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  『珍事評論』の撃つもの

      ― 第弐号をめぐって ―

長谷川 興蔵     

  I はじめに

 南方熊楠はなぜかくも多大の時間と労力とを、この手書き回覧の一種の「滑稽新聞」に費したのだろうか。長く南方家に保存され、乾元・平凡両社の全集に無視され、ようやく『南方熊楠日記』第一巻付録に全文が公表された第一号(一八八九年八月十七日発兌)では、四枚(たて四六・五、よこ三四センチ)八頁、最近発見され、昨年[一九九一年]十〜十一月和歌山市立博物館に展示された第弐号(同年九月六日発行、熊楠の日記では九月十七日発行)では、本文五枚(たて五一、よこ三八センチ)一〇頁、ほかに表紙・英文目次・和文広告(後記)・裏表紙を付し、計一四頁の仮綴じ小冊子にしている。

 各頁はそれぞれ四千字内外の細字でびっしりと埋められ、時には丹念な彩画さえある。「此紙一枚二仙を要し、記者の筆労亦一日を費せり」とは、第一号社告中の熊楠のせりふだが、筆記だけで一枚一日とすれば、いかに熊楠とて想の浮かぶままにこの紙に書いたはずはないから、着想から筆記までの労力のおびただしさは想像にかたくない。多岐にわたる内容を、さまざまなスタイルを使い分け、数種の筆名ですべて一人で書いたのである。

 しかも内容はことごとく戯文と言ってよい。書けば書けたであろう論文めいたものなど見当たらない。当時アナバー在住の日本人留学生およそ三十人、そのうち親しい友人たかだか十数人を相手にした手書き回覧新聞だが、本心は真面目でも文体と表現は必ず戯文調となる。もとより熊楠に江戸期の考証的随筆や文芸作品の素養のあること、特に浄瑠璃から黄表紙、俳諧から独々逸に至る俗流・滑稽なものへの一種の偏愛があることは、その「新聞随筆」を読んだ人なら誰もが知っている。言わばその「若書き」の典型がこれらの文章と言えよう。それにしても、と読む方はつい考えてしまう。所詮は戯文ではないか? なぜかくも多大の時間と労力とを費したのだろうか?

 このことは一九七〇年当時、柳田・折口両全集の後を襲って「日本民俗学第三の巨人の全集」をめざしていた平凡社編集部にとって、全く理解の外の事柄だった。「詩に曰く、戯謔すれども虐を成さずと。僕は正に戯謔を以て諸君を虐せんと欲するものなり」(社告)という熊楠の痛憤は理解されず、ただ悪口と悪ふざけと痴気ばかりが眼についてしまったのである。もちろん文書の保存状態が悪く、解読・翻字に困難が伴ったことは事実であろう。しかし内容によって、それは無視あるいは拒否された。平凡社版全集別巻二には相当詳細な著述目録があり、掲載しなかったものも執筆が確認されれば登録されているが、そのなかにも『珍事評論』は見当らないのである。当時の編集担当者として、わたしは慚愧に堪えない。

 一九七五年の全集完結後も、少なくも明治期の日記を刊行したいと考えていたわたしは、『珍事評論』第一号の翻字も進めていた。だが『日記』第一巻の付録としてそれを公表したのは、単に紙幅の余裕のためばかりではない。その少し前に、新井勝紘によって『大日本』というアナバーで刊行された手書き回覧新聞が発見され、主筆が南方熊楠であり、彼が書いた記事も掲載されていることが判明し、その背景もほぼ明らかにされたからである。新井には『大日本』に関する二つの論文(註1)があった。わたしはそれを読み、新井と『大日本』『珍事評論』のコピーを交換して、はじめて『珍事評論』がなぜ誕生したかを理解した。

 石坂公歴ら亡命在米民権家の刊行した政府批判の民権新聞『新日本』の流れがアナバーで『大日本』を生み、ある事件を契機として熊楠が参加し、やがて独立して個人新聞『珍事評論』を発行し続けたいきさつと、熊楠の心事を理解したのである。新井の発見は在米民権派との交流を証し、予備門時代の日記に示された自由民権運動への一定の理解とともに、熊楠の思想の政治的一側面を明らかにし、遠く後年の神社合祀反対運動へも光を投げるものとされる。確かにその通りであろう。しかし側面はあくまでも側面でしかない。熊楠は外なる非義への闘いと内なる自己との闘いとをほとんど無意識にではあっても、分かちえないタイプの人間のように、わたしには思われる。

 『詩経』のことばとは逆に、熊楠が「戯謔を以て虐せん」としたのは、帰国出世待望型の軽薄な友人「諸君」だけではない。ようやく独学で学問の大志に生きようと思いはじめた自分になお残る同様な残滓でもある。だから熊楠は時に狂暴にさえなったのではないか。「……南方は根気強く珍事評論となんいへる新聞凡そ四枚八葉のものを出し、一一人の非をあばく。一同呆れはて言も出ず。万一かれこれいふときは、南瓜の肉を去り其中へ小便をたれこみ平気でかつぎ往きなげこみ、又杖で室内の鏡を破り窓をこわす。又夜中に家の入口えへどはきに往く故、一同益々おそれて服従す」(喜多幅武三郎宛書簡、註2)。――ほとんど狂躁と言ってよい。

 しかしまずはじめての読者のために、『新日本』→『大日本』→『珍事評論』という、誕生とその前史について、手みじかに述べることにしよう。

  II 『珍事評論』の誕生

 熊楠がサンフランシスコに到着した一八八七年に全米に在住した日本人は一三五二人で、七年前の一八八○年の一四八人(推定)に比べていちじるしい増加であり、大部分は官費・私費の留学生だったと言う(註3)

 それは日本が「民権」から「国権」へ大きく舵を切り換えていった時代でもあって、それらの学生のなかには、少数ではあるが、国内の民権運動に敗北と挫折を味わい、活動の基盤を新大陸に求めた者たちもあった。畑下熊野(和歌山県)、石坂公歴(神奈川県)らが中心となって、サンフランシスコ対岸のオークランドに集まり、明治政府を激しく攻撃する邦字新聞『新日本』を一八八七年九月から発行したのもそのひとつである。毎月三回、一部五銭の『新日本』は主として日本国内の有志に送られたが、その激烈な内容のため、国内では発禁処分の連続であった。しかしアメリカでも彼らの周囲には、共鳴・参加する留学生たちが集まってきた。翌年には「在米日本人愛国同盟会」が結成され、『新日本』は『第十九世紀』『自由』『革命』『愛国』『小愛国』と発禁処分の度に改称しつつ、紙の爆弾として日本へ送られるとともに、全米各地の日本人留学生の手にも渡っていったのである。

 『新日本』誕生の一八八七年九月と言えば、熊楠がランシングのミシガン州立農学校へ移ったときであるが、旧友の杉村広太郎(後の楚人冠)におくった手紙で次のような激語を発している。「顧みて日本現状を見れば、世の溷濁もまたはなはだし。……堂上の人万歳と呼んで、堂下また呼び、一国もまた万歳と呼ぶ。暴政何ぞ一に宋の康王の時に等しきや。故に、予はのち日本の民たるの意なし」。― 若き熊楠にも時代閉塞に対する痛憤はあったのである。

 もともと熊楠の父が渡米を許可したのは、商業のような実用の学の習得が条件だったことは、想像にかたくない。ランシングの農学校に移ったのも、言わばその延長線上にある。だが「履歴書」に記されているような事情から、逃亡奴隷のように熊楠は彼が生涯で最後に籍を置いた農学校から、旧知の多いアナバーに脱走する。そして彼だけが大学の籍を持たない留学生会の一員として、二年以上の学生生活を送る。すでに独学独行の志は堅く、大学の博物館はよく利用したらしいが、書物は多くは自費で購入し、エーサ・グレイの『ハンドブック』を手引きに山野を跋渉して植物採集にいそしむ姿を、わたしたちは日記に見る。一方、熊楠はよく飲み、よく談じ、よく遊んだ。ふたたび少なくとも表面的には大学予備門時代のような闊達な空気が、日記にただよいはじめる。まぎれもなくそこには異国の空の下での明治の青春群像がある。

 しかし、茂木(佐藤)虎次郎、橋本(粕屋)義三、福田友作、堀尾権太郎、小沢章太郎という、オークランドの『新日本』の影響を受けた友人たちの登場によって事態は変化しはじめる。熊楠は特に茂木と親しく、同居していたこともある。橋本は『新日本』の後身『第十九世紀』にも健筆をふるった活動家だから別格として、堀尾と小沢とは予備門の旧知だった。そして恐らく茂木を代表者とし福田(後に『妾の半生涯』の著者景山英子と結婚)を参謀として、『大日本』という数人の手による手書き回覧新聞の発行計画が立てられたのである。『新日本』との紙名の相異が暗示するように、それは明確な政治的意図をもって海をこえて祖国の人民に紙の爆弾を送り届けようとするものではなかった。たかだかアナバー在住三十名前後の留学生の間に主張を展開しようとするものにすぎなかった。一応、自由と平等をうたいはするものの国権的意識の方が強いものだった。留学生の間に流行している欧化熱に反対する気分の方に比重がかけられていたとも言える。

 発見された『大日本』は、たて五〇・五、よこ三八・二センチ、一頁五段組で四頁立ての手書き新聞である。持主が茂木虎次郎、編輯人が堀尾権太郎、主筆が南方熊楠となっているが、発見者の新井勝紘は、南方熊楠は貼り紙で、その下に福田友作と書かれていると報告している。さらに特別寄稿家小沢章太郎というのも貼り紙だと言う。このことは、福田を主筆として準備していた新聞が、何らかの理由で福田が退き、南方と小沢とが参加したことを暗示している。

 なぜこのような交替が行なわれたのか。それは「日本人留学生禁酒決議会議」とも称すべき会議から始まった。以下熊楠の日記を摘要して経過を追ってみよう。

 一月廿四日〔木〕

夜中川氏の室に会議あり。大坪、植松二氏外日本人悉く会す。是れは大学校長エンジェルより小野英二郎氏へ、日本人近頃債金多く又飲酒するもの多く、道徳追々地に堕るの様子故、矯正の策を立て己れえ報ぜよとの言ありし故也。議論の末、小沢正太郎氏好酒と投票したるに付き、議決せず解散。

 一月廿五日〔金〕晴

不快。

午後堀尾権太郎氏来る。昨夜着、直ちに福田氏の室に来り、福田氏は他の宅に移る。

夜小沢氏を訪ふ。

 一月廿六日〔土〕快

夜クロプシイホールに於て会議。右松、大坪、高野、高崎、三好、白井、杉山等。中川、吉田二氏の外悉く会す。予、高崎行一の不品行を弾劾す(議長は長坂)。会長、予の議旨を誣ゆ。因て憤懣して退場す。

会も亦尋で解散す。

 二月一日〔金〕

小沢、堀尾、茂木氏と堀尾室に飲む。

 二月三日〔日〕

夜、小沢、茂木と堀尾室に飲酒、牡蠣を食ふ。

 二月四日〔月〕

茂木と大日本といへる新聞紙発行。

 熊楠もなかなか謀士ではないか。予備門同期の堀尾と福田の室を交替させ(安南房南一二番町三七番地で、『大日本』の発行所となる)、反対票を一人投じた小沢と会見し、第二回会議で発言して禁酒決議を霧散させてしまう。そして福田とかわって主筆となり、小沢を特別寄稿家として、波紋の一石を投じようとする。

 しかもこの新主筆は三面記事専門である。熊楠の筆跡の記事はことごとく当夜の禁酒決議会議を皮肉り罵倒するものばかりだった。怒った学生会派(福田を含む)は回覧途中で没収し、委員を選んで組織的な圧迫を加えようとする。

 二月十二日〔火〕陰

朝茂木、堀尾二人、小野、福田を訪ふ。是れは昨夜の学生会にて杉山、小野、福田三名を委員とし、茂木、小沢、堀尾三人を法学部より追出さしむることに決せる故也。

 二月十七日〔日〕陰

暖、雪解。

昨夜会議にて委員に撰れたる渡部、三好、大坪三人の内大坪来り、余に学生会員に対する謝状を求む。茂木は渡部に招れて其室に至り、謝状を求めらる。予も茂木も応ぜず。

 二月十八日〔月〕雪

此夕、渡部、三好、大坪三氏より学生会員へ事諧はず其任に堪ざる由を廻文す。

 中立派が匙を投げたので事件はウヤムヤに終るかに見えた。明治の書生気質も現代学生気分もあまり変わるまい。小さな学生社会でよく見られる事件である。だが熊楠にとっては事件は終らなかった。およそ理不尽な組織的圧迫ほど彼の激情的反発に点火するものはない。しかもこの陰謀の黒幕の長坂邦輔のやり方は、熊楠に言わせれば、あまりにも露骨で陰湿だった。何しろ警察関係の職で恫喝と懐柔とを使い分ける術を十二分に心得た男が、政治家見習生として、みがきをかけようとしているところなのである。

 熊楠は六ヵ月かけて準備したに違いない。今度は『大日本』の主筆としてではなく、全く自分のものである個人新聞の全紙面をあげてたたかってやる。……

 かくて「安南房滑稽新聞」は誕生する。

  III 第一号の目録と内容

 毎月珍事蓄り次第発行

  珍事評論 第一号

             二千五百四十九年八月十七日発兌

       編輯、謄写、其他一切事務取扱ひ人 南方熊楠

   目 録

社告 発刊の主意並に読者諸君の注意

寄書 こゝが苦界のまんなかかいな

評論 初春三番叟の評○禁酒の大益○腰抜け之説

放言 答賓戯

珍報 数件

文藻 飲中八仙歌 画一つ入り

列伝 麻布大尽画伝○義僕義三之伝○渡辺判吾君伝○猥褻家合伝

小説 恋娘砕け島台

広告 三件

[翻字者補註:小説「恋娘砕け島台」は第弐号に同題の戯曲として延期掲載され、その代りに第一号には「一昨夜乱暴の理由、所存、評論及昨日福田君の卑行」が急載されている。]

 『南方熊楠日記』第一巻付録に全文が翻字されているから(ただし漢字カタカナ混り文を漢字ひらがな混り文に改め)、詳しくはそれによられたい。最も重要なのは「初春三番叟の評」を中心とする経過の戯文仕立てだが、経過そのものをすでに説明したから、ここでは紹介の一段と末尾の趣向だけ説明する。

 まず紹介の一段は、……

今年正月二十四日、中川座にて打出しの芝居の三番叟、 則 右の総出といふやつにて(中略)座元が中川又三郎、三好勘弥の両人に、勧進元は小野、高崎、蓑田も一寸加はりて、金主は則ち長坂の尻押し強く、役者は茂木、大坪、高野、南方、小沢、尋で堀尾も相加はり、程歴ぬ内に見物悉く舞台に飛入り、座元勧進元金主も共におどり出し、メツチヤ躍りと相変じ……云々

と会議の混乱ぶりを茶化している。

 最後にちょっと真面目顔で、「聊か記者の技を尽さんが為、此の活戯の面白さを仏国革命史の事に対照し、人と人、性と性、為し事とわざとをば相比し相並べて一粲を博せんとす」と述べて、

 ウヲルテール 高野礼太郎氏 色好みの人なる上、一句一言人を殺すの妙あり。

 ルウソウ 南方熊楠 ちと狂人らしく見ゆる故自推するなり。敢て其功に誇るに非ず。

 ダントン 小沢正太郎氏 千万人の中に切り入てビクともせざる也。但し其言ふ所は人に信ぜられず。

 ラフェート 福田友作氏 始めの出はよかったがあとがつまらず、仏国革命史中これほど恥をかき

  し人はなしとぞ。(後略)

などと並べて、さて敵陣営では、

 ルイ十六世 小野英二郎氏(説明省略)

 マリー・アンツワネット 高崎行一氏(同右)

 ―長坂邦輔氏 年のよったるくせに、且つは学識の無きくせに、小野、高崎などの尻おしをなし、

  残虐なる計画をほどこす。かかる姦佞なる人も亦仏国史中に無し。

と一刀両断している。

 その他、二、三の作品に限って紹介する。

 文藻の「(アナバ府)飲中八仙の歌」は、有名な杜甫の詩のパロディーである。原作の知章、汝陽、左相、宗之、蘇晋、李白、張旭、焦遂の八人に、順に三好太郎、南方熊楠、堀尾権太郎、渡部判吾、小沢正太郎、麻布(中川泰次郎)、古谷竹之助、高野礼太郎の八酒豪を配して、本作を掲げる。汝陽(熊楠)分は次の通り。

  汝陽ハ三斗始テ天ニ朝ス 道、麹車ニ逢テ口涎ヲ流ス 恨ハ封ヲ移シテ酒泉ニ向ハズ

  紀州七本始テ店ヲ辞ス 道ニ酒肆ヲ覯テ口ニ涎ヲ流ス 恨ハ校ヲ移シテ酒県ニ向ハザルコトヲ

 なお熊楠はこのパロディーを土宜法竜に見せたが、これに対して法竜は次のように激賞している。「小生は貴下の八仙歌の変体を読んで、貴下等傲遊間の実地見る心地がする。(中略)貴下の八仙歌は、小生より見ればよほど上乗の御悟り禅。しかしてこればかりに沈むのが、世のいわゆる馬鹿禅じゃ」(『南方熊楠土宜法竜往復書簡』第5書簡、八坂書房、一九九〇年)。

 放言の「答賓戯」は、本文の表題に「是れ記者尤も骨を折れる処なり」と傍注のある通り、小沢生(章太郎)との夜中問答の形をかりて信条を述べたもので、なかなか「大真面目」でもある。第一は、なぜ自ら大酒にふけりながら、他人の借金踏み倒しの悪徳を口を極めて非難するか。第二は、なぜ自ら少年愛を奉じながら、他人の乱脈な女性関係を罵倒するかについて論じている。『饗宴』論や「浄の男道」という言葉は出ていないが、英語のプラトーニック・ラーヴが「美目より精神」の少年愛の極致であると述べている。

 なお「渡部判吾君伝」も、末尾の自評に、「此文渡部君を主として羽山生を客とす。而して其辞は則ち転ぜり」とあるように、留学生中の美少年・渡部判吾伝でなく、実は自分の念友・羽山繁太郎伝で、しかも文中は繁樹という仮名を用いるという凝ったもの。内容は繁太郎との生別・死別を叙した美文調である。

  IV 第弐号の目録と内容

 第弐号は第一号のわずか一ヵ月後に発行されているので、続いて題辞と目録とを原文のまま掲げる。

  珍事評論 第弐号

                 二千五百四拾九年九月六日発行

              著作、編輯、謄写、発行、一切事務

                二代目 新門辰五郎南方熊楠挙行

              全紙八ペイジ 画三枚入り

    目 録

社告 一件

評論 Resume (Résumé) of the Rumors of Mr. K. Nagasaka.

漫言 一盃食ヒ様ノ差異、杉山君ノ言ハ当レリ、○日本ハ美術国哉

文学 与 二渡部竜聖法印 一一書 釈腎沢

珍報 福島氏ニ謝ス○アナバ府七不思議○シャレ一班〇三角学ノ旅行実録 外数件

正誤 一言ノ挨拶ヲ取消ス  南方熊楠

詩藻 小野英次郎君ヲ弔ス どゞ一 芦廼屋かたを

   少年ト贈答新賦并ニ序  平岩内蔵太郎

   スケッチ入リ  南方尭猛

戯曲 身ハ川竹心蓮葉傾城涙誰袖 道行き

三味線 熊江重平

    画入 節  南方熊右衛門

    よミきり 語 高野法螺之丞

   恋娘砕け島台 小沢正太郎やかた之段

    明治弐拾弐年九月六日夜 川竹逐阿弥

    画人 よミきり

附録 Letter to Readers.

 社告は、「本紙は博識多才を以て Plinius Japonicus 又 Literarum Miraclum の名あり……」と、例によって大上段にふりかぶったもので、末尾に「第三号は第二号帰りて来り次第発行す」とある。

 評論は前号で摘発した長坂が多くの人の悪評の的となっていることを羅列したもので、前号からわずか一ヵ月で状勢が一変したように見える。しかし、これは少し眉唾である。次の漫言に見るように、一時は長坂に完全に牛耳られていたのだから。……

 しかし全体として、長坂に対する罵言、福田に対する憎しみをこめた喧嘩売り(正誤「一言の挨拶を取消す」)は残るものの、自分の親友の履歴を語り、半ばおどけながら心情を告げ、時には仏教論を展開するなどの文章がふえていることが注目される。未発見の第三号が期待される。

 以下、二、三の文章について紹介を試みることとする。

 文藻の「少年と贈答新賦并に序」は、本文では「風流才子必読之篇(角書)、色男のろけかゞみ/平岩内蔵太郎、南方堯猛、贈答新賦」とあり、堯猛に「是は東京に在りし日の旧名也」と傍記がある。

これは土宜法竜宛書簡(前記『往復書簡』第29書簡)の中でダンテの Divina Comedia にならって、 Divina Norokeana と題し、ほぼ同じ歌を、「思ひのますかがみ」「心のはれがたな」と題して書いているが、この第弐号のが第一作である。平岩内蔵太郎は実在の人物で新宮生まれ、和歌山中学の後輩、当時東京職工学校生徒、熊楠の少年愛の相手で、熊楠は渡米の少し前に三度同床、「夕べの夢がまことの夢か 僕はまだまださめやらぬ」とうたっている。ただし序は仮構のことが多く一篇の小説である。平岩がアメリカの熊楠を恋いしたって死んだとか死にかけたということはなく、少なくも大正十一年頃まで生きている。―いずれにせよ、熊楠の浄の男道の最高の対象は羽山繁太郎ただ一人であって、この贈答歌の真情もすでに死亡した繁太郎にあり、それを平岩に仮託したものと、わたしは考える。

 戯曲の「恋娘砕け島台(小沢正太郎舘之段)」は、相模国の英雄、少壮政治家、小沢正太郎が、民権運動に挫折して故郷の舘に蟄居中、訪ねてきたお種(いろ女)とお花(いいなづけ)を共に振り切って渡米するという筋立ての浄瑠璃(読み本)である。熊楠の文体、特に新聞随筆などくだけたものに浄瑠璃調の多いことはよく知られている。文辞にはなはだこっていることは判るが、わたしには品隲する資格はない。ただ現在翻字第一稿を終えているが、大変手間どることは事実である。

 自評に、「作者常に謂ふ。戯曲の妙篇実に福内鬼外に至て跡を絶てり」とは一見識である。福内鬼外は平賀源内が「神霊矢口渡」などの浄瑠璃作者の戯名である。外国語をちりばめているのも源内を意識しているのであろうか。また源内が江戸言葉を用いたりしているのを、本体は必ず京阪の言葉を用いるべきだとしているのも見識と言えよう。

 小沢の帰国後の履歴(『自由新聞』に入ったと熊楠は言う)はまだ明らかにし得ない。

 しかし第弐号のなかで最も重要なのは、文学の「与渡部竜聖法印書」である。全文三千字の漢文で、「此文を作るに中々長くかゝりました。仏、独、英、及少許の自持の漢書また梵経を参考したり」と述べているように、主として外国の研究書による熊楠苦心の漢文である。(書簡本文の後半に、いわゆる「ブッダ最後の旅」のスッバードラ(須跋陀羅)との対話があるが、周知の『般泥 経』『遊行経』『仏般泥経』『大般涅槃経』などの漢訳仏典の漢文とは全く符合しない。)

 渡部竜聖は真言僧でミシガン大学生、のちパリで研究、帰国して名古屋高等商業学校長に在任(年次不詳「アナバー会会員名簿」)と言うが、帰国後の履歴の詳細を知り得ない。

 熊楠は釈腎沢と自称し、高野山地蔵院で修行し、〈苦学すること百方、現に美国にあり〉と述べ、仏教は、周子の太極説、邵子の消長論から、勺辺洽児、瑞典堡、歇傑爾、斯辺撒らの諸説を包摂すると断じ、自ら〈日中は沢を渉り林を排って物性を極め、夜半は経を繙き蔵を転じて物心を覓む。……苦辛の期する所、願念の存する所、一に斯の教の再び大興して普く四洲に布くにあるなり〉と揚言する。ふつう後に那智隠栖期に確立したと考えられている植物・仏教の両輪で構成される彼の研究スタイルが、すでにこの時代に意識的に実行されていたことを示す、重要な証言であると思う。戯漢文調のなかの大真面目な発言なのである。

 書簡本文は、竜聖の〈仏教の経論の今に存する者、悉くこれ瞿曇の作る所、独り『維摩経』のみ然らずとなす〉という、いわば当時の俗説に対して、〈腎沢、已上の理見を以て言う〉と大小乗数々の事例を挙げて論じ、〈諸経は、みな後代の作にて親ら世尊の作る所にあらざるなり〉と結論づけたもので、今日の眼から見て、とりたてて言うほどのものではないが、最後に〈大小二乗の孰れか優れ、孰れか劣れるの説の若

きに至っては、この紙の三たび出づるの時を俟って、吐く所あらん〉と述べているのは、第三号の期待さ

れるところで、おそらく法竜宛書簡以前の唯一のまとまった仏教論となるのではないか。

 最後の特別広告は、第一号の広告と同じく長坂(岡崎)への罵倒で終始する。この広告という言葉には今日のような商品宣伝の意味は全くない。事実を天下にあまねく知らしめる意である。

  V アナバーの対立と確執

 今日では岡崎邦輔の名を知る人は案外に少ない。原敬や高橋是清なら知らぬ人はあるまいし、熊楠にはゆかりのある名でもある。しかし陸奥宗光の子分かつ分身であり、原敬の右腕として政友会の領袖だった岡崎の生前の知名度はかなり高かったはずである。アナバーで熊楠の喧嘩相手が岡崎だと判ったとき、わたしはやや意外の大物の登場に少々驚いたくらいである。

 岡崎 (旧姓長坂) は一八五三 (嘉永六) 年紀州藩勘定奉行の家に生まれた。熊楠より十四歳も年長である。維新後、主として警察関係の職についたが、うだつが上がらなかった。陸奥宗光とは従弟にあたり――甥を詐称したと熊楠は非難するが、それほどひどい詐称とも言えまい ―一八八八年駐米全権公使の陸奥に従って渡米し、出世の糸口をつかむ。陸奥ははじめ岡崎を秘書にするつもりだったが、英語の学力が全くないので、ミシガン大学へ留学させたのである。

 だが岡崎は勉学にはあまり身を入れず、もっぱら将来出世しそうな者を中心に留学生の人脈造りに専念した。何しろ後年の政友会の寝技師である。十歳も年下の連中を丸めこむのはわけもない。おまけにバックには飛ぶ鳥落とす勢いの全権公使がついている。留学生はわれもわれもと岡崎党となり、「予及び予と同棲の茂木を除くの外は悉く此のエセ貴人の許に拝趨し」(第弐号、漫言)という有様となった。留学生はみな岡崎の出世を信じ、その伝手を求めたのである。事実、岡崎は九〇年に陸奥に従って帰国するや、直ちにその地盤を受けついで補欠選挙で当選し、以後十回連続当選を果たして、政友会の領袖となる。

 岡崎は禁酒決議会議の際に小野英二郎を押し立てた。内村鑑三と同船で渡米したクリスチャンで、大学当局も学生代表と認めた優等生である。小野は帰国後日銀エリートの道を進み、日本興業銀行の初代総裁となる。また岡崎は高崎行一(高橋小六知事の甥)に報告・提案者の役をわりあてた。帰国後高崎は中堅地方官吏の道を着実に歩みはじめる。

 一方、熊楠の親友たちの多くは市隠となった。三好太郎は孫を家に残し子爵相続を辞して関西に隠れた。高野礼太郎は父の厳命でトレドの愛人と別れ、東京で弁護士を開業した。麻布大尽と渡辺竜聖は教師にな

った。堀尾権太郎は帰国後急死した。彼らは市塵の中で顕われずにそれぞれの生を終えたと思われる。

 そして『大日本』の同志たちはどうなったか。一八九〇年茂木と橋本は一緒に帰国し再び国内で民権の戦いを試み、翌年一月『自由新聞』を創刊する。福田は中村敬宇の同人社で教鞭を執り、後に『妾の半生涯』を著わした景山英子と結婚する。帰国直後の彼らの姿を生き生きと伝えてくれるのは若き日の石川三四郎である。

 石川の『自叙伝』(註4)第一章・青春の遍歴の前半は、アナキズム前史であるために利用・引用されることが少ないが、三人の熊楠の友人に関する貴重な証言に満ちている。彼らの玄関番や書生となった少年三四郎は、いかに感激に胸を震わせながらシカゴのアナキスト労働者の大ストライキの話を茂木から聞いたか。どれほど橋本から経済的援助を受けたか。そして星亨が刺されたとき三四郎は真先に橋本に電報を打った。しかしやがて、二人ともそれぞれ佐藤・粕谷という素封家をつぎ、結局は政友会代議士として岡崎の同僚となっていく姿を、苦汁をこめて描いている。福田の場合は発狂という悲劇で英子との結婚生活を切断した。三四郎は医師の診断は「脳梅毒」で治癒困難と書きとめている。やがて福田は三十五年の生涯を閉じる。

 かくてアナバー留学生社会はみごとなまでに崩壊する。『珍事評論』第三号(未発見)が発行される一八九〇年九月以前にほとんど崩壊している。第三号には単に仕上げの役しかなかったのかも知れない。多くの学生が学業を終えたという事情もあろうが、当初から抱いていた対立と確執の亀裂どおりに分裂し崩壊する。そしてその崩壊をもたらしたものこそ、熊楠の放った『珍事評論』の毒だったのではないか。自分の文辞のテクニックのすべてを注ぎ、知識を総動員し、徹夜を重ねて書き続け、回覧妨害者に殴り込みをかけたという、三個の紙爆弾の威力だったのではないか。

 だが近接した状況では、投弾者をも深く傷つけるのは爆弾の性である。

 熊楠は、隠花植物の世界と、孤独の思索を求めて、南方への遁走を準備する。

  VI アナバーからの遁走

 一八九〇年の日記の扉に熊楠は九人の世界の大学者(エンサイクロペディスト)の名を掲げた。

Aristotle, Gaius Plinius Secundus, Konrad von Gesner, Gottfried Wilhelm Leibniz, Carl von Linne (Linné), Charles Robert Darwin, Herbert Spencer, Hakuseki Arai, Bakin Takizawa である。最後の滝沢馬琴を意外と思う人もあろうが、それだけ熊楠がその考証的随筆を評価していたことを示すものである。一月十七日の日記にもこのことを書き、「自ら鑑み奨励するの助となす」としている。

 一方、送金もとだえがちだったのか、四月十一日の日記には、「比日一銭無し。毎夕(日曜には午及夕)主婦の食を受く。正に是れ餐を漂母に乞う。(主婦は洗濯を内職にする者也)」と記している。

 こうしたなかで熊楠は文通でまたとない植物採集の師友を得て、隠花植物への興味を開眼する。退役陸軍大佐カルキンス(William Wirt Calkins 1842-1914)である。十二月には菌類標本、翌九一年一月末日にはカルキンス専攻の地衣類の標本が届く。フロリダやキューバが隠花植物の宝庫であることを知った熊楠は、孤独な標本採集者として、おそらく日本人など一人もいまいと思われる、この地域への旅を決意したにちがいない。

 三好太郎はアナバー学生会の草分け的存在で子爵三好重臣陸軍中将の長男、異国人の妻を娶って琴子、東一、の二子をもうけた。熊楠は一時同居するほど親しく、琴子をこちゃんと呼んでかわいがった。太郎も業を終えて帰国を決意し、四月二十五日には留送別会もすんでいた。だが結局子爵家を嗣がなかった。

 二十九日、熊楠は太郎の 舅 ドクトル・ブルーワル家で惜別の晩餐会を開いた。会する留学生わずかに五人、太郎のほかに親友は小沢章太郎のみだった。留学生会はすでに消滅していたのである。午後九時四十五分発の汽車に乗り、およそ二日間でフロリダに南下するつもりだった。― 以下、日記によってその遁走譜をたどろう。淡淡たる記載の多い彼の日記のなかで、情感の起伏のにじみ出る珍しく息の長い美しい文章である。つらなる波のように繰り返される遁走曲の曲調のように、回想はその胸を去来したことであろう。車輪の響きまで聞えるような気がする。

 四月廿九日〔水〕晴

夕ドクトル・ブルーワル方にて晩餐、九時四十五分発車、(中略)トレドに着すれば今四分時にて汽車発すとのこと、到底間に合わず、終夜ユニオンヂポーのベンチに腰かけてねもやらず。傍に貧婦の老たるが女二人つれて、これも車まつとおぼしく、苦しみながら睡るに、母袖以て女を被ふを見てあわれにおぼへしが、此地に高野礼太郎氏居る、訪んと欲れども不能)。(中略)

 四月三十日〔木〕

朝トレド発、夕シンシナチ着、七時五十分同所発、此夜は車中にて快くねむる。(昨夜迄凡そ三日三夜少しもねむらず。)

此日トレドとシンシナチの間にて汽罐破裂、一人即死、予の汽車之が為に 滞 る。其間にアナバの一市人同車中にありしが来て、予にチーズ、ハム等を贈る。

 五月一日〔金〕

朝八時頃ナッシュヴヰルを過ぐ。

夜七時頃モントゴメリーにて換車。

 五月二日〔土〕晴

朝九時頃ウヱイクロックにて換車、午後一時頃ジャクソンヴヰルに着、ヂューヴァルハウスに宿。

午後郊外松林に出遊ぶ。

 今日のアメリカ地図で査べても判るように、トレドからシンシナチ、ナッシュヴィルを経てモントゴメリまではひたすら南下する。そこで進度を東々北に転じてジャクソンヴィルヘの線路は、今日では道路に変っているから、ややアバウトな数字になるが、四月三十日朝エリー湖畔のトレドを発して、五月二日午後一時頃フロリダのジャクソンヴィル着、走行約一八○○キロを二日半で走破して、熊楠は日本人社界と隔絶された地域に到達した。

 彼はジャクソンヴィルに約三カ月半、フロリダ最南端の島キーウェストにほぼ二十五日滞在してキューバに渡り、翌年一月まで滞在して、グアレクタ・クバナ(Gualecta Cubana Nylander)という新種の地衣を発見する。

 熊楠はフロリダ半島とキューバ島とを、何よりも孤独な植物採集者として歩きまわった。W・チャプマンの『南部米州植物篇』と、カルキンスから送られたレポートや標品を手引きとして、植物学者としての彼の対象は、この地で完全に隠花植物に転換した。極めて重要な転換点である。そして夜は、日本人の集団などのいない人種のるつぼのようなこの地の諸階層の中で、研究と思索を重ねたに違いない。彼自身にとっても愉快でなくはなかった留学生社会、自己の残滓の反映として憤満のたねでもあった留学生社会を、『珍事評論』という紙爆弾で攻撃して南方に遁走してきた彼にとって、何よりも必要なのは、孤独だったに違いない。

 彼は一漂流日本人客として、四人の日本人とめぐりあった。いずれも旅芸人である。彼がカリニと書き、日本ではチャリネと呼ばれてサーカスの代名詞となり、ハイカラ好みの菊五郎「鳴響 茶利音 曲馬」を上演したグイセッペ・キアリニー(G. Chiarini)― 世界的な巡業をブラジルで終え、リオ・デ・ジャネイロで死んだと言う ― を団長とする日本人曲馬師である。長谷川長次郎、百済与一、豊岡新吉、川村駒次郎(京極駒次)。四人の名が『旅芸人始末書』に残されたのは、全く南方熊楠との邂逅による。

 熊楠のキューバ島およびそれ以降の足跡については、無責任な伝説が取り沙汰されている。いわく周辺諸島なども周遊した。いわく独立革命に巻き込まれ、弾雨の下で植物を採集した。そして、盲貫銃創を受けた。等々。しかし、簡単な「履歴書」のこの部分にも、空白の多いこの時期の日記にも、キューバ島を一歩でも外に出た証跡はない。福本日南の文などは単なる舞文に過ぎない。いずれにせよ熊楠の体に盲貫銃創などはなかった。

 キューバ島を出た熊楠は天性の書簡家(こういう言葉があるかどうか知らないが)らしく、四通の書簡を日本の旧友に送った。三好太郎には文辞について書き、中松盛雄には自己の思想の変動の上に立ってややおどけた男色論を説き、羽山蕃次郎にはきのこ類と粘菌について論じ、喜多幅武三郎には「珍事」の数々を報告した。それは一種の決算報告だった。彼の心はすでにイギリスにあった。

 そして八年後、ロンドンを離れようとするとき、再び一人の植物学者が彼の心の扉をたたいた。今度はカルキンスのようなアマチュア学者でなく、大英博物館植物学部長のマレー(George Robert Milne Murray 1858-1911)だった。世界の隠花植物地図の空白地日本を調査してくれないか。……

 帰国して弟夫妻との陰湿な争いに疲れ果てた彼の心に、この言葉がよみがえって那智へ誘った。隠花植物の採集と整理という気の遠くなるほどの根気仕事とともに、彼は夜毎に孤独の思想を鍛えた。こうしてわたしたちは偉大な隠花植物学者と稀有な思想家を同時に得たのである。マレーも、カルキンスと同様に、奇妙に熱心な東洋の一青年に植物学者として勧誘をしたに過ぎなかった。まさか自分の言葉が、奇怪な東洋の哲学者の胸底の魔性に火を点じる結果になろうとは、夢にも想像しなかったに違いない。そして ― 尾羽打ちからして神戸に帰りついた熊楠の荷物の一隅に『珍事評論』第一号が眠っていたことは間違いない。その生みの親の『大日本』は橋本義三が持ち帰っていた。しかしさらにそれを生んだ『新日本』は計十六号を重ねながら、発禁・没収の連波の中に姿を消した。熊楠でさえ危険を恐れて持ち帰らなかったらしく、南方家からも発見されない。ただ奇跡のように浜辺に打ち上げられて第八号一部だけが残った。それを発見して東大の明治新聞雑誌文庫に納めた功績は、熊楠とも親交のあった宮武外骨に帰する。

 註

(1) 新井勝紘「アメリカで発行された新聞『大日本』考」(『田中正造とその時代』vol.3、一九八二秋)

 同「空白の青春 ― 在米時代の南方熊楠新史料」(『隣人』創刊号、一九八四・四)

(2) 長谷川興蔵「喜多幅武三郎宛書簡について」(『南方熊楠日記』1、月報一、八坂書房、一九八七・七)。

(3) これらの数値および次節の記述は、主として次の論文による。

 新井勝紘・田村紀雄「自由民権期における桑港湾岸地区の活動」(東京経済大学『人文自然科学論集』No.65、 一九八三・一二)

(4) 『石川三四郎著作集』第八巻「自叙伝」、青土社、一九七七・一〇。

(『現代思想』一九九二年七月号、特集・南方熊楠、青土社)


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