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◆東平(とうなる)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「新居濱」(昭和23.4)を加工し使用したものである

所在:新居浜市立川町(たつかわちょう)
地形図:別子銅山/新居浜
形態:山中に家屋や施設が集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:約700〜790m

訪問:2008年8月・2018年8月

 

 別子銅山の拠点が、旧別子からこの地域に移行した際の中心部。かつては採鉱本部・学校(東平小学校・東平中学校)・保育園・病院など数多くの施設と社宅があった。
 現在は「東平歴史資料館」(写真1)や植物園・体験工房などがあり、遊歩道も整備されている。また学校の跡地は「自然の家」という多目的施設に利用されている(写真2)。
 大部分が整備され観光向けになっているが、植林された林の中にも多くの痕跡が残されている。病院(写真3)・保育園(写真4)・娯楽場(写真5)といった主要施設は林の中にあるが、看板が建てられているので分かりやすい。
 県史によると、昭和34年の戸数は東平52戸(28棟)、下東平64戸(29棟)。

 2018年再訪。特に大きな変化はない。以下は随所に設置されている説明看板より。


・東平小・中学校跡(写真9・10)
 私立東平尋常高等小学校は明治39年(1906)に、生徒数21人、3学級で開校し、従業員の子弟の教育を行った。明治43年(1910)に、2階校舎、講堂、便所が新設され、裁縫室が拡張された。大正2年(1913)に、雨天体操場が拡張した。昭和13年(1938)に東平〜日浦(ひうら)間に籠電車が一般利用に提供されるようになり、昭和15年(1940)に別子山日浦、中七番(なかしちばん)の児童が日浦通洞・第三通洞の籠電車で通学するようになった。昭和16年(1941)に国民学校令により私立住友東平国民学校と校名を変更する。昭和21年(1946)に、井華(せいか)東平国民学園と校名を変更する。
 中学校は、学制改革により新制中学3年の義務教育実施に伴い、昭和21年(1946)に小学校の南校舎を使用し、井華東平中学として創設された。
 昭和22年(1947)に、別子学園東平小学校、中学校と校名を変更する。昭和24年(1949)に、財団法人別子学園となる。
 昭和36年(1961)3月に、公立移管で新居浜市立東平小学校、東平中学校になる。小学校、中学校も東平坑閉山に伴い昭和43年(1968)に閉校する。

・大山積(おおやまづみ)神社(写真11)
 住友家が元禄4年(1691)の開坑直後に、鎮護の神として大三島にある大山祇神社の分霊を旧別子の縁起の端に奉祠し、大山積神社を建立した。その後、明治26年(1893)には、目出度町(めったまち)に奉遷した。
 採鉱施設が銅山峰の南側から北側に移行するのに伴い、大正4年(1915)、目出度町から東平に奉遷し、昭和3年(1928)まで銅山の守護神として標高832mの一の森(いちのもり)山頂に大山積神社を祀っていた。
 大山積神社の100mの円周グラウンドでは、正月の大〓
(※)式、5月の山神式、11月の親友会の運動会などが開催された。ほかに小中学校の運動会が秋に開催された。東平で執り行われる諸行事の全ての会場として利用された。東に赤石山、西に笹ヶ峰を仰ぎ、北方眼下に新居浜の町を望む山頂広場は、東平に住む人々の憩いの場所であった。別子銅山の開坑を祝う山神祭には、大相撲の行司を招いて相撲が奉納された。

※ 〓は「金へんに白」

・東平接待館跡(写真15)
 採鉱拠点が徐々に嶺南の旧別子から嶺北の東平に移行していくのに従い、住友関係の要人や著名人が訪れ、会食をしたり、宿泊する場所として、明治42年(1909)に、東平接待館が建設された。東平の地名にちなんで「東平荘」と命名された。東平荘は立派な門構えの施設で、建築材には檜、桜、栂、欅などが使われていた。屋根は雪がすべり落ちやすいようにトタン葺きであった。部屋数は10畳ほどの広い部屋が4室、6畳の日本間が6室、会食をする20畳の大広間が1室あった。昭和15年(1940)頃には、暖房設備が完備した20畳ほどの洋間が増設された。
 東平荘へは、土井晩翠、川田順、山口誓子などの歌人も宿泊している。
「荒城の月」の作詞者の土井晩翠が、昭和11年に東平接待館で詠んだ歌。
 東平の山ふところに石楠(しゃくなげ)の 花ながめつつ鶯を聞く

・保安本部跡(写真19)
 明治35年(1902)頃に第三通洞の開鑿や電車用の変電所として設置された。その後、林業課の事務所になりその隣が電話交換所となった。明治38年(1905)年頃から消防部門や警備部門を担当した保安本部として使用するようになった。時代とともに建物の一部は、坑内作業者の入出勤を確認する就労調所として使用された。昭和26年(1951)頃からはキャップランプの充電場として使用された。その後、端出場(はでば)調査課の東平分室として昭和32年(1957)頃まで使用された。第三変電所の建物とともに、東平地区ではめずらしいレンガ造りの建物である。
 現在、銅板レリーフが体験できる「マイン工房」として活用している。

・索道基地跡(写真35)
 明治26年(1893)から鉱石の運搬経路は、上部鉄道と石ケ山丈〜端出場間の索道を経由して下部鉄道に搬出されていたが、明治35年(1902)、第三通洞(東平坑口〜東延斜坑底間)の開通に伴い、輸送路の充実を図るために明治38年(1905)に東平〜黒石(くろいし)駅間停車場(3,575m)にドイツ人の索道技師ブライヘルトにより自動複式索道が設置された。途中、新道と六号の2箇所に中継所が設置され、押し出し作業による中継ぎがされていた。新道の中継所跡のレンガ造りの建物は今も残っている。その後、昭和10年(1935)には距離を短縮して東平〜端出場間(2,717m)とした。東平〜端出場間の索道には、26基の支柱が立ち、80器ほどの搬器(写真37)が吊るされて分速150mで回転していた。同年に太平坑〜東平間(1,312m)の索道が完成し、嶺北に搬出された鉱石も東平の索道基地に下りていた。
 索道では鉱石を輸送するだけでなく、物、生活品、木材なども輸送していた。

・東平貯鉱庫・選鉱場跡(写真35)
 明治35年(1902)に第三通洞が貫通し、明治38年(1905)に東平の中央に新選鉱場が、東平〜黒石駅間に索道が、新選鉱場から第三通洞を経て東延斜坑底に連絡する電気鉄道がそれぞれ完成した。大正5年(1916)には、採鉱本部が東延から東平(第三地区)に移転して、東平が採鉱拠点となる。
 第三通洞から搬出された鉱石は、大マンプ、福井橋、小マンプを通って終点の新選鉱場に運ばれた。鉱石と岩石とに選別された鉱石は貯鉱庫に貯められ、順次索道で黒石駅へ下ろされた。後には距離を短縮して黒石駅から端出場へと変更して下ろされ、四阪島(しさかじま)精錬所に運ばれた。

・インクライン跡(写真37)
 大正5年(1916)頃、東平・端出場索道の物資運搬の接続施設として、東平工場中心地・電車ホームと索道基地との間に、斜長95m、仰角21度でインクラインが設置された。動力は電気巻上げであった。複線の斜路は連動していて、片方が上がれば片方が下がる仕組みになっており、必要な物資や生活品などが引き上げれ、坑木などが引き下ろされていた。
 インクライン跡の傾斜を利用して、平成6年(1994)のマイントピア別子・東平ゾーンの整備時に220段の長大階段が作られた。
 インクラインは、明治37年(1904)に完成した四阪島精錬所や、大正14年(1925)に完成した新居浜選鉱場でも上部への鉱石等の運搬手段として設置されている。


 また現地にある別の解説用紙によると、病院は明治38年11月に東平出張所として開設、昭和43年3月に廃止。保育園は昭和25年開設、同43年廃止。娯楽場は明治45年開設、昭和43年廃止。

 


写真1 「東平歴史資料館」
(以下2008年撮影)

写真2 「自然の家」

写真3 病院跡

写真4 保育園跡


写真5 娯楽場跡


写真6 東平・
呉木境界の鞍部にて。建物は「銅山の里自然の家」の施設
(以下2018年撮影)


写真7 「銅山の里自然の家」の炊事施設(=写真2)


写真8 小学校の門柱?(左)と中学校への階段


写真9 中学校入口。右の門柱には「東平中学校跡」と見える(現在は宿泊棟の敷地)


写真10 自然の家研修棟(小学校跡)と「一の森」(奥側の山)


写真11 一の森頂上(グラウンド・大山積神社跡)

写真12 一の森から市街地を望む

写真13 寺院の記号付近への横道

写真14 寺院の記号付近の平坦地

写真15 接待館跡付近(大部分が道路用地)

写真16 接待館の石垣と道

写真17 社宅跡の風景

写真18 道路と採鉱本部の石垣

写真19 保安本部跡(現マイン工房)。また手前には、旧別子日浦までを結ぶ籠電車の乗降場があった

写真20 東平歴史資料館付近にある「むかしの東平」の地図

写真21 病院跡(住友別子病院東平分院)(=写真3)

写真22 配給所跡

写真23 配給所跡にて。柵

写真24 配給所跡にて

写真25 同

写真26 保育園跡(=写真4)

写真27 娯楽場跡(=写真5)

写真28 同

写真29 同。全体を俯瞰

写真30 社宅跡。奥は骨組みの復元

写真31 復元部分の内部

写真32 写真30の往時の竈


写真33 写真30にて。何かの跡


写真34 写真30の下段の住宅跡

写真35 索道基地跡(手前平坦地。現在は花木園)と選鉱場跡・貯鉱庫跡(後方)


写真36 選鉱場の一部


写真37 石垣とインクライン跡


写真38 貯鉱庫・選鉱場・索道基地の俯瞰


写真39 プール跡から市街地を望む

写真40 鉄道の隧道(通称小マンプ)

写真41 隧道内の展示。手前より蓄電車(牽引車輛)、かご電車(客車の通称)、以下運搬台車、鉱車…と多数の車輛と機材が続く

写真42 隧道内にて。索道バケット(搬器)

 

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