◆中土師(なかはじ)
※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「可部」(昭和22.2)を使用したものである
所在:安芸高田市八千代町土師(やちよちょうはじ)字一本木・森之沖(もりのおき)・森之本ほか 地形図:佐々井/可部
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約230?〜260m(水面は約240m)
訪問:2022年11月
大字土師の中部、江(ごう)の川(可愛(えの)川)左岸にある。現在は土師ダムの人造湖(八千代湖)に多くが水没。土師地区の中心地であった。
ダムサイトにある記念碑によると、土師ダムは昭和41年4月着工、同49年3月完成。
現在、水没を免れた場所は広く「のどごえ公園」として整備され、訪問時も多くの人々で賑わっていた。新たに建てられた別宅や現住家屋も見られる。
公園より下流側には土師のチュウゴクボダイジュ(写真3)・咽声忠左衛門(のどごえちゅうざえもん)の墓(写真4)があり、現住家屋の付近には神社がある(写真8。名称不明)。このうちボダイジュは県指定の天然記念物で、昭和47年に発見された新種の原木であるとのこと(昭和54年11月2日指定)。なお「チュウゴク」は中国地方の意。
公園より上流、上土師との境目付近には円通山神社がある。拝殿の軒下に飾られた赤穂四十七士の絵が印象的(写真10)。拝殿付属の建物に続く渡殿には、水没前の航空写真(上土師および中土師西部・別所南部)(写真11)や神社由緒、氏子の氏名(ダム建設前後)、「円通山神社地域図」(中土師から吉田町【現・安芸高田市】久々根まで)(写真12)が掲げられている。地域図は人家や施設等が記された絵地図で、60戸(あるいは61戸?)の人家や神社・寺院・学校(刈田北小学校)が記されている。なお対岸の大地原にも1戸が記されている。
また広い境内には水没地から移設した阿弥陀堂(=上土師西光寺)・橋守堂(=別所実石)・護国神社(円通山神社境内)・大歳神社(=下土師新開)・明神社(=上土師三田谷)・大番社(=上土師馬場)・神宮神社(円通山山麓)・権現神社(=字森之沖)(以上5社は1棟の社に収められている)・高杉神社がある。
道路を挟んで咽声神社(写真19)と咽声忠左衛門の新しい墓(写真20)、記念碑があり、氏の由緒も記されている。この由緒やのどごえ公園内の説明板によると、忠左衛門は中土師に居住していた農民で、土師村への灌漑用水の開鑿に尽力した人物であるとのこと。「咽声」はあだ名で、首枷を嵌められてもなお単身で工事を続け、喉が潰れてしまったことからこのように呼ばれるようになったという。水路は寛文2(1662)年工事開始、同5(1665)年完成。このため近隣の村々が旱魃で米の収穫がない年でも、中土師では豊作であったという。神社は昭和15年に忠左衛門の報恩のために造営されたが、ダム建設に伴い現在地に移転。公園の名称も忠左衛門の遺徳を偲んで命名された。
円通山神社駐車場の隣は「憩いの家」の跡地(現在は駐車場)(写真21)。敷地の縁に残された説明文によると、憩いの家の建物は水没地内から移築された民家であったとのこと。隣接する庭園は、は土師民俗資料館および移設された「滄浪園」(写真23)。
資料『土師民俗資料緊急調査報告書』によると、水没した宅地はおよそ2.5町、田は45.0町、畑は7.4町。氏神は中土師の円通山神社。
主な神社として、円通山神社(もと八幡社)(=字一本木)・高杉神社(=字尻面)があり、小祠として権現社・新宮社・大番社・護国神社・咽声社・大歳社・恵比須社があった。
寺院には槇原山明願寺(浄土真宗)があり、昭和26年に移転。小堂として観音堂があった。ほか円通寺(=字一本木)・威光山大徳寺(法華宗)(=字大徳寺)・音林寺(禅宗)(=字尻面)・導法寺(=字河原田)が過去に存在。
滄浪園は、中土師の岡崎氏宅(屋号沖野屋。当時は山県姓を名乗る)に所在していた庭園で、ダム建設に伴い移転したもの。造成は氏が豪農として栄えていた5代目の時で、天明の終わりから寛政の初め頃と推測されている。県指定の名勝であった(※)。
近代以降の土師での主な産業は、農業・畜産・養蚕など。農業は稲作や、麦、自給用の豆類・雑穀・芋類、ほか多数の蔬菜を栽培していた。ほか麻(明治中期以降減少)・棉・藍(大正初期まで)なども栽培。畜産は、戦後和牛の飼育が盛んになり、のち酪農に転換。養蚕は昭和初期に急激に衰退。江の川での漁業も僅かに行われていた。
※ 市のサイトによると、昭和46年に指定解除
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