◇松川入
資料『失われた村の生活』より、同地区についての概要をまとめる。
≪入植から移転まで≫
松川入は、もと飯田地方への薪炭の供給のための入会地で、山仕事のための入山者が多かった。幕末から明治初年にかけて開拓され、定住者が現れたのは明治2年。須官の野口氏・砂古谷の塚原氏・入道の小林氏
続いて彼らの縁故者・知人が明治6年までに8戸、同12年に2戸、同末に7戸入植
終戦前33戸、昭和30年24戸、同39年17戸、同41年15戸
木炭の原木が次第に消費されたことや、木炭の需要の低下、そして戦後から頻発した水害により人口の流出が進行。昭和40年7月の集中豪雨による罹災を契機に、集団移転の話が持ち上がる。また集団移転であれば市から補助金が支給されることも決意を促した。昭和41年3月、15戸61人が集団移転し無住となる
集団移転者は、全戸が移住先に飯田市内を希望。うち12戸が市の用地開発公社から住宅用地の斡旋を要求し、松川入での旧居を移築した
集団移転以前の単独移住者の場合でも、転居先は飯田市内が多い
砂古谷の塚原家が書き継いだとされる家々の動向に関する記録が残っており、それによると全世帯の出身地は以下のとおり
|
永続的居住者 |
一時的居住者 |
計 |
備考 |
長野 |
松川入分家 |
13 |
0 |
13 |
|
下伊那郡 |
後の飯田市域 |
鼎(かなえ)町 |
3 |
0 |
3 |
|
上飯田(かみいいだ)町 |
5 |
0 |
5 |
|
伊賀良(いがら)村 |
1 |
1 |
2 |
一時的居住者は小学校教員 |
上郷(かみさと)町 |
1 |
0 |
1 |
|
松尾(まつお)村 |
1 |
0 |
1 |
|
飯田町 |
2 |
0 |
2 |
|
上村 |
0 |
1 |
1 |
経木工場の工員? |
遠山村【のち南信濃村、現・飯田市】 |
0 |
1 |
1 |
経木工場の関係者 |
大鹿村 |
0 |
4 |
4 |
3世帯は経木工場の関係者。1世帯は炭焼き日雇い |
会地(おうち)村【現・阿智村】 |
1 |
0 |
1 |
|
上伊那郡 |
朝日(あさひ)村【現・辰野町】 |
0 |
1 |
1 |
小学校教員 |
不明 |
0 |
1 |
1 |
経木工場の工員? |
木曽郡【旧称上筑摩群】 |
読書(よみかき)村【現・南木曽町】 |
0 |
1 |
1 |
経木工場の工員? |
神坂(みさか)村【現・岐阜県中津川市】 |
0 |
1 |
1 |
経木工場の工員? |
岐阜 |
郡上郡 |
5 |
1 |
6 |
一時的居住者は経木工場の工員? |
恵那郡 |
1 |
0 |
1 |
|
大野郡 |
0 |
1 |
1 |
経木工場の工員? |
不明 |
2 |
0 |
2 |
|
静岡 |
0 |
1 |
1 |
経木工場の工員? |
愛知 |
1 |
0 |
1 |
本文では経木工場の工員と推測されているが、表では永続的な居住者とされている |
富山 |
0 |
1 |
1 |
経木工場の関係者 |
東京 |
0 |
2 |
2 |
疎開者。昭和22・23年には転出 |
広島 |
1 |
0 |
1 |
|
高知 |
0 |
1 |
1 |
経木工場の工員? |
不明 |
6 |
3 |
9 |
一時的なもののうち1世帯は小学校教員。うち1世帯は「伊那電の水番」 |
計 |
43 |
21 |
64 |
|
≪産業≫
主な産業は養蚕・製炭。農業は自給用の畑程度で、水田は冷涼な気候であったためほぼ皆無。畑ではジャガイモ・サツマイモ・麦類・大豆・大根・カブ菜・ミョウガなどを作り、大正以降は養蚕のための桑も多かった
初めは飯田の馬方たちの飼料としての雑穀と山仕事に従事していたが、大正初め頃林業の出稼ぎ人が製炭の技術を教えたことにより、木炭の生産が急増した。ほか目立った産業として経木があり、昭和初期に工場が建てられ生産されている
木材の伐り出しも盛んに行われたが、松川入の住民はほとんど従事することはなく、松川入森林組合を組織する鼎・松尾・飯田市羽場地区の人々や越中・飛騨などからの出稼ぎの人々によって行われた(農業や養蚕の繁忙期である夏の仕事であるため)。昭和初期まで材は谷に流して搬送されたが、以降は木馬(きんま)やトロッコ・馬車およびトラックが用いられるようになる
木炭が苦境に立たされた昭和30年以降、新たな産業により活路を見出そうと摸索が始まる。例として、苗圃の経営・養鱒・水田開発・リンゴ栽培等があるが、いずれも軌道に乗らなかった
≪ライフライン≫
水…各戸が谷や湧水地から樋を用いて引水
電気…昭和21年12月30日導入。大正終わり頃には電気を引く計画が持ち上がり「電気貯金」も開始したが、見積もりで費用が嵩むことが分かり断念した経緯がある(ただし既に赤樽の村沢氏が自家発電を行っていた)
≪水害≫
松川入地区において、集落が成立した明治初年から戦後まで人家に危険が及ぶような洪水はほとんどなかった。ただし大水の際は恐怖を感じるほどの轟音を上げて流れるので、暴れ川としての認識はされていた。戦後は立て続けに水害が発生するようになり、集団移転を促す一因にもなる。
以下に集落形成以降の主な水害についてまとめる。
明治末 |
砂古谷のドンブリ沢にて山崩れ。1戸が流出し、ボタモチ(牡丹餅平)へ移転
砂古谷のクチナシ沢にて山崩れ。家屋や畑に被害なし
この2箇所の山崩れは、長らく砂古谷の人々に危機意識を持たせる出来事となる
|
昭和28.8 |
西俣川が氾濫。須官のヒノキ沢の近くにあった新井商店が流出。各集落にも被害 |
昭和32.6 |
砂古谷のドングリ沢にて山崩れ。畑が流出したが、家屋に被害なし |
昭和36.6 |
県南部にて、梅雨前線による豪雨災害が発生。甚大な被害と多数の死傷者を出した(いわゆる「三六災害」)。ただし松川入では大きな被害なし |
昭和40.7 |
砂古谷上流の本沢・南沢にて山崩れ。鉄砲水が砂古谷沢を襲い、畑が流出、2戸に土砂が流入 |
|