◆錨(いかり)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「龍神」(昭和28.7)を使用したものである
所在:十津川村出谷(でたに)
地形図:重里/龍神
形態:稜線上とその下の斜面に家屋が少数集まる
標高:稜線上・約600m 斜面・約500m(出谷小原バス停は約250m)
訪問:2008年11月・2010年10月(HEYANEKO氏と共同)
上湯(かみゆ)川・松柱(まつばしら)谷に挟まれた山の稜線上とその南斜面にある。古い地図では1、2軒の建物と、稜線上に学校が見られる。七ッ森より約1.0km、松柱集落内の菊屋前バス停より約1.3km、県道735号より小原(おはら)集落を経由し約2.0kmとなっている。
学校跡地には村教育委員会が建てた記念碑が立っている(写真1)。碑によると、学校は出谷小学校及び第六中学校出谷分校。碑がある場所はおそらく校庭で、道を挟んで反対側には建物の基礎のような遺構が見られる。ほか防火水槽のようなものも見られた(写真4)。学校はかなり不便な場所にあるが、位置的には出谷の中心なので都合がよかったのだろう。稜線上までには各方面から道がつながっている。資料『十津川学校史』によると、沿革は以下のとおり(抜萃・一部改変)。
明治8.3 |
殿井学校・中番学校が合併し大字出谷字錨728の3番地に校舎を建築、出谷小学校として発足。8小字内の児童を収容 |
明治20.4 |
出谷尋常小学校と改称 |
昭和16.4 |
出谷国民学校と改称 |
昭和22.4 |
出谷小学校と改称。第六中学校出谷分校を併設 |
昭和24.1 |
学校給食場を建築 |
昭和30.8 |
水道工事完成。以前は児童生徒が当番制で学校および住宅用の水汲みをしてきた |
昭和39.4 |
学級数5・教員6名となる(複式学級1、他は単式) |
昭和39.5 |
中学校分離・廃校 |
昭和40.4 |
全学年単式学級となる |
昭和44.4 |
西川第二小学校出谷校舎と改称 |
昭和45.3 |
統合により廃校 |
学校の隣の一段下がった場所には民家のような建物がある(写真6)。地元の方の話では民家は2軒ということなので(この2軒は南斜面にある)、教員の宿舎か何かだろうか。
ここから小原集落に向かって斜面を降りていくと、別の家屋群が見られる。倒潰家屋が1軒と(写真8)、納屋のみが残る敷地が1箇所(写真11)。付近一帯は斜面だが、石垣があり畑の跡と思われる。尾根筋に家が建っているとはいえ、かなりの急斜面。
地元の方の話では、無人になったのは昭和50年代くらい。1軒は小壁(こかべ)集落に移転した。校区は出谷一円で、松柱や小松辿からも子供が通っていた。
なお崩ノ原の南の尾根から若山−七ッ森−錨−真砂瀬(まなごぜ)を結ぶ稜線の道は、古い地図では村道として描かれている。
資料『十津川の民俗』には「出谷小原」の10戸のうち「ウエイカリ」「シタイカリ」という屋号があり、いずれも当地の家々と思われる。ウエイカリの千葉家は迫野からの移住者、シタイカリの岡家はもとウエイカリの居住で、元の岡氏は北海道へ移住とのこと。また『十津川の地理』によると、昭和34年2戸11人。
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