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◆下筌(しもうけ)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「八方嶽」(昭和22.4)を使用したものである

所在:日田市中津江村栃野(なかつえむらとちの)
地形図:鯛生/八方ヶ岳
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約300m?(水面は約330m)
訪問:2023年11月

 

 大字栃野の北東部、津江(つえ)川左岸にある。現在は下筌ダムの人造湖(蜂の巣(はちのす)湖)に水没。
 堰堤に近いため集落は完全に水没し痕跡は見られない。右岸の展望地はかつてダム反対派の拠点(通称「蜂の巣城」)が築かれた場所で、ダム関係者との間に激しい闘争が行われた。現在ここには「望郷志屋校之碑」(写真3)が建てられており、これは松原ダムに水没した熊本県小国町
志屋にあった志屋小学校と、同町の水没集落を偲んだもの。以下はその碑文。


 遠く、遙かな石器時代よりの歴史を秘め、何処よりも住みよい所として先祖伝来受け継がれて来た、小竹志屋浅瀬芋生野4部落の中心として、此の碑の下流の台地に、明治7年に開校された志屋小学校があり、昭和44年ダムにより、学舎を閉じるまで、489名の卒業生を数え、優秀な人材を世に送り出している。  地域の人々は、昭和32年8月、ダム建設の国家的事業が、建設省で企画されるや、直ちにダム反対の拠点蜂の巣城をこの地に築き、反対斗爭を繰り拡げ、特に昭和35年6月の斗爭は壮絶を極めた。  その後、幾多の苦難を乗り越え、涙を呑んで耐え難い墳墓の地えの愛着に別れを告げ、昭和40年から、45年までの間に、新天地を求め、各地に移住した。部落や、家の行く末を案じながら、故人となつた人々の冥福を祈り、新天地に移住した人達が、永久に繁栄して欲しいとの願いを込め、志屋小学校跡と、我々の生れ育つた墳墓の地が、一望される此処蜂の巣城址に当時居住者の氏名を記し、故郷を偲び、此の碑を建立する。

  湖底の故郷よ、静かに眠れ
  昭和58年3月吉日


 なお村誌によると、移転者は12戸54人。水没は住家12・非住家21、田47反・畑2反となっている(面積は見込み)。
 また資料『松原・下筌ダム建設工事に伴う集団移転等に関する調査』によると、水没は住宅12棟・倉庫5棟・工場1棟などとなっている
 しもうけ館(松原ダム・下筌ダムの情報施設)の展示によると、移転者は11戸60人。

 


写真1 集落跡を望む

写真2 蜂の巣城跡の一部(ダム展望地)

写真3 「望郷志屋校之碑」

写真4 往時の航空写真(以下しもうけ館にて)

写真5 往時の集落内の風景

写真6 蜂の巣城

 

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