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◆轟(とどろき)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「仁木」(大正8.12)を使用したものである

在:赤井川村轟
地形図:阿女鱒岳/仁木 赤井川/仁木
形態:川沿いに家屋や施設が集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:約280m(中心部)
訪問:2014年5

 

 村の南部、白井(しらい)川沿いにある
 村史によると、もと字白井川と呼ばれた地の一部で、轟鉱山の発見により栄えた地。主に金・銀を産出し、金は鴻之舞千歳・手稲・静狩・珊瑠に続く歴代6位、銀は鴻之舞豊羽・手稲に続く歴代4位を占めていた。地名は同鉱山があったことによるが、その由来は鉱脈が豊富かつ広大であり、鉱山の名を世界に轟かせんとする願いから。
 鉱山の発見は明治30年といわれる。北海道鉱山株式会社の技師が露頭を発見したが、第三者であった阿部氏が同社を差し置いて試掘権を出願、対馬氏と試掘に着手。のち北海道鉱山株式会社、田中鉱業株式会社、金吉鉱業株式会社、再び田中鉱業と所有を経て。昭和62年に閉山した。この間2度の休山を経ている(昭和18-39・同49-57)。
 
以下は当地にあった小学校の沿革。

 明治34  私立教育所開設
 明治36  轟鉱山小学校となる
 大正12  高等科併置
 昭和16  公立の轟国民学校となる
 昭和18  休山により廃止

 なお街区は主に上流側の上長屋・下流側の下長屋の2地区からなり、前者には鉱山事務所・鉱舎・火薬庫・鉱員長屋など、後者には学校・病院・合宿所・鉱員長屋・社員住宅などが置かれていた。
 また字としての轟は昭和13年からの行政字(角川)。

 訪問当初は上長屋・下長屋の別は知らなかったため、下長屋に偏った訪問にとどまった。
 現在建物の類はいっさい残っていないが、下長屋地区ではいくらかの建物の遺構のほか、倒潰した神社を確認(写真13)。上長屋地区では火薬庫跡が見られた。最近の地図で「廃坑」と記された付近を訪れてみたが、道と僅かな石垣がある程度で顕著なものは見当たらず。

※ ウインデー氏(SNSの友人)によると、写真5は「奉安殿」ではないかとのこと。原典は『北海道金鉱山史研究』

 

≪下長屋≫

写真1 街路

写真2 建物跡

写真3 同

写真4 同

写真5 何かの建造物

写真6 学校跡?

写真7 同

写真8 宝登橋

写真9 社員住宅跡

写真10 建物跡

写真11 建物跡

写真12 同

写真13 神社跡
≪上長屋ほか≫

写真14 火薬庫跡

写真15 遺構

写真16 道と石垣

写真17 坑口跡?

写真18 遺構

 

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