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◆志屋(しや)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「八方嶽」(昭和22.4)を使用したものである

所在:小国町下城(しもじょう)
地形図:豊後大野/日田
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約270m?(水面は約270m)
訪問:2023年11月・同12月

 

 大字下城の西部、津江(つえ)川右岸にある。現在は松原ダムの人造湖(梅林(ばいりん)湖)に水没。
 訪問時は水位が比較的高い状態であったが、農地跡や集落上部の遺構を一部確認することができた。湖畔には志屋神社があるが、地形図上の神社の位置とは異なる。なお松原ダム・下筌ダム建設に際し反対派の砦である「蜂の巣城」を築いた室原氏の居住地でもある。
 しもうけ館(松原ダム・下筌ダムの情報施設)の展示によると、移転者は23戸144人。
 下筌ダムにある「望郷志屋校之碑」(写真8)によると、移転者は穴井14・北里2・室原2、石田・末松・三笘・原山・望月が各1の23世帯。以下は碑文。


 遠く、遙かな石器時代よりの歴史を秘め、何処よりも住みよい所として先祖伝来受け継がれて来た、小竹、志屋、浅瀬芋生野4部落の中心として、此の碑の下流の台地に、明治7年に開校された志屋小学校があり、昭和44年ダムにより、学舎を閉じるまで、489名の卒業生を数え、優秀な人材を世に送り出している。  地域の人々は、昭和32年8月、ダム建設の国家的事業が、建設省で企画されるや、直ちにダム反対の拠点蜂の巣城をこの地に築き、反対斗爭を繰り拡げ、特に昭和35年6月の斗爭は壮絶を極めた。  その後、幾多の苦難を乗り越え、涙を呑んで耐え難い墳墓の地えの愛着に別れを告げ、昭和40年から、45年までの間に、新天地を求め、各地に移住した。部落や、家の行く末を案じながら、故人となつた人々の冥福を祈り、新天地に移住した人達が、永久に繁栄して欲しいとの願いを込め、志屋小学校跡と、我々の生れ育つた墳墓の地が、一望される此処蜂の巣城址に当時居住者の氏名を記し、故郷を偲び、此の碑を建立する。

  湖底の故郷よ、静かに眠れ
  昭和58年3月吉日


 なお読みはしもうけ館での聞き取りより。

 翌月再訪。室原氏の碑を訪れたほか、前回よりも水位が下がっていたため旧道や多数の遺構を確認することができた(写真9-26)。

 


(写真1 ダム堰堤)

写真2 農地跡

写真3 志屋神社

写真4 道路と水面。水面下は集落跡

写真5 写真4付近の石垣

写真6 水没地を望む

写真7 往時の航空写真(しもうけ館にて)

(写真8 「望郷志屋校之碑」〔下筌ダムにて〕)

写真9 室原氏の碑(以下上流部)
(以下12月撮影)

写真10 墓地(室原氏)

写真11 旧道の志屋橋(銘板には「昭和二十八年十二月架設」とある)

写真12 旧道と下筌ダム堰堤

写真13 旧道沿いの石垣

写真14 住宅跡の遺構

写真15 駐車スペース?(神社の下方)(以下中流部)

写真16 法名?

写真17 旧道沿いの風景

写真18 屋敷跡

写真19 何かの跡

写真20 屋敷跡

写真21 墓。穴井氏の名が見られる

写真22 旧道沿いの風景(以下下流部)

写真23 旧道と石垣

写真24 農地跡

写真25 墓

写真26 支流の農地跡

 

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