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◆片貝(かたかい?/カタケー)

所在:檜枝岐村字駒ケ岳(大字なし)
地形図:奥只見湖/八海山
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:?(水面は約740m)
訪問:2023年6月

 

 村の北西部、片貝川(只見(ただみ)川支流)沿いにある。
 ここでは村史で「片貝・ヌルツコ開墾地」と記されている片貝開墾地とヌルッコ開墾地について触れる。

 村史によると、檜枝岐の土地が狭隘でたびたび食糧難となり、また人口の増加もあったため、農地不足の打開策として大正期より開拓事業が始まったという。
 片貝平は、片貝沢と只見川合流部の平坦部。もと国有林であったが大正8年東京営林局より貸し付けを受け開墾地となり、入植が行われた。肥沃であったが檜枝岐本村からは遠く、片貝沢に橋も架けられず籠によって渡っていたという。入植者は星(のち平野氏に譲渡)・星・平野各氏の3戸。
 ヌルッコは、只見川と北ノ岐川の合流部の対岸。交通の便はきわめて悪く、こちらも籠によって川を渡って往来していたという。大正8年平野氏が入植。開拓面積は6町歩。
 いずれも産業としてゼンマイ採取・狩猟・漁撈などを行っていた。
 檜枝岐本村からの交通は不便であったが、対岸には
須原口浪拝といった新潟県の開拓地があり、銀山拓殖会社があったため少しは物資もあった。
 大正11年1月15日の豪雪により、片貝の平野家が雪崩に遭い2名が犠牲となった。
 また昭和13年2月17日、所沢飛行学校熊谷分校所属の軍用機が片貝沢の奥で不時着。生存した者も凍死・餓死するなど、7名全員が死亡した。昭和33年8月に片貝平に殉難碑を建てたが、水没移転に伴い
大津岐日暮平に移設(※)
 昭和28年奥只見ダム・同発電所建設が決定。昭和30年8月小出町【現・魚沼市】の建設事務所において開発局長など県関係者・村長・電源開発関係者・片貝住民3名が協議し、補償について妥結。移転先は小出町2名、埼玉県1名、檜枝岐1名となった。
 同年10月にも同様にヌルッコ・音木・一ノ沢の代表者との協議が行われ、補償について妥結。全戸が檜枝岐本村に移転。

※ 資料『檜枝岐の暮らしと地名』によると、さらに昭和57年に檜枝岐本村の堂宇(星立庵)の前に移設したとのこと


 昭和22年・同28年の航空写真では、虚空蔵岩の北に開けた場所があり、数棟の小さな建物が見られる。村史の記述や資料『ふるさとのアルバム』の地図より、この場所が片貝平の開拓地であったよう。ただし旧版地形図には建物の記載がない(後出の「画像」)。
 また須原口の対岸にも開けた部分があるが、この場所がヌルッコか。建物のようなものは昭和22年・同28年ともに見られないが、旧版地形図には建物が1つ記載されている(後出の「画像」)。

 現在は交通が遮断され、水没地に容易に近づくことはできない。
 なお奥只見湖の遊覧船を利用することにより、集落付近を通過することが可能。

 


画像 明色部のうち南部が片貝開墾。北部はヌルッコ開墾か。中央部は不明

※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「八海山」(昭和22.2)を使用したものである

 

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