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◆須原口(すはらぐち



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「八海山」(昭和22.2)を使用したものである

在:魚沼市上折立(かみおりたて)?・宇津野(うつの)
地形図:奥只見湖
/八海山
形態:川の合流部に家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約630m(水面は約750m)
訪問:2016年11月

 

 村の東部、只見(ただみ)川と北ノ又川の合流部にある。現在は奥只見ダムの人造湖(奥只見湖)に水没。所属の大字は、複数の地図サイトでは表記なし、手持ちの道路地図では宇津野、国土地理院の地図サイトでは上折立となっている。
 以下は資料『銀山拓殖株式会社社史』『湯之谷のあゆみ』『ふるさとのアルバム』より当地および浪拝買石原を含めた一帯の概要。

当地一帯は「銀山平」と呼ばれ、明暦3(1657)年から安政6(1859)年にかけて銀鉱石が採掘されていた。1800年代より宇津野(うつの)や芋川(いもがわ)の人々により、小規模な養蚕や出作りが行われるようになる。明治8年の時点で出作り小屋は14戸
銀山平の森林・鉱物資源の活用と、水力利用の可能性を探るべく、明治34年・35年に探検隊により実地調査が行われた
その後銀山平に農地の開拓が見込まれ、明治43年銀山拓殖株式会社設立、入植・開拓が開始された。会社事務所は須原口に置かれた
入植当初は応募者が40戸近くもあったが、大正5、6年頃に実際銀山平に住んでいたのは20戸
農地は畑が中心で、蕎麦・粟・稗・トウモロコシ・ジャガイモ・カボチャなどを栽培。ほか養蚕が盛んに行われ桑畑も多かった。会社は開墾を進めるとともに副業を斡旋し、楮・三椏・椎茸の栽培、木工品生産などを奨励。入植者の生活の安定を図った
農業以外には木工品作りを生業とする者が多く、木鋤をはじめ、鍬柄・杓子・杓文字・曲げ物などを製作
春の山菜・秋のきのこ等は豊富にあり、自給に役立てたほかできるだけ換金を心掛けた。雪が融けて最初の仕事がぜんまい採り。ぜんまいの販売が一年間の暮らしを大きく支えるほどであった。秋はなめこ。当時はすべて天然もので、ぜんまい同様入植者にとっては大切な収入となった。イワナ・ヤマメ・マスといった川魚も多く、自家用に捕るくらいでは減少することはなかった
木工品や林産物等は会社が買い上げ消費地へ売り捌き、山への生活必需品も運び上げて入植者に渡していた
木炭は大量生産も可能な環境ではあったが、自家用以外にはあまり焼かれなかった。これは重量があり長距離の運搬が困難なため
当初考えられたほど収益は上がらず、入植者の自給生活は厳しいものであった
家屋は越後からの入植者は茅葺きが普通であったが、檜枝岐(会津地方)では昔から板葺きの家を造ってきたので、銀山平でも同様の家を建てた
昭和8年頃、越後側に30戸くらい、会津側に15戸くらいあった
昭和28年、奥只見ダム建設に伴い小出町【現・魚沼市】に奥只見建設所が設置され、須原口にも現場事務所を設置。翌29年より実質的に着工。同年には資材輸送用のトンネル(現在のシルバーライン)の工事にも着手。ダム本体の工事は昭和33年より始まり、昭和35年湛水および発電開始。昭和37年完成。入植者は昭和33年に立ち退き

 以下は須原口についての特記。

大正9年、須原口で11戸が稲を試作。収穫はあったが、量・質ともに最低水準であった
大正12年、須原口に製糸工場を設置
昭和7年、須原口に銀山牧場開設。佐渡牛と農耕用朝鮮牛を飼育し力を注いだが、牛は冬を越せず里に下ろす手間がかかり、また飼料代などの経費もあって長くは続かなかった。昭和10年閉鎖

 現在は奥只見湖の遊覧船を利用することにより、集落付近を通過することが可能。最近の地図でも記されている「虚空蔵菩薩堂」も確認することができるよう。国道352号より徒歩の訪問を試みる場合、細越山までは送電線の巡視路を利用できる。しかしここから集落跡方面へ向かうと、灌木や笹に阻まれ容易に進むことができない(当方は未到達)。

 


写真1 ダム堰堤


写真2 同(降雪)

写真3 細越山南の尾根より集落方面を望む。手前から延びる尾根の先端が集落跡付近

 

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