京、明治五(一八七二)年五月、三田移転直後の慶応義塾に入学した。明治八年卒業後、房州、大阪、徳島などで英語を教え、また故郷和歌山の自修学校の校長となった。中井が生涯の仕事とした銀行業務をはじめて手がけたのも和歌山であった。明治十一年九月、資本金二十万円の第四十三国立銀行が和歌山で開業した。地元の有力者が参加したこの銀行の支配人職に、中井が着任した。しかし中井の望みはさらに大きかった。明治十三年十月、横浜正金銀行の本店外国為替主任となって、中井は本格的な銀行家の道を歩みはじめる。

 横浜正金銀行は明治十三年二月末に開業していたが、開業と同時に銀価暴騰のあおりをうけ業態の変更を余儀なくされ、結局、御用外国荷為替(輸出前貸金融の一種)の採用を決め、同年十月にこれを発足させた。中井はまさに銀行の主要業務の中枢に着任したのである。

 横浜正金銀行は今日の東京銀行の前身であるが、この時期に、「日本唯一の外国為替銀行」としての独特の地位を確立し、それによって獲得された金・銀の正貨は、明治十八年からの日本の銀行兌換券発行の基礎を形成した。この業務で頭角を現した中井は、明治二十三年秋、国際金融の中心ロンドンへ、初代支店長となるべく赴任した。

 熊楠はすでに明治十九年十二月、渡航直前に、アメリカへの為替を組むために横浜で中井の世話になっていたが、明治二十四年秋にはジャクソンヴィルからロンドンの中井と連絡をとり、渡英の準備をすすめていたことが日記にも記されている。そして在英八年の間、経済問題をはじめとして万端の世話になったのである。当時のロンドンにおける中井の威信は、一銀行支店長にとどまるものではなかった。横浜正金の性格からいって、おおげさではなく国際金融の中心、ロンドンにおける日本政府代表の顔であった。公使はじめ公使館員の信頼も厚く、日本人会の会頭でもあった。

 中井がロンドンで果たした業績のうち特筆すべきものが二つある。一つは日清戦争賠償金三億六千万円のロンドンでの受領および日本への送金である。当時の国民所得の実に二十八パーセントに達する巨額の正貨が、中井の組織した方法によって、七年余の歳月をかけて送金され、これによってはじめて日本の通貨は金本位制に転換することができたのである。いま一つは、明治三十年の軍事公債四千三百万円の再起債および三十二年の新規債一億円の起債である。ロンドンで発行されたこの二つの外債の手取金は、中井の組織した償金送金ルートに乗せられて日本へ送られたのである。

 これらの業績に報いるために、横浜正金は明治三十二年三月、中井をロンドン支店長在任のまま取締役に任命した。さらに同年十月、政府も中井を勲五等に叙した。一銀行支店長としては破格の叙勲だった。しかし激務は中井の身心をむしばんでいた。一時帰国中の明治三十六年二月に中井は東京の自宅で息をひきとった。

 熊楠は当時那智にあって、田辺の多屋勝四郎からの手紙でその訃を知った。二月十三日の日記に次のように記されている。「夕多屋勝状一受、中井芳楠氏本月九日暁死亡、十二日本郷弓町二丁目廿六番地出棺、築地本願寺に於て午後一時葬式相営申候云々知せ入れあり、嗣子在独国長三郎、妻竜子とあり」。

 さらに二月十五日の日記の末尾に二首の悼歌を書きとめている。

    悼中井芳楠君

     大門の辺りにてことの外赤き紅梅を見て

  那智の山涙にそめて一本の 色かはりぬる花もみえけり

  思ひやれ涙にそむる那智の山の 梅の花の色はいかにと

 さらに二月十六日にも、熊楠には比較的珍しいことだが、三度筆を執っている。

朝多屋秀太郎氏へ状一出す。同氏ハガキ一受。ピルス伝三ページよむ。それより妙法山に趣く。寺へ凡そ八町といふ処に指したる手を木札にかき、妙法へ八町、死出の山ぢで思ひ知せる、と仮名にてかきたり。此辺熊篠はえ、物さびしきこと限なし。中井芳楠氏を追懐しながら歩く。途上、大雲取道よりあなたにては人にあひしこと、堂の前にて一人巡礼如きにあへるのみ也。此とき已に五時過ならん、日光見えずなる。因て帰る。ヤマドリ二疋見る。帰れば七時過頃也。(中略)

    思ひやる此世の死出の山路さえ 分け行いとどかなしきもの哉

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多屋たか(たや・たか 一八八四〜一九五六)

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 田辺で南方熊楠の恋人と噂された女性である。彼女が結婚した脇村民次郎は、東大教授で経済学者の脇村義太郎の伯父にあたる人であるが、その脇村義太郎の『回想九十年』(岩波書店、一九九一年)にも、南方さんの最初の恋人です、と述べられている。

 明治十七(一八八四)年、多屋寿平次の次女として田辺の中屋敷町で生まれた。多屋家は広大な山林地主で林業を経営し、田辺きっての素封家であった。寿平次は熊楠の父との交際もあり、熊楠の兄が四十三銀行の頭取だったとき、副頭取をつとめた関係もあって、熊楠の明治三十五年五月から十二月にかけての田辺・白浜滞在中と、明治三十七年十月以降の田辺定住期の初期には、その貸家を熊楠に与え、いわば保護者の格であった。熊楠は葬式嫌いでめったに参列したことがなく、松枝夫人の父の田村宗造の葬儀にも行かなかったくらいであるが、寿平次の葬儀には棺を挽いたほどであった。

 明治三十五年五月、熊楠が多屋家の人々と交際をはじめた頃、たかの姉のつたは串本の素封家、矢倉甚兵衛に嫁いでおり、たかは二人の妹とともに父母に仕えて家を守っていた。多屋家には、たかの上に四人の兄がいた。秀太郎・銀次郎・昌三郎・勝四郎である。熊楠はとくに銀次郎・勝四郎とは酒友としてよく遊んだ。熊楠という特異な異性の出現が、当時数え年十九のたかに衝撃を与えたことは容易に想像できる。ひそかな慕情を抱いていたのではないかと想像もされるが、「一言いいしことだにもなし」という熊楠が気付くはずはなかった。

 翌三十六年二月九日、那智山麓市野々の大阪屋に移っていた熊楠は、突然たかから手紙を受け取った。当日の日記に「朝多屋氏第二女高より状一受。是れ予人の処女より状受ける始めなり。又終りならんか」とある。

 たかが自分から手紙を寄せたのには伏線があった。前年の十二月二十四日、熊楠は市野々のはずれで美しい芝売り女を見かけ、田辺の芸妓、打村愛子を思い出し、「かれ芝に人の思ひをからみつけさこそは恋の重荷なるらめ」と詠んで愛子に贈った。兄の勝四郎からこのことを聞いたたかは、ちょうど熊楠が泉治平と取り違えた父の形見の帯の返還を勝四郎に依頼し、その処理を兄から命じられたのを幸いに、手紙を寄せることを思い立った。「……前日、勝兄への御手紙に、さる日勝浦よりの途上、美しき芝うる女見られ候よしにて、御名歌なかなかめでたく、よしあし見わかぬ身ながら、『私もその女になりたかったよー』と存じ候えども……」と記している。明治の女性の手紙としては相当に大胆なものといってよい。

 熊楠は同日夜、ただちに長文の返書を書いた。いまルソー『自懺篇』(『告白』のこと)にならって、半生の英文の自伝を書き始めているが、その中へ必ずあなたのことも入れると書いて、たかを喜ばせ、「田辺なる多屋の角辺にかけし橋ふみ(文・踏)みるたびに人もなつかし」と歌を贈り、正岡子規の思い出から連歌論に移り、父の寿平次に送るべきシダについて説明し、種々脱線の末、在米時代に友人、高野礼太郎の異国女性との恋をうたった「とれど奇談、孝と恋迷ふ両道」を転写して結ぶという長文のものである。さらに翌十日にはパブの様子を描いたロンドン生活戯画の葉書、十一日にも、「鳥の足のあとも定かに見えぬ迄こひにけらしなわれならなくに」と歌をしるし、今日より枯柴の和尚と自ら呼ぶことと致す、と述べた葉書を送っている。

 たかも、この長文書簡と二通の葉書に対する返事を十四日夜にしたためている。とても返歌などよめぬと遠慮し、「妾に代りて御読み下されたく……」というたかに対し、熊楠は〈消印、勝浦・二月十九日〉の葉書で、前状の鳥の足の歌の返歌、代作仕り候として、「おぼつかなまだふみしらぬ鳥の跡なにならふとて人に見せけむ」と詠んでいる。これらの往復書簡は『熊楠漫筆』(八坂書房、一九九一年)に掲載されているが、とくに第二信の末尾でたかが、「おお/枯柴大和尚様みもとに/火をも入れさせ給へ妾に」と結んでいるのは、注目されてよい。

 たかを含めた多屋家の人々との交際は、熊楠が翌三十七年十月、那智から田辺へ出て、定住するようになってからも長く続いた。三十八年は熊楠が連日のように大酒に酔いしれた年だったが、次のようなエピソードもあった。

 三月十二日に熊楠は知人から送られた「ホイスキー」で大酔し、午後九時頃自宅(多屋氏の借家)に戻ったが、自力で玄関から入ることができず、暴れ、結局、たかが女中を連れていき介抱、「予を裸にし、衣類を庭におきくれる」。ところが、「予は大浜の悪き旅宿にて下女に衣はがるると心得、盗人と呼ぶ」。もちろんおたかさんは逃げ帰ってしまい、裸の熊楠はしばらくして自分の家と気が付く始末だったという。

 おたかさんは南方先生の恋人、という噂が田辺を流れないでもなかったが、やがて三十九年七月、熊楠は闘 神社宮司、田村宗造の四女まつゑ(松枝)と結婚し、あとを追うようにというべきかどうか知らぬが、たかも翌四十年、田辺の素封家、脇村家の次男民次郎と結婚した。当時京都大学の大学院生で、前記のように東京大学経済学部教授脇村義太郎の伯父に当たる人物である。そして、田辺で教職を歴任する夫に仕えて、生涯田辺の町を出ることはなかった。

 熊楠と交際していた頃の多屋家の家族の写真が『南方熊楠アルバム』(八坂書房、一九九〇年、八二〜三頁)に掲載されている。いかにも旧家の子弟・子女の写真で、ほほえましい。姉妹はいずれも美人だが、特にたかには怜悧な美しさがある。熊楠宛の手紙の部分写真もあるが、筆跡もなかなかのものである。たかは第二信のなかで、「これらの御文、妾の大切のものとして一生保存し、憂き折りの好慰物としておかんと、嬉しくて嬉しくて堪らず」と述べているが、これらの書簡、葉書を大切に保管し、死後、南方家に返還した。

 一方、熊楠もたかの二通の封筒を大切に保管し、松枝夫人にまで見せて、その手跡の美しさをほめたという。松枝夫人は、自分の妹の広恵の方が上手だといい返し、「父と母はこのことでは、いつもいい合いをしていました」と、熊楠の娘の文枝は今でも笑いながら語るのである。また文枝はたかの印象について、「何か会合があって、おたかさんが入って来られると、ぱっと座が華やぐものでした」と語っている。

 ……あまりに手蹟見事なる上、実情あることのみかき来るから、予も記臆にまかせ、古えありしおかしかりしことなど画にかき、また物語にし和歌添えなどして贈りおれり。

 話はただこれだけなるが、それにつけて考うるに、西洋にチバルリー(chivalry)ということあり。これはわが朝、ことに支那などには、ちょっと訳のできぬことにて、人の妻でも娘でもよし、中古の武士が守り本尊のごとく一人女を胸中に認めて、ただその女に辱かぶせず、ほめられん、ほめられんとのみ武道を励みしことなり。(中略)下って哲学者にもたまたまこの類ある。デカルツは余と同様の偏人なりしが、一生に一度可愛いと思う女ありし由。またコムトはなんとかいう後家と交わり(いやらしきことは一切なしになり)、その励みのために哲学すすみし功あることをみずから述べたり。(仏の十八世紀のいわゆるヴォルテール、ルソー輩のは、これと異に、まことに学者に似合わぬ人の妻と親交する風大いに盛んなりし。本夫もこれを咎めぬを美風とせしなり。gallantry 〈ガラントリ〉という。これは、わが中古の和泉式部が夫ありながら道命阿闍梨と寝、敦貞親王に通わせなどせしようのことにて、わが邦にはありし。)

 予の心中、今さら一少女ぐらいなんともなきは、米虫これを知れり。しかしながらこれをもって推すに、男子たるもの、意中に真に可愛いと思う女のありなんには、まことその人の業進み行修まり、意固く心たしかになる功あること、ちんぼ立つに土砂ふりかけたり、埒もなき田夫の娘を大黒にしたり、また、たとい満足に表むき妻持ちうるも、六つ指とか腋臭とか、どこか欠けたものにあらざればきてくれぬ、今日の真言坊主らの心中の土台すでに壊劫を経おわれるものに比すれば万々ならんか。ただし金粟如来、過去に善を修すること無類にして、今生すでに相好円満なり。(『南方熊楠土宜法竜往復書簡』第46書簡)

 たかとの文通が始まった直後、明治三十六年七月十八日付法竜宛書簡の中で、熊楠はたかのことを報告して右のように述べている。

 多家たかは昭和三十一年十一月四日、世を去って田辺の脇村家の菩提寺に葬られた。

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 南方熊楠が東大予備門時代から大酒だったこと、特にビールを好んだことは、日記から知られる。当時ビールは高価な酒だった。週刊朝日編『値段の風俗史』によると、明治二十二年の日本酒上等酒は一升(一・八リットル)十四銭九厘、ビール大びん一本は明治二年には十四銭で、あまり変わらない。その後ビールの値段は相対的に安くなって行き、熊楠がまだ盛んに飲んでいた大正十(一九二一)年の日本酒の上等酒二円五十銭、中等酒一円七十銭、並等酒一円二十銭に対して、大正十二年のビール大びん一本は三十九銭で、ほぼ今日の比率に近いが、明治二十年代前半には日本酒に比してかなり高価で、それを愛用したことは国許からの送金の潤沢さをしのばせるものである。

 アメリカでは、とくにアンナーバーでは、連日のように飲酒を重ねたが、酒の種類は別に明記されていない。ただし、「履歴書」によると、ランシングの州立農学校で大酒して退校の原因となった酒は「ホイスキー」であった。なお、アンナーバーで発行した『珍事評論』第一号には「禁酒の大益」という戯文がある。文中、「古来耶蘇教の元祖ジーサスを始めとし、セントポールとかセーントバーナードとかいふ大聖賢は、伝中飲酒を載ざること稀なり。(中略)埃及のアイシス、オシリス、印度のブレーマ、帝 釈 天、何れか祭るに酒無からん。ペルシャ拝火教の開祖ツールスツラーは三十年の間チーズを食ひ、牛の乳で作りし酒のみ、飲で教理を考しといえば、其行ひ甚だ記者に似たりけり。……」と滔々と弁じている。クリスチャンの禁酒の宣伝がよほど気に食わなかったものと見える。ロンドンではもっぱらビールをたしなんだ。パブでは「ビッター、プリーズ」を連呼したと自ら書いているし、木村駿吉と痛飲してしびんをひっくり返し、階下の住人から厳重な抗議をうけたように、下宿でもビールであった。帰国してからは、日本酒とビールの併用であった。

 この人の大酒についてはあまりにも「伝説」が多い。片端から挙げていったら紙面がいくらあっても足りないだろう。嘔吐の名人だったというから、その酒量は底知れないものだったにちがいない。しかし筆者は、熊楠の大酒についての第三者の記述には、あまり信用のおけないものが多いのではないかと思っている。どうしても誇張がともないがちなのである。むしろ克明に書かれた日記の記述の方が、この人の飲みっぷりを理解するのに役に立つ。大酒して、いわゆる「討死に」となり、記憶を失っても、翌日仲間に問いただして、自分の酔態を記録する几帳面さがある。とくに圧巻なのは明治三十八年の一月から四月にかけての日記である。元来この部分の日記は空白だった。四月八日からつけはじめることにして、一月一日から、四月七日までをまとめて一気に書き上げたのである。ただし「勘定書、受取等に引合わせ、記憶のまま追記也」とあるから、当然のことながら記事はすべて飲酒と、それに伴う喧嘩・口論・乱暴沙汰ばかりである。ぜひ『南方熊楠日記』のこの個所を一読されることをおすすめしたい。

 明治三十八年という年は、熊楠にとって危機的な年であったといってよい。前年の十月に那智隠花植物採集に一段落がついたからというが、筆者は、これ以上那智山中で暮らせば、自己崩壊の危機を感じていたのではないかと考えている。翌三十九年には松枝夫人と結婚し、一応の市民生活に入るのだが、この年はその中間期である。方途は定まらず、到底実現しえない海外再遊放浪の夢を抱きながら、憂悶を酒に流すしかなかったのであろう。しかし李白の詩句ではないが、「杯を挙げて愁いを消せば愁いは更に愁う」である。たしかに東京でも、アンナーバーでも、ロンドンでも、飲酒の記事は日記に多い。しかし基本的には陽性の酒である。この田辺の一時期ほど「破滅型」の飲みっぷりは珍しく、そこに熊楠の憂悶の深さを読みとるべきなのであろう。

 酒にともなう奇行や失敗譚も数々語り伝えられているが、そこに共通しているのは極端にシャイな性格である。多数の人に講演することの嫌いな人で、そういう場合はしばしば酔って登壇した。田辺では、明治四十二年台場公園売却反対集会で、酔って壇上で都々逸を歌い、さらに巡査と乱暴に及ぼうとして、石友(石工の佐武友吉)に助けられている。大正九年、高野山に菌採集に登った時、しぶしぶ講演を承知したが、定刻になっても会場の大師堂教会に現われず、さがすと小さな居酒屋で飲んでいた。結局、壇上で突然泣きだしたり、「恒河のほとりに住まいして(チンチン―口三味線)娑羅双樹の下で涅槃する」と二上りの調子で歌いだす始末だった。大正十一年、上京した時、中山太郎にともなわれて国学院大学へでかけたが、壇上に立たされても一言もしゃべらず、百面相をしてみせたという。もちろん酔っていたのである。

 講演会ではないが、明治四十三年田辺中学で開かれていた紀伊教育会主催夏期講習会の会場に、神社合祀推進派の県吏に面会しようと「乱入」して警察に拘引された時も酔っていた。会場へ行く前に牟婁新報社を訪れた時にも、すでに少し酔っていた。社長の毛利清雅の言によると、「あとで聞けば先生は、社で飲んで、それから小倉酒店で飲んで、玉三酒店で飲んだ。今朝来ビール瓶を倒す事約十幾本……」という状態だった。結局、酒の上のことだというので「放免」になった。

 一目を置く人と面談する前にもどうしても飲まずにいられなかったようである。大正二年の年末に柳田国男が田辺を訪れたときも、自宅に柳田を迎えながら、こちらから旅館に伺うといって帰し、旅館の錦城館へ行く途中で例の小倉酒店に寄り、さらに旅館の帳場で、初めての人に会うのはどうも恥ずかしいと酒を注文している。柳田の部屋に通されたときにはすっかり出来上がっていて、両者のただ一度の面会は奇妙なものとなった。大正九年、高野山ではほぼ三十年ぶりに土宜法竜と面会した時もそうである。宿舎の一条院の宿房で朝食中に金剛峰寺から電話がかかってきて、管長(法竜)が面会したいという。朝食を中止して同行者たちは衣服を改めたが、熊楠は茶碗を突き出して「酒」と命じて結局二本飲んだ。翌十年の法竜との再度の面会の時も、同行の画家楠本秀男は「先生先きに酒気あり」と書き、法竜の部屋が暖められていたため一時に酔いを発し、いびきをかいて眠り込んでしまった、と述べている。

 これほど酒を愛し、酒におぼれた人が、晩年には禁酒して一滴も飲まなかった。ただ、その時期と理由については異説が多い。大正十四年に書かれた「履歴書」では、大正五年に感冒をこじらせて肺炎になりかかった時期以来禁酒している旨述べているが、これは受けとりがたい。高野山でも東京でもさかんに飲んでいるからである。息子の熊弥の発病や、発作中の息子が粘菌図譜を破棄するのをみてショックを受け、禁酒を決意したという説もある。いかにももっともらしいが、その頃はすでに禁酒していたようである。最も身近にいた雑賀貞次郎が「南方熊楠先生を語る」(『南方熊楠 人と思想』平凡社、一九七四年、所収)のなかで、「大正十二、三年ごろ」と語っているのにしたがうのが妥当であろうか。ただし、特定の理由や直接の動機は書かれていない。

 しかしあれほど鳴り響いた大酒である。酒の付け届けはおいそれとは止まなかったが、そういう場合は門弟たちにまわすのがつねであった。また依然として飲んでいるものと思い込み、言いはやす連中も少なくなかった。たとえば大正十五年の『南方随筆』の解説のなかで中山太郎は、病人の息子を抱えて苦労している熊楠がなお「日に三升」飲んでいると書いて、熊楠や松枝夫人を驚かせた。

 息子の熊弥の発病は、熊楠にとって大きな打撃だった。病名は今日で言えば精神分裂病であろうが、小さいときから「ヒキ六」などと呼んで溺愛し、その才幹にひそかに期待をかけていただけに、特に発作中の息子が粘菌の図譜や資料をこなごなに破砕したのは、大きなショックだったにちがいない。自分が長い歳月をかけて心血を注いでできたものが、息子にとって巨大な敵となり、それを破壊することなしには自分が生きていけないと思われるほど圧迫感を与えるものと化していることを識った時、そのような状態でなお大酒しているといわれることは、たしかに心外だったに違いない。―しかしなお、この人は昂然としていた。大正十五年六月六日付の柳田国男宛の最後の書簡の末尾で、熊楠は次のように述べている。

小生はずいぶん酒を飲みたる男なり。これを飲みしには飲むべき理由がありたるなり。このことはゆくゆく世間に分かり申すべし。いかなる理由ありても酒を飲んだものが、今も酒を飲むように言いはやさるるは是非なきことかも知れず。しかるに、中山氏ほど書き立てた内に、小生が下女の閨へ這い込んだとか、私生児を孕ませたとかいうことは少しもなし。全くなきことは鬼もまた犯す能わずさとり申し候。(平凡社版全集八巻四九四頁)

 そして今日もなお、熊楠にまつわる酒の伝説はやむことがない。

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ダーウィン (Darwin, Charles Robert 1809-1882

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 この偉大な科学者の生涯や業績について今さら喋々する必要もあるまい。ダーウィンは熊楠にとって、はじめから歴史上の人物に近かった。『種の起原』が刊行された一八五九年には、もちろん熊楠は生まれていなかった。『人間の由来』が刊行された一八七一年には、数え年でわずか五歳だった。ダーウィンがダウンで一八八二年に死んだときは和歌山中学の生徒だった。そして、熊楠が渡米した明治十九(一八八六)年には、ダーウィンの著書はほとんど日本で翻訳されていなかった。精確にいえば、『人間の由来』の訳書の『人祖論』という本が明治十四(一八八一)年に刊行を開始しているが、序言と目次などほんの冒頭部分だけの三冊で、続きは刊行されなかった。もちろん若き熊楠は、モースの講演を石川千代松が訳述した『動物進化論』(明治十六年)などで、この新思想の概略は知っていただろう。

 しかしダーウィンの著書や進化論関係の書類を英文で読破したのはアメリカに行ってからだった。明治二十一年五月九日の日記に、「終日家居、オリジン・オフ・スペシイスを読む」とあるのがダーウィンの著書の初出である。同月二十四日には、「夜大坪氏室にてハックスレー氏オリジン・オフ・スペシースを読む」という記述もある。以後、彼はダーウィンの著書を、蔓脚類(フジツボ類)の研究書までは手がのびなかったようだが、大部分購入したようだ。彼にとって「現存」の生物学者たち、ウォーレスやT・ハックスレーやジョン・ラボック、それにハーバート・スペンサーの著書もかなり読んでいるが、ほとんど全著作を読んだという点では、ダーウィンほどではないように思われる。

 熊楠は、プリニウスやゲスナーのような西欧の博物学者、張華や段成式のような中国の博物志家、李時珍や貝原益軒のような本草学者たちに対すると同じように、ダーウィンに対して畏敬の念を抱いていた。ハーバート・スペンサーに対する熱狂が急速に冷えていき、ウォーレスに親近感を持っても、進化学説としては賛同できなかったのに対して、ダーウィンヘの畏敬は生涯失われなかったようである。

 熊楠はダーウィンについてまとまった文書は書かなかったが、その著書を綿密に読んでいたことは、ウォーレスとの意見の対立を的確に把握していたことでも知られる(「ウォーレス」の項参照)。また、彼は安易な、直線的な進化思想を嫌い、進中退化あり、退中進を含み、進化というより変化というべきだというような言葉を繰り返しているが、これらの批判は、いわゆるエヴォリューショナリストやハーバート・スペンサーに対するものであって、一度もダーウィンの名を挙げていないのは、ダーウィンの多元的な進化思想の中に、すでに組み込まれていることを知っていたからである。『種の起原』を通読した者ならば誰もが知る通り、ダーウィンは進化(evolution)という言葉を進歩(progress)と安易に結びつくがゆえにあまり好まず(『種の起原』第六版の追加部分では、ハーバート・スペンサーに妥協して使っているが)、元来は、変化をともなう由来(descent with modification)という用語を愛用していたのである。

 それにダーウィンはあまり「哲学」を好まなかった。ハーバート・スペンサーの演繹的な壮大な総合哲学体系は、彼にとっては結局なんの役にも立たないものであった。このことは『自伝』の中ではっきりと述べられている。これも熊楠がダーウィンについてまとまった言及の少ない理由の一つかもしれない。

 いずれにせよ、ハーバート・スペンサーと決別したのち、ラプラス、ライエルに続くチャールズ・ダーウィンが熊楠の大乗仏教との結合を夢見た西欧の「変化の学」の巨峰だったことはまちがいない。

 もう一つ忘れてはならないのは、熊楠がいわゆるアマチュア学の筆頭にダーウィンを置き、それを彼自身の理想としていたことである。

 このアマチュア学者、あるいはリテラート(literate)という言葉は、熊楠論に、よく引き合いに出される言葉だが、初出はおそらく酒井潔の「南方先生訪問記」(『談奇』昭和五年九月、前出『南方熊楠 人と思想』所収)であろう。酒井の聞き書きは次の通りである。「大体帝大あたりの官学者がわしのことをアマチュアーだと云ふが馬鹿な連中だ。わしはアマチュアーではなくて、英国で云ふ文士即ちリテラートだ。文士と云つても小説家を云ふのじやない。つまり独学で叩き上げた学者を呼ぶので、外国では此の連中が大変にもてる」云々。

 そして熊楠はダーウィンと共に、ウォーレスやハーバート・スペンサーの名も挙げている。たしかに学位を持たず官途に就かなかったのは三者に共通だが、測量技手や鉄道建設技師・経済雑誌編集者として働いたウォーレスやスペンサーに比べて、ダーウィンの方がはるかに純粋なリテラートといえそうである。

 熊楠は生涯に三度だけ、教授ないし高等研究員の職に就きそうになったことがある。ロンドンでディキンズが助教授の席を用意しようとした時、土宜法竜が真言宗高等中学林教授として招いた時、米国農務省のスウィングルが招待した時である。最初のケースは、彼自身の言によるとボーア戦争のために破談となり、あとの二回は長い躊躇の末に断わって、一生、田辺でアマチュア学者として生を終えた。よくいえば「自由な精神」、悪くいえば「身勝手で非妥協的な性格」のためのこの選択を正当化するものとして、彼が挙げるのが、上記のイギリスでなお一部残っていた学者の生活様式だった。

 当時の世間にとって、とりわけ弟夫婦にとって、それが理解しがたいものだったことは当然である。そしてその代表というべきものがダーウィンであった。ダーウィンは親の財産のおかげで全く苦労を知らず研究に専念した。ビーグル号からの帰国後まもなく、ケント州のダウンに親が買ってくれた邸に入り、一生そこで暮らした。進化論と自然淘汰について想を練るかたわら、膨大な時間と労力を蔓脚類の蒐集と研究に費やした。熊楠は晩年、紀州の田辺で、おそらく海外再放浪の夢は捨てて、執筆と植物学研究に日々を送りながら、そして弟夫婦との争いや息子の病に悩まされる我が身とひきくらべて、羨むべきダーウィンの紳士の晩年に想いをはせることがなかったとはいえないであろう。

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ウォーレス (Wallace, Alfred Russel 1823-1913

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 ウォーレスという人物の簡単な説明を熊楠の言葉を借りていえば、「ダーウィンと同日、自然淘汰説を学士会院へ持ちこみたるワリス氏(現存)」となるが、それほど、これは当時すでに周知のエピソードだったのである。もっともこの言葉は、土宜法竜に宛てた書簡中の走り書きで、必ずしも精確ではない。一八五八年七月一日リンネ学会に持ちこんだのは、ウォーレスではなく、ダーウィンの友人たちだったのである。

 ウォーレスは一八二三年一月八日にウェールズのウスクという町で生まれた。七歳から七年間グラマースクールに通ったが、それが唯一の正規の教育だった。彼はダーウィンのような上流階級の出身ではなく、独学の労働者として額に汗して働きつつ博物学を学んだ。一八四八年から四年間アマゾン河流域で採集し、さらに、一八五四年から八年間マレー諸島を調査した。これらの土地で彼は標本採集者として生活し、採集した標本をロンドンの業者に売るという苦労の中で、一流の博物学者に成長した。一八六二年帰国、以後も生活はけっして楽ではなかったが、著述活動に専念した。

 一八五八年六月、ダーウィンはモルッカ諸島のテルナテ島からウォーレスが送った原稿を受け取った。「変種がもとのタイプから無限に遠ざかる傾向について」と題するその論文はダーウィンを驚倒させた。一八三八年に自分が着想し、四二年と四四年には素案(印刷はしなかった)を書き、やがては大著に仕上げようと準備していた自然淘汰説にすみずみまでよく似ていたからである。ダーウィンから連絡を受けた友人たちの奔走で、リンネ学会での発表は両者の連名となり、ダーウィンは準備していた大著を予定の四分の一ほどに縮小して、約一年で『種の起原』を書き上げた。以来、栄光はダーウィンの上に輝き、ウォーレスは陰の人、従の人となった。この措置が公正を欠くものではなかったかについては論議の余地がある。しかし、たしかにダーウィンの構想は古くからあったし、『種の起原』は彼でなければ書けなかったろう。またウォーレスは終生ダーウィンに兄事し、両者の間には何の確執もなかった。ただこの「事件」は両者にとって不幸なことだった。それは、それがプライオリティーに関するゴシップの種になったというだけでなく、かえって両者の間の学問的意見の対立点をおおいかくす結果となったからである。

 熊楠はダーウィンのほぼ全著作を読んでいたが、ウォーレスの著作もかなり読んでいた。少なくとも在米時代に、『マレー諸島』、『熱帯の自然』、『ダーウィニズム』などを読んでいたことは、日記と書簡から明らかである。そして両者の意見の対立を実に的確に把握していた。

 主要な対立点は二つある。一つは『人間の由来』の中で展開された雌雄淘汰(性選択)説とウォーレスの反論であり、いま一つは人間の精神の発達に関するものである。

 熊楠が帰国後、最初に地元の新聞に寄稿した「鶏の話」(明治四十二年)は、平凡社版全集に収録されていない随筆だが、その中に雌雄淘汰に関して次のような文章が見られる。

孔雀、七面鳥、鶉、雉、鳩等と倶に、鶏は鳥類の有距部に属す。この輩いずれも雄が雌より美壮なるを、ダーウィンは雌雄淘汰とて、雄が美なれば美なるほど、多くの雌に慕い従わるるによって起これりとし、ワリスは隠竄色(保護色のこと)の理を拠として、鸚哥、魚狗など、穴に棲む鳥が雌雄均しく美色なるに反し、すべて有距鳥は、岩洞木孔に巣くわずして、露わに土上に卵を伏せるゆえ、鷹隼の族に見付かり難きように、土と色を同じくして子孫繁殖のためにきたなくなったのじゃと、まるで亭主はのらくらしゃれまわるに、世帯嬶は化粧のひま皆無ゆえむさくろし、というような論なり。(中略)雄鶏の雌鶏に優るは形貌ばかりに限らず、音吐長く朗らかに、争闘を好むこと、男子女人より声太く高く、雄鹿にのみ角あり、虫類は牡に限って啼く等を総括比較せば、ダーウィンの論の方もっともらしく思わる。(『熊楠漫筆』八坂書房、一九九一年)

 当時の水準(ウォーレスの著書の邦訳は大正二年の『生物の世界』が最初である)から見れば、きわめて高度な紹介といえる。

 しかし人間の精神の発達と自然淘汰との関係についての両者の対立は、はるかに重大である。この対立はダーウィンの生前からはじまっているが、その没後、ウォーレスは大著『ダーウィニズム』(一八八九年)を発表し、その最末尾の第十五章「人間に適用されたダーウィニズム」の中で自説を展開した。熊楠はこれを読んで中松盛雄宛書簡の中で、戯文調ながら、なかなかたくみに解説し、論評を加えている。

 ダーウィンは、人類の進化も(精神の発達を含めて)基本的には自然淘汰によると考えていたが、ウォーレスは反対であった。彼にとって人間の精神作用は、高等動物との脳量の相違などを超えた、あまりにも高度なものであって、とうてい自然淘汰説では説明できないものであった。そして、これを説明するために、彼はダーウィンと共に一度打倒した神―創造主、超越者を再び導入した。ウォーレスによれば、人間の精神は、進化史上、人類の段階で肉体的に付加されたものであって、自然淘汰によって生じたものではない。さらにいえば、宇宙は超越者の意思によって動いており、自然淘汰は下等動物から高等動物を出現させるための超越者の手段なのである。彼はこのような考えを、その後も『すばらしい世紀』(一八九八年)や『宇宙における人間の位置』(一九〇三年)の中で展開している。

 熊楠はウォーレスのこのやや安易な「変節」が愚劣な宗教家たちの歓迎するところとなることを見抜いていた。中松宛ての戯文(平凡社版全集七巻一二〇頁)の中で熊楠は次のように指摘している。「耶蘇坊主一どこの説の出づるに遇うて、何ぞ喜悦せざらん。(中略)手の舞い足の踏む所を知らず。ワレス氏は、えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、えーらいやっちゃと、天満の沙持ちを興行せり」。そして宗教の肩を持つと非難するものに対するウォーレスの反論も紹介して、「さらにくだくだしく音楽、算数等の智識は決して自然淘汰で生ずることにあらざるを極論せり」と述べたのち、結論として次のようにいう。「熊楠はこの説に感伏せず。英国のレイ・ランケストルなども熊楠と同様のようなり」。

 なぜウォーレスがこのような主張を展開したかについては、一般に彼の心霊術―超自然的現象研究と結びつけられている。よく誤解されるように、この傾向は彼の晩年になって生じたものではない。すでに一八六〇年代から彼はこの種の本を世に出している。それと同様に、自然淘汰説は人間の身体的構造の発達を説明できても、精神や文化の発達には適応できないという主張を展開しはじめたのである。彼自らダーウィンに対して、「この問題について私の意見が全く変わってしまったのは、物理的および心的な一連の顕著な現象について研究して以来のことです」と手紙に書いていることからも、それは明らかである。

 他方、S・J・グールドのような生物学者は、人間の心についてウォーレスが一貫して自然淘汰を認めなかったのは、むしろ自然淘汰に関する彼独特の硬直した考え方に原因があったとしている。雌雄淘汰(性選択)の場合にも見られるように、多元的なダーウィンに対して、一言にしていえば、ウォーレスは超淘汰主義者(ハイ・パーセレクショニスト)であったために、人間の脳―精神を前にして、突然立ち止まってしまったというのである。

 熊楠は、生物学者としてはウォーレスよりもダーウィンの方に軍配をあげていたが、人類の文化の変遷について、ハーバート・スペンサーのように粗雑で安易な「進化思想」をとらないという点では、ウォーレスを相当高く評価していた。このことは法竜宛書簡に何回も述べられている。そして、人間の精神に関するウォーレスの所論については、一定の理解と同情を示しながらも、彼が仏教を知らなかったことを、あわれんでいるように見える。

 このことに関して熊楠は、明治三十七(一九〇四)年一月四日夜の法竜宛書簡で、「英国のワリス氏の耶蘇教心酔の強語」を次のように解説している。

この世界は天河の中心にあり、これ上帝特に人間を発達せしめんとのことに出づるとの説。ワリスは有名なる科学者にして、ダーウィンと同時に自然淘汰説を言い出だせし人ながら、年もより死も近いから、俗にいう引かれ者の小唄とて、いかな卑怯 弱のおとこでも首斬られに行くときは小唄うたうて体裁作るごとく、科学ばかりでは安心ができぬからというて大乗仏法などは知らず、例の西洋人の生かじりでほめる、身死して虚無ばかりでは大乗仏法などにはとても落ち着けぬから、相変わらず生れ生国の耶蘇説で、かかる説を出だすなり。(『南方熊楠土宜法竜往復書簡』第50書簡)

 ウォーレスの心霊主義に対する接近は晩年ますます強くなり、心霊調査協会(SPR)の大会議長まで務めている。SPRについては熊楠はロンドン時代には(法竜の依頼にもかかわらず)無関心だったが、帰国後は強い関心を示し、那智ではその指導者の一人マイヤーズの著書『ヒューマン・パースナリティー』を耽読したことはよく知られている。しかし熊楠がウォーレスのこの方面の著書を読み思想的な影響を受けたという証跡は、見当たらないようである。

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スペンサー(Spencer, Herbert 1820-1903

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 イギリス社会学の創始者といわれ、進化論を基盤とした哲学体系を築いたハーバート・スペンサーは、十九世紀後半の欧米の思想界のリーダーだったばかりでなく、日本の明治時代のインテリたちにとっても輝かしい存在だった。南方熊楠が渡米する明治十九(一八八六)年までに邦訳のスペンサーの著書は二十冊をこえていた。ダーウィンの著書がほとんど訳されていなかったのと比べると、格段の相違である。

 南方熊楠は、アメリカでスペンサーの「総合哲学体系」―一八六二年の『第一原理』に始まり、『生物学原理』、『心理学原理』、『社会学原理』、『倫理学原理』と続いて、一八九二年に完成した「進化の哲学」の洗礼を受け、非常に魅了された。のちにロンドンで土宜法竜に宛てて書いた書簡の中で、「小生考には、科学の原則はわずかに三十年前後ダーウィンが自然淘汰の実証をあげ、それよりスペンセル輩が天地間の事物ことごとく輪廻に従いて変化消長することを述べたるにより、大いに定まれるなりと存じ候」(一八九三年十二月二十一日付)と述べているように、当時の熊楠の科学思想観の根幹には、ダーウィンと並んでスペンサーが存在していた。さらに、やはり土宜法竜宛書簡で、「ラプラスの天象変化、ライエルの地層変化、ダーウィンの生物変化、ラボックの人類変化、スペンセルの宇宙万象変化等」(一八九四年三月十九日付)と列記して、仏教の因果説―「変化の理」を、西欧科学も証していると述べているスペンサーを、これらの思想の大成者とみなしていたようである。

 こういう熊楠の考えは、アンナーバーですでに確立していた。『珍事評論』第二号は未公表文書だが、その珍報欄に、『心理学原理』に寄せて次のような文章が見られる。

宇宙は地球を包み、地球は生物を載せ、生物には人類あり、人類有て心魂有り。是れ大より小に入るの順序なり。奇なるかな、進 化 説の発育成長も亦此順序に従えり。即ち、前世紀の末に中り、マーキス・ピエール・サイモン・ラプラスが星雲論を出してより、今世紀の始め、サー・チャーレス・ライエル地質の変遷を説き出し、次に卓見無双のダーウヰンがビーグル艦の板上に生物の進化を洞察し、其弟子にサー・ジョン・ラッボック人類の進化説を大成し、進化説の父と称せらるるスペンセル、プリンシプルス・オヴ・サイコロジーを著はすに及べり。(のち『南方熊楠 珍事評論』平凡社、一九九五年、に収める)

 南方家には、英国博物館のリードが当時、高名な民俗学者ゴンムにあてた熊楠の紹介状が残されているが、そこにも〈a student of Herbert Spencer and of his studies〉という言葉がある。自他共に「ハーバード・スペンサーの学徒」と称されていたように思われる。(松居竜五『南方熊楠 一切智の夢』五五頁、および注60参照)

 ハーバート・スペンサーは、一八二〇年四月二十七日イングランドのダービーで生まれた。パブリック・スクールや大学の学校教育を受けず、父と叔父から学問を学んだ。十年以上鉄道建設の技師を務めたのち、経済雑誌の副主筆となったが、一八五三年に叔父が死に、遺産を送られたのをきっかけに退職し、以前からはじめていた著述活動に専念することになった。

 スペンサーはダーウィンより十一歳年少だが、『自伝』でも強調しているように、『種の起原』以前から生物進化を唱えていた。ただ考え方は多分にラマルク的だった。基本的には、社会は個人の自主的努力によって進歩し、生物は主として獲得形質の遺伝によって進化するというのが、彼の一貫した立場だったといわれている。

 一八五七年の論文「進歩について―その法則と原因」(中央公論社「世界の名著」所収)の中で、地球、生命、社会現象のいずれの発展においても、「単純なものが順次分化を経て複雑なものにいたるこの同じ進化が遍く見られる」と述べており、一八六二年の『第一原理』以降の著書では、この意味で進化(evolution)という言葉を雄弁に操った。他方、ダーウィンは元来この言葉を好まず、『種の起原』の初版(一八五九年)では、変化を伴う由来(descent with modification)という用語を使っていた。またスペンサーは、ダーウィンの自然淘汰(natural selection)の同義語として、最適者生存(survival of fittest)を主張した。のちにダーウ ィンも最適者生存という表現を受け入れ、また進化についても、『種の起原』第六版(一八七二年)の加筆部分では使用している。しかしスペンサーの用語は、一般読者に関しては、より広く普及し、深く定着した。彼らは慎重よりも雄弁を歓迎した。ヴィクトリア朝時代の知識人にとって、進歩と結びついた進化という楽観的な観念に、なんの違和感もなかったのである。

 しかしダーウィンは、この総合哲学者に対して多分に懐疑的であった。ダーウィンの『自伝』の中には、スペンサーに関して以下のような言葉がある(「筑摩叢書」所収)。

私は自分の仕事がスペンサーの著作によって益された点があるというふうに意識してはいない。あらゆる問題を扱うに際しての彼の演繹的なやりかたは、私の心のもちかたと全く違ったものであった。彼の結論がわたしを納得させたことは一度もない。(中略)彼の基本的な一般化(ある人たちはその重要さはニュートンの諸法則に匹敵するといった)―私は哲学的な観点ではそれらが大変価値あるものかもしれないといっておく―は私には厳密に科学的な役に立つとは思われないような性質のものである。(中略)いずれにしろ、私には何の役にも立たなかった。

 南方熊楠はダーウィンに対する尊敬の念を終生失わなかったように見えるが、スペンサーに対する熱狂的な崇拝は急速に冷えていった。リードからゴンムに「スペンサーの学徒」として紹介された在英時代の後期に、彼はすでにスペンサーに対する鋭い批判を展開している。その粗雑な「進化」概念について、とくに宗教の進化について、熊楠は法竜あて書簡(次にも引く往復書簡集の第38書簡)の中で、「なにか進化進化というが、一概に左様にいわれぬ。……退中に進あり、進中に退あり、退は進を含み、進中すでに退の作用あるなり。これが因果じゃ」というような言葉で、繰り返し「進化」を論じている。しかしこれらの批判は、いわゆるレヴォリューショナリストあるいはハーバード・スペンサーに向けられたもので、一度もダーウィンの名をあげて非難していないことに注意すべきであろう。

 さらに、熊楠にとってもっとも我慢できなかったのは、スペンサーの粗雑な宗教進化論であった。口をきわめて罵倒した熊楠は、さかのぼってスペンサーの全体形―『第一原理』までも嘲笑する。ほとんどハーバード・スペンサーへの決別といってよい。

例のハーバート・スペンセルの進化説に、社会の万事みな進化なりとて、宗教進化を説く。その説を名に驚かずして熟読するに、まるでむちゃなり。すなわち最初一条一様の袈裟を着しが、おいおいいろいろに染めわけ、幼長の外の別なかりしが今は大和尚、大僧正、大僧都より味噌摺り乃至隠亡に至る分別生ぜり、というようなたわけ言なり。これは宗旨の進化よりむしろ退化を示すものにして、単に宗教外形式上の進化というまでのことなり。宗旨の進化は数珠の顆数や経巻の数で分かるものにあらず。また、もっともおかしきは、長くて整うて前後の関係ついたものを進化というと、長崎から強飯のようなことをいうが、洋人のくせなり。(『南方熊楠土宜法竜往復書簡』第38書簡、一九〇一年八月十六日付)

 南方熊楠は八年にわたるロンドン滞在中、白人社会の西欧人種優良の観念、異人種― 未開民への蔑視に常に心を傷つけられてきた。時に狂躁ともいえる行動の原因も多くはそれだったのである。ハーバード・スペンサーの主張が、この社会ダーウィニズムに直接責任があるとまではいえないかもしれないが、ダーウィンの「変化を伴う由来」を「進化」に置きかえ、「最適者生存」という用語を普及させることによって、スペンサーが当時から今日に至る社会において、社会ダーウィニズムの基盤をつくったことは否定できない。そして鋭敏な熊楠がそれを見のがはずはなかった。後年(明治四十五年四月十日)柳田国男宛書簡の中で、かれは次のように述べる。

ハーバート・スペンセルなど、さしも議論を正議するようにみずから信じ人も信ぜし人ながら、太古原始の民と今日の辺夷裔俗を同視して、事あるごとに上古民と今日の未開人を区別せず、勝手次第に引き用いたり。さて、その辺夷裔俗の風俗伝話は開化民の創製を伝えたるもので、いわゆる「礼失われてこれを野に求む」なり。このことの不当なるは独人ボースドールフという人前年論じたり。(平凡社版全集八巻二九八頁)

 チャールズ・ダーウィンの思想は、擁護から批判に至るさまざま反響につつまれながら、今日もなお生きている。しかしハーバート・スペンサーの影響力はほとんど影をひそめて、わずかに社会進化論の中に残渣を認めるだけにすぎないといってよい。そして南方熊楠の後半生の思想においても、その影響を認めることは、ほとんどできないように思われる。

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『南方熊楠を知る事典』講談社現代新書、一九九三年)


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