◆相野釜(あいのかま)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「岩沼」(昭和21.11)を使用したものである
所在:岩沼市下野郷(しものごう)字浜(はま) 地形図:仙台空港/岩沼 異表記:相の釜(地形図等) 形態:海沿いに家屋が集まる 離村の背景:災害 標高:数m 訪問:2023年5月
大字下野郷の北東部、仙台湾に面した海沿いにある。
平成23(2011)年3月の東日本大震災により被災。市内沿岸部にあった藤曽根・二野倉・長谷釜・蒲崎(かばさき)・新浜とともに甚大な被害が生じ、災害危険区域に指定。住居を再建することが不可能となった。移転先として「玉浦西(たまうらにし)地区」が新たに築かれ、他の地区とともに集団移転している。
集落跡は「千年希望の丘」(※1)の相野釜公園として整備された。
千年希望の丘公式サイトによると、被災前は136世帯417人(※2)。製塩場として塩を作る釜場があったことが地名の由来とされる。「相野釜メロン」など農業主体の地区であったとのこと。
※1 東日本大震災により人が住めなくなった土地を活用し、沿岸に整備された造成地。相野釜公園・藤曽根公園・二野倉公園・長谷釜公園・蒲崎公園・新浜公園の6つの公園と園路からなる。各公園に築かれた丘と丘を園路で連結することで津波を減衰させ(「緑の堤防」)、また緊急時の避難場所としての役割も持つ。さらに震災の記憶や教訓を伝える防災教育の場としても活用されている。1,000年先まで子供たちが笑顔で幸せに暮らせるよう願いを込めて命名(公式サイトより要約)
※2 ただし『東日本大震災岩沼市の記録』では117世帯380人。犠牲者は43人(「岩沼市震災復興計画グランドデザイン」より)
市史によると、相野釜浜が開発されたのは元禄6(1693)年。
当地の鎮守は稲荷神社で、字浜105番地に鎮座。境内社に鹿島神社がある。祭神は倉稲魂尊。長徳年間(995-999)に創建され、のち新たに京都伏見稲荷の分霊を遷祀。相野釜の守護神として尊崇された。明治5年村社に列格。明治42年の神社合祀令により下野郷字上中筋の愛宕神社に合祀された。しかし氏子の反対が強く、旧社殿の維持管理は継続され、合祀後も実質的な鎮守であった。第二次世界大戦後に稲荷神社が宗教法人として改めて認められたため、事態は解消した。境内には安永5(1776)年の銘を持つ石碑や、嘉永年間(1848-1854)の石灯籠などが存在していた。しかしこれらは社殿などの建物とともに津波によって流失し、現在は残された2基の石碑と稲荷神社、および境内社であった鹿島神社の小祠が場所を移して再建されている。
寺院として海青(かいせい)山法円寺(曹洞宗)があり、寛永12(1635)年仙台の松音寺9世住職・門芸の開山という。津波により、入口にあったの庚申塔(寛政3〔1791〕年)とともに流失した。
また稲荷神社と法円寺の間に位置するように玉浦小学校相野釜分校があった。明治33年早股小学校の分教場として設置認可(昭和59年版市史)、あるいは明治17年、当時の下野郷村の小学校支校として設置(令和版市史3巻)、あるいは明治28年に玉浦尋常小学校相野釜分教場として設置(同10巻・11巻)。昭和31年に近隣の矢ノ目飛行場が米軍から返還され、自衛隊基地および民間飛行場になったことで騒音が問題となり、分校の移転が議論されるようになった。翌年には防衛庁から移転費が補償され、南に1qほど、貞山堀(ていざんぼり)西側の字西原に移転することとなった。移転後も飛行場の拡張などに伴いさらなる移転の話も持ち上がったが、昭和48年3月24日に閉校した。
当地の農家は兼業が多く、震災前に専業農家であったのは野菜の生産組合の6戸とメロンの生産組合の8戸。相野釜のメロンは特産品として知られていた。
震災移転後は、玉浦西一丁目にて相野釜町内会を構成している。
以下は交流センターの年表および資料『東日本大震災岩沼市の記録』より、震災後の動向のうち沿岸被災6地区にかかわりがあるもの。
平成23年 |
3月28日 |
里の杜駐車場に仮設住宅の建設工事開始。プレハブ仮設住宅3箇所384戸分を建設(里の杜東住宅・西住宅・南住宅) |
4月5日 |
仮設住宅受付開始 |
4月18日 |
被害が甚大であった相野釜・藤曽根・二野倉・長谷釜・蒲崎・新浜の6地区と、復興に向けた懇談会(6地区代表者会)を開始(被害状況について・今後の対応について) |
4月29日 |
仮設住宅への入居開始 |
5月2日 |
6地区代表者会(地盤沈下について・支援制度について・復旧・復興について) |
6月4日 |
仮設住宅入居完了 希望者全員の仮設住宅入居を受け、翌日全避難所を閉所(県内で最初)
皇太子・皇太子妃両殿下宮城県行幸啓(相野釜地区を視察) |
6月21日 |
6地区代表者会(集団移転について等) |
10月4日 |
6地区代表者会(集団移転先候補地について等) |
11月2日 |
6地区代表者会(集団移転先候補地について等)。三軒茶屋西土地区画整理事業地の西側農地(現・玉浦西地区)を集団移転先として選定 |
12月22日 |
6地区代表者会 |
平成24年 |
2月16日 |
6地区代表者会(集団移転に係る支援について等) |
3月23日 |
防災集団移転促進事業・災害公営住宅整備事業及び農地転用の国の同意を受け、3月30日公表。防災集団移転促進事業が本格的にスタート。471戸の集団移転の取組が進んだ |
4月9日 |
6地区代表者会(集団移転スケジュール等について・まちづくり検討委員会について) |
5月18日 |
6地区代表者会 |
6月11日 |
集団移転先のまちづくりを検討するため、学識経験者・移転対象地区の市民及び移転先周辺地区の市民による「玉浦西地区まちづくり検討委員会」を設置 |
6月25日 |
6地区代表者会 |
8月5日 |
玉浦西地区造成工事起工式 |
8月24日 |
6地区代表者会(移転先の地区配置等について) |
10月1日 |
6地区代表者会 |
11月1日 |
6地区代表者会(災害危険区域について・移転促進区域について等) |
12月17日 |
沿岸部を災害危険区域に指定 |
平成25年 |
1月8日 |
6地区代表者会(集団移転の進捗状況について等) |
2月8日 |
千年希望の丘(1号丘)整備工事着工(相野釜地区) |
2月25日 |
6地区代表者会(玉浦西地区の工事進捗状況・千年希望の丘について等) |
3月26日 |
玉浦西地区復興まちづくり特区が国より認定 |
5月24日 |
6地区代表者会(集団移転・千年希望の丘について等) |
6月9日 |
「千年希望の丘」1号丘完成 |
7月19日 |
6地区代表者会(玉浦西地区について等) |
10月23日 |
6地区代表者会(移転促進事業・千年希望の丘について等) |
12月12日 |
玉浦西地区の町名を「玉浦西」に決定 |
12月21日 |
玉浦西地区第1期宅地引渡し(相野釜地区約2ha)(被災地で最も早い引き渡し)。「玉浦西」の名称が公表される |
平成26年 |
1月18日 |
玉浦西まちづくり住民協議会設立 |
2月11日 |
相野釜町内会発足 |
3月9日 |
長谷釜町内会発足 |
3月29日 |
玉浦西地区第2期土地引渡し(蒲崎地区約0.5ha) |
4月16日 |
玉浦西地区の災害公営住宅建設工事起工式 |
4月27日 |
玉浦西地区第3期土地引渡し(二野倉地区・藤曽根地区・長谷釜地区・蒲崎地区・新浜地区)。全宅地の引き渡しが完了 |
5月10日 |
「東日本大震災慰霊碑」除幕式(相野釜公園) |
7月31日 |
6地区代表者会(千年希望の丘・玉浦西地区について等) |
10月19日 |
玉浦西二野倉町内会発足(旧藤曽根町内会・旧二野倉町内会) |
11月30日 |
玉浦西二丁目町内会発足(旧蒲崎町内会・旧新浜町内会) |
平成27年 |
2月16日 |
玉浦西地区災害公営住宅、相野釜・長谷釜地区の入居開始 |
3月2日 |
玉浦西地区災害公営住宅、蒲崎・新浜地区及び二野倉・藤曽根地区入居開始 |
3月25日 |
災害公営住宅建設工事完了 |
5月 |
個人で再建した住宅や災害公営住宅にぼぼ入居が終わり、移転が完了 |
7月7日 |
玉浦西地区に大型商業施設オープン |
7月19日 |
玉浦西地区まち開き開催
玉浦西記念碑除幕式 |
平成28年 |
4月24日 |
「千年希望の丘交流センター」開所式(相野釜公園) |
4月28日 |
里の杜仮設住宅閉所式(県内沿岸被災地では最初)。5月より解体工事開始 |
平成29年 |
1月27日 |
すべての仮設住宅の解体工事が完了 |
5月1日 |
玉浦コミュニティセンター開所 |
平成30年 |
3月24日 |
岩沼市嵩上げ道路「玉浦希望ライン」全線開通 |
なお「6地区代表者会」とは、市沿岸部で大きな被害にあった相野釜・藤曽根・二野倉・長谷釜・蒲崎・新浜の6地区の代表者と市による、集団移転や復興等に関する協議。このほか、市が各地区に出向いて話を聞く地区懇談会も32回開催された。
玉浦西地区の入口には記念碑が設置されている。以下は『東日本大震災岩沼市の記録』よりその全文。
玉浦西 〜想いは未来へ〜
岩沼市の沿岸部には、松並豊かな貞山堀沿いに、相野釜、藤曽根、二野倉、長谷釜、蒲崎、新浜の6つの地区があった。東に太平洋の海原が広がり、西に蔵王の山並みが望まれ、実り豊かな土地であり、人々の輪をつなげてくれたふるさとであった。
平成23年(2011年)3月11日午後2時46分、太平洋三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震が発生し、その約1時間後に来襲した大津波により181人の尊い命が奪われ、6つの地区の人々は安住の地を失った。その後、6つの地区の人々は、ふるさとを離れこの地に住むことを決断し、一人ひとりの想いを形にし、コミュニティを大切にした新たなまちづくりを始めた。
この地は、もともと20ヘクタールの稲田であったが、大震災から3年が経過した平成26年(2014年)4月には、居住を開始できるまでに至った。この新たなふるさとは、玉浦の名を後世に残すため「玉浦西」と名付けた。先人から受け継がれたふるさとの歴史や誇りとともに、大震災による数え切れない教訓や支援に対する感謝の心を未来に引き継ぎ、そして、「玉浦西」に集った人々の「想い」が未来へ届くことを願い、ここに、この碑を刻む。
平成27年7月 岩沼市
公園内には複数の遺物や遺構が残されており、かつて集落があった名残を垣間見せる。南部には東日本大震災慰霊碑があるが、鐘を備えたモニュメント塔の高さは津波の浸水高と同じ8m。
以下は「相野釜稲荷神社の由来」(令和5年、宮司および氏子会)より。
稲荷神社は、岩沼市下野郷字浜一〇四(相野釜)に鎮座し、長徳年間(九九五〜九九九年)に倉稲魂命を勧請し奉り、当地区の守護神として尊崇されました。
当地区は、太平洋に沿った海辺ですので、専ら漁業を営む傍ら、農業を副業として生活しておりました。神を勧請し奉りし後は大漁追福、五穀豊穣し、次第に繁栄を見るに至りました。ここで、地区民は、その広大なる御神徳に感謝し、京都伏見稲荷大社の分霊を奉安すべく、現在の境内地を選定し社殿を創建、寛永七(一六三〇)年三月朔日に、その遷宮鎮座式を奉仕して、長く恭敬礼拝を致すところとなりました。
その後、嘉永五(一八五二)年に地区民に相諮り拝殿を建立し、また、参道の敷石を設ける等、社殿の完備に意を注ぎ面目を一新しました。
明治五(一八七二)年、社格を村社に列せられましたが、明治三九(一九〇六)年に発布された神社合祀令により、当社もその維持管理の法規に達せざる故を以って、法的には他に合祀されましたが、氏子の反対により御神霊を奉安致すことは、以前と何ら異なるところなく、年毎に弥益益に神社の完備と尊厳とに意を注ぎ、地区民の守護神として御神徳益々高きものがありました。
戦後、氏子の長い間の念願の再建は昭和二四年四月に創立が承認されました。
境内社に武甕槌神を祭神とする鹿島社があり、嘉永年間(一八四八〜一八五四年)の灯籠があります。また、社殿の左奥に文化八(一八一一)年の山神碑があります。これは、もともと官有林の中に立っていました。潮よけの林は地区民の植えたものですが、後に藩有林となり、明治以降は国有林となりました。
東日本大震災の記憶
相野釜稲荷神社は、この場所より一二〇メートルほどの所、岩沼市下野郷浜一〇四に鎮座し、長徳年間より地区の守護神として尊崇されました。京都伏見稲荷大社の分霊を奉安すべく、震災前の境内地に寛永七年三月朔日に社殿を創建。また、氏子の長い間の念願であった鹿島神社の再建は、戦後の昭和二四年に創立が承認されました。
二〇一一(平成二三)年三月一一日に発生した東日本大震災の津波に襲われ、また、貞山堀拡張のため移設を余儀なくされ、この場所に新たに建立したものです。
この碑は大震災の記憶を後世に残すため配置し永遠に伝承します。
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