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  はじめに

松居 竜五     

 私たちの多くにとって、長谷川興蔵は、まず何よりも南方熊楠の著作の編集者として出会う人物である。一九七〇年代前半に平凡社版から出された『南方熊楠全集』全十二巻で、長谷川は中心的な役割を演じた。一九八〇年代には舞台を八坂書房に移して出版された『南方熊楠日記』全四巻、土宜法竜・岩田準一との往復書簡集、『南方熊楠アルバム』、『南方熊楠百話』、『熊楠漫筆』等々。今日、南方熊楠を読もうとする読者は、こうした関連の本を繙いていく度に、長谷川興蔵、という編集者の刻印が押されているのを見つけることになるはずである。

 その上、そうした刻印の中には目に見えるものもあれば、目に見えないかたちで残されたものもある。編集者として、長谷川は本づくりの裏方を担いつつ、かつ自らの独特の仕上げをそこにほどこすことを自分の本職と考えていた。そのため、平凡社時代・八坂書房時代を通じて、編集者名こそ記されていないものの、明らかに長谷川の仕事とわかるような仕上がりの本が数多く残されている。

 たとえば、『南方熊楠全集』と前後して、将棋好きの長谷川が心血を込めて編んだ東洋文庫『詰むや詰まざるや』(正続二巻)。詰め将棋という娯楽を自分の表現手段にまで高めていった徳川時代の庶民から天才棋士までの足跡を、「一手ずつ」思い入れを込めて丹念に集めた著作である。そこには、後に南方熊楠の編集から研究へと伸びていった彼の関心のあり方がしっかりと刻まれているように見える。生前、「この著作は長谷川さんのお仕事ですか」と直接に聞いてみた私に対して、いたずらっぽくうなづかれたことが思い出される。

 こうした長谷川の、大部分が孤独で、息が長く着実な編集者としての活動を支えたものは何だったのだろうか。戦争中に東京大学でたくさんの友人の戦死を経験したこと。戦後「わだつみの会」の幹事を長くつとめたこと。戦中の悲劇から「今後日本国民たるの意志なし」という熊楠の言葉を地で行くような生き方をしたこと。私たちは、長谷川氏との話からぼんやりと感じていた、彼に個として屹立する生活を選ばせた原因となった体験について、その没後になって古い友人の言葉から知らされることになった。

 そうした長谷川興蔵の、あくまで個としての自己の生を完結させようとする厳しい意志は、晩年になってようやく綴られたいくつかの熊楠に関する研究論文の中にもはっきりとあらわれている。アンナーバーからキューバへという青年熊楠の孤独な人生の転換点に関して、遁走 (フーガ) という言葉を用いて叙情的に語った部分。ルソーの『告白』を那智時代の熊楠が丹念に読み込み、それが空前の自伝「履歴書」へとつながっていったという説。熊楠が理想とした孤高の科学者C・ダーウィンの晩年に対する高い評価。こうした、文章の端々に見られる個としての人間の寂しさと、それゆえの強さに対する思い入れは、やはり長谷川自身が、彼の人生の中で自ら選び取っていった感性を反映するものなのではないだろうか。

 没後十年を経て、ようやく編集できた長谷川興蔵氏の文集を前に、その精神の一端を、今思い返してみたいと思う。

追記 この文集は、学術振興会科学研究費基盤研究B1「南方熊楠資料の連関的研究」を用いて出版されたものです。南方熊楠資料の公刊という大きな作業を担ってこられた長谷川興蔵氏の足跡をまとめることで、今後の資料調査・整理の糧とすることができればさいわいです。


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