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回想(南方文枝)

『岳父・南方熊楠』より》

 今年で終戦後五十年ともなり、また主人の十七回忌と高山寺からの通知であった。今から思えば割合早く世を去った人である。すでに霞のかかった私の頭の中におぼろ気ながら遠くへ逝った人を思い出してみた。私たちは終戦後の昭和二十一年(一九四六)に結婚した。世の中はまだ殺伐として何もかも不自由な時代であった。仲人と実兄に伴われ、熊楠先生の書庫拝見という名目で訪れたのは秋晴れの一日だった。初対面の挨拶をかわして頭を上げた瞬間、こらえきれずウッフフと笑ってしまった。いつも徹夜で読書するのが大好きのだいぶん変り者とは聞いていたが、さすがにと思った。頭髪はさっぱりした三分刈りで眼鏡の片方は使い古した小包紐で吊し上げられ、それが左右の均整がとれていないので何やら奇妙に見えた。

 「おかしいですか」。彼はまじめな顔で、東京で防空訓練中眼鏡をこわしてしまったので手近にあった小包紐で問に合せており、もう幾年にもなりますがこれで十分間に合っておりますと言った。やがて書庫に入ったが長時間出て来ず、秋の日はつるべ落しに日が暮れて、再三促されようやく残り惜し気に書庫から出で、熊楠先生のいずれの書物にも書き込みの多いのに感銘、思わず手の震えをどうすることもできたかったと言った。それから幾星霜を経て東大大学院の若き学徒であった松居竜五氏が初めて「ロソドン抜書」を手にされた時、実物を手にして手が震えてきたと眩かれた。それは幾年か前に聞いた同じ言葉なので不思議な気がしてならなかった。主人はすでにシダ博士の別名のある樫山茂樹様につき植物に関する御指導を受け帰省中は毎日のように山野に出かけて行った。

 昭和二十三年には澁澤敬三先生を中心として岡田桑三様の肝煎りでミナカタ・ソサエティが誕生した。発会式には澁澤先生もこの草深き田辺の陋屋に、そして主人の実家岡本幸助宅にも御来駕下され面目を新たにした。

 昭和二十六年に乾元社から「南方熊楠全集」が出版されたが、この出版に関してはいろいろなもたつきがあり、決して完全な全集ではなかった。これは絶版となったのである。

 かねてより話のあった南方熊楠記念館も具体化し、田辺市には設立の意志なきようなので、白浜の浦政吉様、榎本林作様、雑賀貞次郎様たちのお骨折りにて和歌山県白浜番所山植物園内に設立と決定、資金集めに寸暇を利用しては東西に奔走した。しかし当時は入館者も少なく、いろいろな事情にはばまれ休館を余儀なくされた時期もあったが、古家信行様が献身的にお守り下さったのでどうにか持ちこたえられた。幽界から主人も多難であった昔の苦労を偲び、今日の白浜の熊楠記念館に拍手を送っていることと思う。

 終戦後は日本大学経済学都教授として勤務したが、経済学とは裏腹にお金とは全く縁遠い人であった。この点亡父熊楠とはよく似たところがあった。いつもゼミナールで学生たちとともに漁村等に見学に行くことも多かったが、支給された費用ではいつも足が出て、「金持って上野駅までむかえ頼む」と電報をよこすのが常だった。

 大学闘争の嵐が起ったのは昭和四十五年前後、日大の主人の研究室も大被害を蒙った。今、岡本先生の研究室がめちゃめちゃにやられております、ホースで水をかけられ書物などびしょぬれですと時々大学から電話をくれるのだが、どうすることもできなかった。ことに再び手に入れ難い浮世絵や版画の類はトイレに持ち出され水をかけられ踏みにじられ、また同僚からの要望で亡父熊楠所有の浮世絵も運悪く研究室に運ばれていたので全部を失い、未発表の原稿など犠牲になった。今思い出しても口惜しい限りである。この時学生の暴力に抵抗して腕を折られた若い教授もおられた。この学生の暴動は主人にとってはよほどのショックであったのか全く意気消沈の態で、立直らせるまでに数か月もかかった。嫌な思い出である。

 昭和四十六年に平凡杜版「南方熊楠全集」が刊行された。岡茂雄様はじめ岩村忍、岡田桑三、高木一夫様たちの御努力のおかげであった。平凡杜編集部では長谷川興蔵様と林澄子女史が当られた。主人も日本大学に勤務中で都合よく常に長谷川様か林様が私どもの住む上鷺宮の団地まで御来訪下さった。亡父熊楠の文字は癖があり読みにくかったので、主人が余暇に楷書に筆写することになり、また徹夜の仕事が多くなった。

 この頃より高血圧の症状が現れはじめ、出勤の途中陸橋を渡る時足が辣みこわくて渡れないと言い出したので、嫌がるのを無理に病院に連れて行った。やはり血圧に要注意との診断であった。あれは三月の花冷えする夕方であった。朝から主人は熊楠目記の筆写に余念がなかったが、夕食を告げに行くとペンを握ったまま意識不明で倒れていた。脳出血で右半身不随であった。幸いにして主治医が和歌山県海南市出身の方で、五月の連休を利用して田辺まで送ってあげましょうとのことで、船で国立田辺病院に入院、余命三か月と診断されていたが、二年半の闘病生活の上、昭和五十四年七月十五日遂に帰らぬ人となった。いつも自分は岡本の父に、お前は小さい頃より学問好きで、将来学者になるつもりだろうから言っておくが、南方熊楠のような変人学者には決してならないでほしいと言われていたが、人の運命とは不思議たもので結局熊楠のあとしまつをすることになったと笑っていた。昭和五十二年、もっと勉強してからと今まで拒み続けていた岡本から南方への改姓を承知してくれた。気むつかしい人であったが、亡父熊楠にくらぶれば序の口で、人づき合いも悪くなく明るく楽しい毎日であった。

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