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◆須官(すかん



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「飯田」(昭和27.7)を使用したものである

在:飯田市上飯田(かみいいだ)
地形図:飯田/飯田
異表記:寿歓?(現地の記念碑)
形態:谷沿いの斜面に家屋が集まる
標高:約1,070m
訪問:2013年11

 

 大字上飯田の中部、松(まつ)川支流沿の西俣(にしまた)川右岸にある
 集落付近の路傍には石碑群(写真2)が見られるが、全体的に集落の痕跡はあまり多く見られない。当地には学校(小学校・中学校の松川入分校)があったようで、「この地に松川入分校あり」の碑には以下のように記されている。学校の沿革は表にした。


明治十五年分室開設前 部落の発展は子弟の教育ありと地域の文筆に明るい人が寺子屋式教育をしていた その後幾度かの学制改革があり複式学級が進められて来た 時の流れと共に度重なる水害による集団移住に伴い昭和四十二年三月を以って九十二年間の幕を閉じた
 時の分校主任 小木曽文男 発起人となり 同窓会の協力によりこの碑を建つ

 明治15  小学校松川入分室として百メートル下方に開設
 昭和12  飯田市松川入分教場と改称
 昭和16  学校改正により大平小学校松川入分教場と改称
 昭和19  松川入分教場に高等科設置
 昭和22  学制改革により中学校併置
 昭和27  松川入分校舎新築竣工
 昭和28  中学校を飯田西中学校へ併合
 昭和42  松川入分校閉校

また以下は「集団移住之碑」の全文。


ここ松川入部落は標高千米前後の山峡で慶応年間に官許を得て本格的な入植開拓がはじめられた 高冷地農業の困難を克服し定着する最多三十三戸となる 生業は千五百貫余に達する養蚕業と白炭の製造を主とする山林業であった 営々と築きあげた開拓百年の歩みも相次ぐ集中豪雨による被害 燃料革命 繊維業界不振等による時の流れに抗し得ず昭和四十一年新天地を求めて集団移住の止むなきに至った ここに開発に苦心された先人各位の鎮魂と子孫の開拓者精神の高揚を祈念しこの碑を建つ  平成四年春

なお集団移住者として桜井4・塚原2・伊藤・加藤・可児・木下・塩沢・代田・長谷川・原田・山住各1の計15世帯が記されている。

 ほか当地の開拓を記念したと思われる「記念」と刻まれた小さな碑には、以下のような内容が記されている。碑文中に「壽歡」の文字が見られるが、「須官」の元来の表記だったのだろうか(■は判読できなかったもの)。

壽歡平開拓/野口東七/慶應三年十一月官許/明治元年三月著手/願人/入道平/同 小林■(熊?)太郎/発起人 山住新■

 資料『失われた村の生活』によると、明治2年、松川入地区の最初期の開拓者として野口氏が最初に定住したとある(同時に砂古谷に塚原氏、入道に小林氏が入植)。

 


写真1 供養塔。水害に伴うものか


写真2 石碑群

写真3 平坦地(植樹)

写真4 平坦地

写真5 屋敷跡

写真6 何かの設備

 

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