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奈良女子大学大学院人間文化研究科・学術研究交流センター「南方熊楠の学際的研究」プロジェクト 南方熊楠に学ぶ・第4回

熊楠と沖縄
 〜末吉安恭との交流を中心に〜

はじめに

 柳田國男や折口信夫の民俗学において、南島すなわち現在の沖縄が重要な位置を占めていることはよく知られているところであるが、南方熊楠と沖縄の関わりについてはあまり知られていないのではないだろうか。たしかに熊楠は、柳田や折口のように沖縄についての本格的な論考を遺してはいない。しかし、1992年から約10年間にわたって継続されてきた南方熊楠邸悉皆調査によって、熊楠が沖縄の歴史や民俗に熱いまなざしを注いでいたことを裏付けるいくつかの資料が確認されている。第4回「熊楠に学ぶ」講演会では、こうした資料をとおして、熊楠がどのような視点から沖縄を見つめていたかを考えてみたい。

 もっとも重要な資料としては、昨年発見された沖縄の文筆家・末吉安恭から熊楠に宛てた書簡20通がある。これは今回の講演会が文字どおり初公開となる。そのほか南方熊楠邸に残された沖縄関連の資料のうちで重要と思われるものとして、これも末吉安恭から贈られた琉球王府編纂の正史『球陽』写本(25冊)があげられる。熊楠と、この『球陽』と末吉安恭の関係については、沖縄在住の研究者である粟国恭子氏の「熊楠と末吉安恭(麦門冬)」(季刊『文学』第8巻・第1号,1997年,岩波書店)に論じられている。ただ、残念ながら末吉安恭という人物については、思いのほか詳しく触れられたものが少ない。手もとには1984年の『琉文手帖』2号「文人・末吉麦門冬」という特集号があるので、以下それら二つの資料をもとに南方熊楠と末吉安恭の交流について簡単に紹介してみたい。

南島の小南方

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 麦門冬こと末吉安恭は、明治19年5月、首里儀保村の氏族の家に生まれた。熊楠よりは19も若いことになる。小学校しか出ておらず、若い頃東京に遊学したらしいのだが、その間の経緯はほとんどわかっていない。父が「系図座勤め」の氏族であり、家にはおびただしい蔵書があったということであるから、ほぼ独学でその学識を深めたようである。明治39年に東京から帰郷、それからしばらくたった明治44年に沖縄毎日新聞入社、その後大正13年39歳という若さで没するまで合計5社の新聞社に勤めた。

 麦門冬という号は俳句で用いたもので、かれの仕事はその俳句や短歌などの詩歌からはじまって、歴史、民俗、絵画、芸能、言語、戯曲、随筆、紀行文など幅広い領域にわたっている。また、新聞だけでなく『日本及日本人』『民族』『スバル』『ホトトギス』など中央の雑誌にも文章を寄せている。面白いのは、それぞれの分野によってペンネームを変えていることで、麦門冬のほか獏族、落生、莫夢、麦生など10以上ものペンネームを使い分けていた。

 独学によって築き上げられた安恭の博識ぶりは、熊楠をして「純粋の琉球人だが博く和漢の学に通ぜること驚くべく、麦生なる仮号もて『日本及日本人』へ毎度出さるる考証、実に内地人を凌駕するもの多し」(「出産と蟹」)と言わしめるほどであった。  

 また、安恭と同時期に沖縄で活躍した琉球史家・東恩納寛惇が「彼れは沖縄のような不便な処にいて、珍しい程、物を読んでいた。読んだものを並べて行く点に於いて、彼は球陽の小南方であった。」(野人麦門冬の印象)と述べているように、その論述スタイルにも熊楠と通ずるものがあった。

熊楠と安恭の交流

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 じっさい熊楠と安恭は、大正6年頃から『日本及日本人』誌上において活発な交流を持つことになる。その交流は、熊楠の知の世界へ憧れた安恭が同じ雑誌に投稿することで始まったと考えられている。当時すでに民俗研究は盛んになり、柳田や折口の論文が様々な雑誌に掲載されていたにもかかわらず、安恭は熊楠のスタイルを好んだようである。

 桑原武夫が「南方には理論がない」と評したように、熊楠が国内の雑誌に投稿した論考の多くは、いわゆる論文の体裁ではなく、古今東西の文献資料を駆使した情報提供という形をとっている。その理由については今後の研究の進展を待つほかないが、安恭も熊楠に倣ってであろうか、同じタイプの知識の使い方をしている。とくに『日本及日本人』誌上では、熊楠が「情報提供型」論考を出せば、安恭がそれに応えて他の資料で補足するというパターンが繰り返されていた。あまり長くない例をひとつ引いてみよう。三田村鳶魚らによって『日本及日本人』誌上において展開された「東海道中膝栗毛輪講」を読んだ熊楠が、「…輪講」に注釈を加えるという形で行われた一連の投稿のひとつに「口寄せ巫女の数珠」という短文がある。

「巫に関することども」に、古画の巫女の数珠は、礼拝用の外に数珠占、すなわち数珠の玉を視て占うこと今もあれば、むかしも左様だったものか、と書いて置いた。今日たまたま『曽呂利物語』巻二を繙くに、平泉寺の若き僧、旅舎で女人と同宿し、夜明けて見れば六十ばかりの老嫗なるに驚き逃げ延びる。「ミコのことなれば、数珠を引き、神おろししてトいもて行くほどにやがて追い付き」、大なる木洞中より見出し逼って同行する途中、かの僧、老嫗を淵に沈め、その霊大蛇となりて僧を食うたという譚がある。これで予の予想が中ったと知る。

(大正7年5月『日本及日本人』731号)

 これに応えた安恭が翌月の『日本及日本人』733号に同じ「口寄せ巫女の数珠」という題で別の資料を紹介している。

口寄せ巫女が礼拝用以外、口寄の時にも数珠を使った例として、南方熊楠氏は曽呂利物語を引かれたが、謡曲巻絹にも神子の神おろしに「数珠を揉み袖を振り」と出で、又近松のひちりめん卯月の紅葉にも「神子は合掌目をふさぎ、数珠をくりひく梓弓、神おろしして寄せにける」とあり、今も昔も異ならざるを知るべし。

(大正7年6月『日本及日本人』733号)

『球陽』の寄贈

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 このような誌上の交流は、やがて書簡を交わす直接的なものに進展していった。そして前述の琉球王府編纂の正史『球陽』が贈られることになるのである。『球陽』については粟国氏の解説を引用しておく。

 1743年から編纂の始まった『球陽』は、琉球王府編纂の史書『中山世鑑』、『中山世譜』と並んで、琉球王府の正史資料として知られている。沖縄の前近代史の基礎資料の一つで、沖縄(琉球)研究にとっては欠かせない文献資料である。

 内容の特徴は、琉球史における行政上の基本資料項目だけでなく、民俗学、気象学、医学衛生学、天変地異、その他多くの事象が盛られている点にある。そして、国王以下庶民、国事から私事、王都・首里から田舎、両先島(宮古・八重山)の琉球王国の範囲を網羅しての記事が記述されている。

 興味深いのは、安恭から該博な知識を持つ熊楠に、その他の琉球史資料ではなく、琉球の様々な事象が記された『球陽』が贈られたことである。二人の求知心の傾向を考えると、極めて納得できる贈り物の選択である。安恭の予想通り(?)、熊楠はこの資料に興味を抱いたようだ。熊楠の日記には、写本二十五冊が届いたその日(七月)の内に眼を通したこと、そして「『球陽』十二冊迄読みそれより徹暁不眠」(昭和2年9月5日)と記されている。また熊楠所蔵の『球陽』には、随所に熊楠の書込があり、丁寧に目を通していた事がわかる。また『球陽』を引用した文章(「琉球の鬼餅」)も残している。

(季刊『文学』第8巻・第1号,1997年,岩波書店)

 さらに、熊楠所蔵の『球陽』の資料的価値についても次のように述べられている。

熊楠所蔵の『球陽』は、全二十五巻(正巻二十四巻、附巻一巻)の構成で残されており、現在確認されている写本と比較しても、欠落項目の少ない優れた写本であった。何よりも分冊ではなく一セットで残されている点でも貴重な写本である。

(同上)

 現在、熊楠所蔵の『球陽』は、来年度から始まる南方熊楠邸蔵書修繕リストのトップに挙げられている。

南方ファン?

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 これまでみてきたように両者の交流の様子からは、安恭が少なからず熊楠の影響を受けていたことがうかがえる。独学で学識を深め、在野で活躍した熊楠に、どこか似かよった経歴をもつ安恭が惹かれたのであろうか。

 安恭が初めて『日本及日本人』に投稿した論考は、「南方熊楠先生は嚢に経水のことに関し仏典を引き御説明あり、小生も多大の興味を以って拝読致し候が、…」(大正6年7月『日本及日本人』第709号)という書き出しで、熊楠に対して最大限の敬意が払われている。当時、熊楠は働き盛りの50歳、学校に入って師についたことのない弱冠31歳の青年安恭にとっては、大きな存在であったのではないだろうか。そうした意味では、安恭は熊楠を師と仰いでいたのかもしれない。あるいは、安恭こそ我々「熱狂的?南方ファン」のはしり(??)であったのだろうか。

 もっとも、熊楠のほうでも、この異様に博覧強記な若者に対して相応の敬意を払っていたことが前出の安恭評からうかがえる。また、後年、沖縄に関する話題を扱った論考や書簡のなかで、早世した安恭に触れているものもある。末吉安恭が、熊楠にとって忘れがたい人物であったことは間違いない。 じつは、ふたりは没後の評価にいたるまでよく似ていた。こればかりは安恭のほうが先に亡くなったのだから熊楠に倣いようもなかったはずだが、両者の「知」のあり方が近かったことの証といえるのではあるまいか。東恩納寛惇の「野人麦門冬の印象」から、つぎの一節を引いておく。

彼の史筆は述べるのであって、論ずるのではなかった。かれの史筆に結論がない如く彼の人物にも結論がなかった。

新資料の意義

 今回紹介される新資料は、安恭から熊楠に宛てた書簡であり、こうした両者の交流関係について、より詳しい事情が明らかにされるはずである。それは、熊楠の関心の広がりを検討するうえで貴重な資料となるであろう。また、民俗学史の立場からみると、当時、柳田や折口の南島研究以外にも、熊楠と安恭の学問的交流という流れがあったことを示すものである。さらには、末吉安恭という人物研究や、明治・大正期における沖縄の文化史といった領域からも注目されることになると思われる。

(南方熊楠資料研究会 安田忠典)

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