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◆大津岐(おおつまた)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「檜枝岐」(昭和22.11)および内務省地理調査所発行の同地形図「八海山」(昭和22.2)を使用したものである

所在:檜枝岐村字駒ケ岳(大字なし)
地形図:会津駒ヶ岳/檜枝岐
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:750m前後(水面は約740m)
訪問:2023年6月

 

 村の北西部、大津岐川(只見(ただみ)川支流)沿いにある。
 ここでは大津岐開墾地として上流左岸の日暮平(ひぐらしたいら)開墾地と下流右岸の柳沢(やなぎそう)開墾地について触れる。

 村史によると、檜枝岐の土地が狭隘でたびたび食糧難となり、人口の増加もあったため、農地不足の解消のために開拓事業が始まったという。
 日暮平は、大津岐川左岸で概ね一ノ沢合流部より上流側の平坦部。もと国有林であったが大正8年東京営林局より貸し付けを受け開墾地となり、入植が行われた。開拓面積は12町歩。地味が肥えた土地であったため農耕に適し、稲が相当量栽培されたという。入植者は星・平野・平野・星(途中移転)・星・平野(のち田代氏に譲渡、駄尾沢の星氏と交換)の各氏。のち佐藤氏が入植。
 柳沢平は、大津岐川右岸で柳沢が合流する付近の平坦部。大正9年国有林の貸し付けを受け開墾地となった。開拓面積は7町歩。大津岐日暮平同様土地は肥沃であった。入植者は星・平野(のち佐藤氏に譲渡)・星・平野(雪崩被害ののち佐藤氏に譲渡)。
 いずれも産業として養蚕・杓子作り・狩猟・漁撈などに従事していたが、交通不便のために生活は苦しかった。
 大正11年1月15日の豪雪により、柳沢の平野家が雪崩に遭い幼児1名を除き住民が犠牲となった。
 昭和33年8月26日、檜枝岐本村の鎮守を分祀し、大津岐の鎮守社として日暮平に祀られた。
 昭和28年奥只見ダム・同発電所建設が決定。水没する柳沢は昭和30年3月30日、駄尾沢とともに新潟県小出町【現・魚沼市】の電源開発事務所において協議し、補償を受諾。郡山市や新潟県に移転することとなった。日暮平は孤立し冬期は生活することができなくなるため、電源開発より補償金を交付され冬期は赤岩平や本村に居住することとなった。
 しかし後に大津岐発電所が建設されることとなり、昭和40年12月個別に土地貸与に対する補償が妥結(当時星氏3戸・平野氏1戸)。発電所の建設工事は、昭和41年1月6日着工され、同43年12月25日に完成した。
 なお大津岐開墾地一帯は俗に「モトヅク」とも言われ、これは大津岐川流域の古い呼び名。

 資料『尾瀬と檜枝岐』には鎮守について、「日暮と柳澤をつなぐ中間の大津岐川の橋の袂に檜枝岐分社駒が嶽大明神が祀つてある」とある。

 なお当地には檜枝岐小学校大津岐分校があった。村史および資料『檜枝岐の暮らしと地名』によると、昭和9年大津岐の民家を間借りして教育を行ったのが始まり。昭和12年大津岐分校新設。日暮平と柳沢平を校区とした。奥只見発電所・大津岐発電所の建設により、昭和36年閉校。


 現地(日暮平)には小屋が散在し、関係者が時おり往来していることが窺える。柳沢平も上流の一部は完全な水没は免れているようだが、痕跡らしいものは確認できず。

 


写真1 下流を望む(右側が柳沢)

写真2 小屋(屋敷跡?)

写真3 同

写真4 何かの遺構

写真5 開けた場所

写真6 道路沿いの風景

写真7 大津岐発電所

 

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