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「南方学」が動き始める

『岳父・南方熊楠』第四章より》

 昭和二十一、二年頃、当時壮健で活躍中の雑賀貞次郎氏と小生帰省の度毎に、南方熊楠遺業顕彰のことについて膝を交えて熟談を重ねた。雑賀氏は以前から「南方学」について自説をもっていて、いつも「南方学」という言葉を口にされていた。

 その後澁澤敬三先生を頭首に、ミナカタ・ソサエティが南方遺業顕彰事業の推進主体となり、第一次南方熊楠全集(乾元栓)刊行、次で小野真次氏を主にして南方熊楠記念館の竣成・開館(白浜、番所山)を見、併せて南紀隠花植物自然園準備会に拠って自然愛護運動の提唱など、事の性質上、表面的には決して華々しい活動でないけれども、全国的に多少知名の業績をあげてきた。備えに南方熊楠の学徳による。今般、第二次南方熊楠全集(平凡杜)刊行完了を機会に一方ではさらに自然科学方面の遺業の整理と発表との事業が企画されつつあり、他方では既発表「全集」を素材として、各専門分野から南方の人文科学方面の業績の研究を目的とする研究組織が生誕し、近く活動を開始することとなった。雑賀氏が生前唱え続けていた「南方学」に近いものが、南方翁残後三十余年、雑賀氏残後十年にして、今日陽の目をみるようになったのである。

 まことに、慶賀すべき哉である。

 すなわち草美杜社長野口達哉氏、同編集長宮内勝典氏中心に、左記諸氏が委員となって「季刊南方熊楠」(仮称)を各号分担責任編集して刊行することとなり、その初会合を近く旧南方邸で開く予定である。委員は阿部正路氏(国学院大学助教授)、飯倉照平氏(都立大学助教授)、松田修氏(国文学資料館大学教授)、宮田登氏(学芸大学助教授)、村岡空氏(詩人)、山口昌男氏(東京外語大学教授)の諸氏で、いずれも錚々たる新進気鋭の研究者で、各人専門の立場から南方熊楠を取上げて、その百科辞典的な多角的研究の全貌を照し出そうとしている。「南方学」は近く動き始めるようになったのである。

 雑賀氏は生前「南方学」を口にしていたけれども、その内容については何も言い遺していない。小生は、右の「南方熊楠(研究)」は、恐らくそれを具体化するものだろうと確信している。学問研究は研究者各自の自由な行き方を進めてゆくことによって発展するものでり、南方翁の如く、四方八方趣く所に奔放に動き廻って、随処に光芒を放った人の業績については、大勢の人々が専門的に深く掘り下げて行くと同時に、その協力によって全体を統一的につかみとることが必要とおもう。人おのおのの向かうところがあり、時代時代によって向かうところがちがっていて、それで結構、うまくまとまってゆくこととおもう。実は歌は世につれ、世は歌につれであって、物事は決して一処不動ではなく、動き進むからである。そんなことを考えながらこの稿を書いていて、フト朝日新聞の天声人語欄を見ると過日急逝された河童漫画家清水崑さんを偲んで、こう書いてある。

 崑さんは岸内閣のころに政治漫画の世界からだんだんに離れていく。政治に「顔」が消ると、それは彼の世界でなくなったのかも知れぬ。政治の管理化に対応するように、崑さんのあとに横山泰三戯評は、ムダな線が一つもないほど記号化した線描をもって政治に立ち向かう。つづいてサトウサンペイの「フジ太郎」が大衆社会の愚劣さを自嘲しながら、なお怒るという三等サラリーマンの正義感の戯評画が出場。崑さんは六十一才、泰三さんは五十代、サンペイさんは四十代、政治漫画は時代と世代のもっとも鋭敏なジャーナリズムだ、と。

 「南方学」もだんだんと元気に自由に動き廻り、前進して止むことなく多彩な成果を挙げるようにと祈りつつ、江湖諸賢の声援を願い上げる。(昭和四十九年三月三十日)

(昭和四十九年三月三十日『紀伊民報』)

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