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奈良女子大学大学院人間文化研究科・学術研究交流センター「南方熊楠の学際的研究」プロジェクト 南方熊楠に学ぶ・第2回

第二回・畔田翠山と熊楠
 〜紀州本草学の系譜〜

南方熊楠資料研究会 安田忠典

「南方熊楠に学ぶ」第二回は、熊楠のルーツともいうべき本草学、なかでも江戸時代に紀州を中心に活躍した畔田翠山をとりあげた。畔田翠山は、銭谷武平が「もうひとりの熊楠」と評したほどの巨人的博物学者で、そのフィールドや学問的関心の所在など熊楠との共通点は多い。熊楠が直接翠山の影響を受けた形跡はないが、両者の共通性からは、かれらが人文・自然の両分野にわたる広大な視野を獲得するに至った要因を見出すことができるはずである。

紀州本草学の系譜

熊楠が筆写した『本草綱目』

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 南方熊楠(1867-1941)の独創的な学問スタイルの源流が博物学にあることはよく知られている。少年時代の熊楠が、寺島良安の『和漢三才図絵』や、明の李時珍による『本草綱目』などの筆写に明け暮れたというエピソードにはじまって、その後もこれらの書物を頻繁に引用しているのは周知のとおりである。このような熊楠の博物学的志向の一因として、かれが生まれ育った紀州の地に本草学の伝統が存在したことが挙げられよう。とくに江戸時代の紀州本草学は、畔田翠山という熊楠にも匹敵する巨人を生み出すなど、非常に高い水準を誇っていた。

 本草学は、中国にその起源をもつ学問であり、ヨーロッパ起源の博物学(ナチュラル・ヒストリー)とは若干趣を異にする面があった。つまり、ヨーロッパの博物学が自然の事物を客観的に観察するという科学的なものであるのに対して、本草学はもともと自然の事物がいかに人間の役に立つかを研究することを目的としていたのである。しかし、江戸時代になると我が国の本草学は西欧の影響によって博物学的傾向が強くなっていった。

 紀州本草学は江戸時代最大の本草学者といわれる京都の小野蘭山にまで遡ることができる。かれは『本草綱目』の啓蒙書ともいうべき『本草綱目啓蒙』を著しているが、そこでは本草学本来の薬学的記述に替わって、形態・生態の説明といった博物学的記述が重視されている。そして蘭山以降、本草学は博物学的傾向をさらに強めていくことになる。その蘭山の弟子であった小原桃洞こそ、紀州に本草学を樹立した最大の功労者であるが、かれも師である蘭山以上に博物学的研究態度と方法をもっていたといわれている。そして、この桃洞に師事して、紀州の本草学を完成させた学者が畔田翠山であった。 いっぽう、熊楠にとって、このような本草学の流れをくむ博物学の師にあたるのは、和歌山中学校時代の博物学教師、鳥山啓(1837-1914)であった。鳥山は、蘭山の弟子であった田辺藩士、石田盤谷の孫弟子にあたり、熊楠が最大の師と仰ぐ人物であった。それゆえ、ある意味で熊楠は、小野蘭山から派生した紀州本草学の系統に連なっているといえるのである。

熊楠と翠山の共通点

 熊楠は、英国から帰国の後、紀州田辺にこもって東西の博物学を融合させた独自のスタイルを模索した。翠山もまた、和歌山で大著『古名録』を著し、本草学を基礎とした独自の博物学を完成させている。このように、中央から遠く離れた紀州の地で個性的な学風を築いたという経歴が、まずもって両者の共通点として挙げられるであろう。

 つぎに、松居竜五は両者の共通性について「…その博物学は紀州全土のフィールドワークもさることながら、書誌学的にも充実しており、その点で希代の百科全書家たる南方との共通項も見いだすことができるだろう。」と述べている。このことは、翠山畢生の大著である一大博物学辞典『古名録』の引用書目を見てみるとよくわかる。『古名録』には、少年時代の熊楠も筆写した『本草綱目』や『大和本草』にはじまって、『本草』『本草啓蒙』『証類本草』『本草類編』『本草和名』などの本草関係の書籍、『倭名鈔』『倭名類聚鈔』『字鏡』『字典』『新選字鏡』『正字通』『天文写本和名鈔』『塵添埃嚢鈔』『三代実録』などの辞典・字典類、『日本書紀』『続日本紀』『釈日本紀』『扶桑略記』などの歴史書、『出雲風土記』『駿河国風土記』『安房国風土記』といった風土記、さらに『万葉集』『古事記』『源氏物語』『源平盛衰記』『太平記』『名月記』『藻塩草』などの国文学関係にいたるまで、じつに多様な書物が引用されている。これは他の本草学者とは比較にならないほど膨大な量であり、翠山の巨人ぶりをよく表わしている。熊楠の場合も、その引用文献は翠山以上に多彩であったし、『本草綱目』をはじめとして翠山と共通する文献を頻繁に引用していることなどからも、両者の学問的関心が近いものであったことがうかがえる。

南方熊楠所蔵の『水族志』

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 また、翠山は時代に受け入れられたとは言い難い学者であり、その点にも熊楠と近いものが感じられる。翠山は、熊楠が生まれる8年前の安政6年(1859年)に、熊野本宮で採薬中に急死したのだが、没後もほとんど顧みられることがなかった。そのため、かれの著作が再発見され、出版されるに至ったのは没後25年経った明治17年(1884)9月のことであった。このとき出版された『水族志』を、熊楠は、大学予備門時代の明治18年(1885)5月17日に購入している。それ以降、熊楠は『水族志』を水棲生物全般についての基本文献として大いに利用している。例えば『南方熊楠全集』第2巻所収の『巨樹の翁の話』で、コサメ小女郎という妖怪の話のあとに「畔田伴存の『水族志』に、紀州安宅(あたぎ)の方言アメノ魚をコサメという、と見ゆ。ここに言うところもアメノ魚であろう。」として、妖怪の正体を同定している(38頁)。

熊楠の翠山顕彰

南方熊楠所蔵の『古名録』全巻

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 さらに、『水族志』に続くかたちで、明治18年〜23年にかけて大著『古名録』が出版された。その『古名録』にも、書き込みが入れられており、論文中にも引用されている。

 一例を引くと、『全集』第4巻所収の『催促する動物の譚』において、動物の鳴き声の由来譚を例によって縦横無尽に引っ張り出してくるなかに「畔田伴存の『古名録』六五に引いた『俊頼髄脳抄』の文これと大同小異だが…」「『古名録』、また予未見の書『かたそぎの記』を引いていわく…」と続けて引用している。とくに後の引用部分は「熊楠さえ未見の書を翠山は引用しているのだ」とさりげなく翠山に敬意を表しているようにさえ感じられる。

山口華城『贈従五位畔田翠山翁伝』

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 この論文は昭和5年(1930)10月発行の『民俗』2巻10号に掲載されたものなのだが、じつはこの年の3月、熊楠は、翠山の伝記を著すために奔走していた山口華城(藤次郎)に、その序文の執筆を依頼されているのである。結局、熊楠はこの依頼を断っているのであるが、その旨を述べた3月6日付の山口宛書簡が、昭和7年(1932)発行の山口華城『贈従五位畔田翠山翁伝』に収録されることとなった。

 こうした経緯を考慮すれば、前述の『古名録』引用部分についての詮索は、あながち見当はずれでもないような気がする。つまり熊楠は、山口の翠山顕彰事業を援護するため、かなり意識的に『古名録』を引用した観があるのである。この部分以外にも、昭和5年から6年にかけて執筆された論文には『古名録』『水族志』の引用頻度が極端に高く、熊楠の「粋な計らい」が想像される。あるいは、この機会に熊楠自身も山口の活動に刺激され『古名録』の豊穣な内容を再認識したのかもしれない。

 また、銭谷武平が『畔田翠山伝―もう一人の熊楠―』で述べているように、熊楠は、翠山の仕事に興味を持っていた東大教授の白井光太郎に山口を紹介している。熊楠は、郷土の大先輩でもある翠山に対して常に敬意を払い、機会があればその業績を引用するなどして顕彰に努めていたのである。

 

まとめ

 以上、主に熊楠側の視点から、翠山との共通性を中心に具体的な事例を紹介してみた。二人に共通する最大の特徴は、その比類なき文献学的博識と「天狗」顔負けのフィールドワークであり、言い換えれば知識と体力、あるいは人文科学と自然科学といったバランス感覚のようなものなのではあるまいか。そして、このバランス感覚こそ、かれらが時代を超えうるほどの広大な視野を獲得しえた原動力なのである。

 たとえば『和州吉野郡群山記』をはじめとする翠山の仕事は、それまでの本草学者とは明らかに一線を画している。それらは、山岳地誌、生態地理学、文化人類学といった多角的な視点をもって、人間生活をも含めた自然全体を観察し記述することを意図したものであった。熊楠の場合も、やはり人間生活をも含めた自然全体という視点を持ちえたからこそ、神社合祀反対運動などの先見的な仕事に尽力することが出来たのである。

 もちろん、両者のごとき該博な知識や広大な視野を獲得することは容易なことではないであろう。しかし、そこに至るまでの妥協を許さぬ徹底ぶりや、公正な批判精神といった二人の学問に対する真摯な姿勢は見習うべきものであり、それこそが翠山と熊楠の本質的な共通点であるといえるだろう。

参考文献

  1. 杏雨書屋特別展示会『紀州の博物学者畔田翠山』図録,1999

  2. 御勢久右衛門他『和州吉野郡群山記―その踏査路と生物相』東海大学出版会,1998

  3. 杉本つとむ『江戸の博物学者たち』青土社,1985年

  4. 銭谷武平『畔田翠山伝―もう一人の熊楠』東方出版,1998

  5. 松居竜五『南方熊楠一切智の夢』朝日新聞社,1991

  6. 南方熊楠『南方熊楠全集』平凡社,1975

  7. 山口藤次郎『贈従五位畔田翠山翁伝』私家版,1932

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