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◆角石原(かどいしはら)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「新居濱」(明治41.8)を使用したものである

所在:新居浜市立川町(たつかわちょう)
地形図:別子銅山/新居浜
形態:山中に施設が集まる
標高:約1,100m
訪問:2018年8月

 

 東平地区の南東、柳谷川の上流部にある。旧別子銅山に最も近い場所にある銅山関連の施設群。明治時代には選鉱場や溶鉱炉、別子鉱山鉄道の上部鉄道の停車場(信号場)があった。
 最近の地図でも記されている「銅山峰ヒュッテ」(写真1)は管理が行き届いており、山小屋としての宿泊が可能。
 なお別子銅山記念館にあるジオラマには、停車場南東斜面の牛車道沿いに人家のようなものが建ち並んでいる。また柳谷川を過ぎた牛車道沿いにも人家のようなものが建ち並び、「片原町」と記されている。いずれも居住の有無は不明だが、いずれもそれらしい平坦地が確認できる。
 以下は現地の随所に設置されている説明看板より。

・角石原停車場
 別子の高橋で精錬された粗銅は、第一通洞を経由してここに運ばれ、角石原で処理した焼鉱と共に貨車に積み込まれて、上部鉄道にて5.5q先の石ヶ山丈まで運ばれた。そこからは索道で端出場(はでば)まで下ろされ、更に下部鉄道で新居浜の惣開(そうびらき)まで輸送されていた。鉄道は明治26年(1893)に敷設され、同44年まで近代化した鉱山の象徴として走り続けてきたが、第三通洞が貫通して東平地区が中継拠点となったことにより、明治44年に廃止した。現在の銅山峰ヒュッテが建つ辺りが駅舎であった。
 現在、角野の大山積神社境内には当時活躍していたドイツのクラウス社製蒸気機関車が展示されている。

・第一通洞(八丁マンプ)北口(写真4)
 別子銅山の近代化が進むにつれて産銅の増加と生産物資■(※)食料の輸送量が増大し、明治13年(1880)には立川中宿(たつかわなかじゅく)まで牛車道をつけたが1,300mの銅山越は交通の隘路で、輸送路の短縮が求められていた。そこで、ここ角石原と別子の東延谷をトンネルで結ぶ計画を立て、明治15年第一通洞の開削に着手した。幸い、この年からダイナマイトを使用したことにより、予定より早く明治19年に代々(だいだい)坑に貫通した。全長1,020mであった。
 坑内には軌道が敷かれ、人車や馬車によって輸送を行っていた。明治44年、運搬の機能が第三通洞に移って廃止されたが、以後は人道として一般にも共用されていた。

※ 汚損により判読できず

・角石原選鉱場と焼鉱場
 この辺りの開発が始まったのは明治時代になってからで、明治13年(1880)に銅山と立川中宿を結ぶ牛車道が完成し、この先の大地形(おおじぎょう)は中継所となっていた。その後、明治15年になって第一通洞の開削が始まり、そのズリで斜面を埋め立て、やがてそれが鉄道用地へと展開していった。明治26年上部鉄道が完成した頃、新居浜で稼動していた惣開精錬所の煙害問題がエスカレートしたので、その対策として鉱石を山元で焙焼することにして、この辺り一面、谷底から山上に至るまで焼窯やストール式という溶鉱炉で硫黄を取り除いていた。
 この辺りには選鉱場があり、第一通洞から出た鉱石を選別し、横のインクラインで焼鉱炉へ上げ下げしていた。

・上部鉄道
 海抜850mの石ヶ山丈と1,100mの角石原を結ぶ上部鉄道は、明治25年(1892)5月建設に着手,同26年8月に完成した日本初の山岳鉄道である。沿線の地形は急崖の連続で、始めは牛車道を改良して馬車鉄道を運行する計画であったが、明治25年11月欧米視察から帰国した住友家総理人広瀬宰平(さいへい)は蒸気機関車を走らせることを命じた。以来、総力を挙げて建設を続行し、僅か1年余という短期間で完成させた。22箇所もある谷渡りには煉瓦積みの橋台が施され、殊に唐谷に懸かる3連橋の橋台は石ヶ山丈駅の遺構と共に文化財として価値が高い。


 当地を訪問後、旧別子との境目である峠の「銅山越」(写真17)まで足を延ばした。峠には石積みに囲まれた石造物群が置かれている(峠の地蔵さん。写真18)。以下は説明看板より。


・銅山越
 開坑以来の悲願が叶って元禄15年(1702)別子銅山の粗銅は、ここを越えて新居浜の大江の浜まで2日で運びだせる様になった。それまでは村の東のはずれの小箱(おばこ)峠を越えて宇摩郡天満(てんま)の浦まで2継3日もかかっていた。以来、明治19年に第一通洞が開通するまでの184年間、粗銅と共に山内に住む数千人の食糧も中持人夫に背負われてこの峠を往来した。
 しかし、海抜1,300mもある銅山峰は、しばしば厳しい表情を見せ、風雪のため行き倒れた者もあった。峰の地蔵さんは三界万霊、その無縁仏を祠ったものである。その地蔵さんの縁日は旧暦8月24日であった。明治の頃には道筋には幟がはためき、横の舟窪(ふなくぼ)には土俵があって子供相撲に歓声が湧いたという。

 


写真1 山小屋(停車場付近)


写真2 山小屋から新居浜市街地を望む


写真3 停車場付近の石積み。左の道は線路跡


写真4 第三通洞。手前には枕木が見える


写真5 山小屋後方の平坦地


写真6 山小屋後方の遺構


写真7 山小屋後方の平坦地


写真8 道(旧線路)沿いの遺構


写真9 選鉱場上部の遺構


写真10 選鉱場上部の平坦地


写真11 同


写真12 何かの跡


写真13 選鉱場上部の道(線路跡)

写真14 トロッコ

写真15 銅山越への分岐

(写真16 銅山越手前の墓地)

(写真17 銅山越の鞍部)

(写真18 銅山越の「峰の地蔵さん」)

(写真19 銅山越から旧別子方面を望む)

写真20 「片原町」付近の道(線路跡)沿い。西赤石山・東赤石山への道しるべがある(以下「片原町」)

写真21 何かの跡

写真22 同

写真23 同

写真24 同

 

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