岡本清造・南方文枝のページへ

南方熊楠資料研究会のホームへ


漁業経済学と南方学をつなぐもの−解説にかえて

『岳父・南方熊楠』より》

原田健一

 岡本清造の生涯に大きな影響を与えた二人の人間。

 一人は南方熊楠である。ものごころついた頃から、この田辺に、偉大な変人として人々の口の端に乗るのを聞き、又、偶然にその声を、姿を岡本少年は見た。少年の心にそれがどう写ったろうか。それを今、知ることはできない。が、父から「南方熊楠のような学者になるな。」と口をすっぱくして言われたことから察して、岡本少年がある憧憬の念をもって、南方熊楠を見ていたことは確かである。

 しかし、自ら語るように、本格的に南方熊楠という存在にふれることになったのは、南方文枝と結婚し、その残された資料を手で触れ、妻の夢のなかにあらわれる父の姿を共有し始めた頃からである。

 そして、もう一人の人間に、岡本清造は大学時代に出会う。岡本青年は田辺を出、旧制高校を岡山ですごし、京都帝大経済学部に入学する。この選択には理由があった。すでに『貧乏物語』を世に出し、その名を知られた河上肇の存在である。岡本青年がいつ河上肇を知ったかは判らない。しかし、大学時代の河上肇への傾倒―河上の経済原論講義の速記ノートがのこされている―には出会うべき人に出会ったという気持ちがあったのではないか。

 河上の全人格的な学問への打ち込み。岡本青年はそれをまのあたりにし、また、自らもそうあらねばならぬと、熱い思いを心に決める。しかしその時、岡本が経済学部を卒業し、大学院へと進んだ昭和三年である。河上肇は学連事件や労農党との関係で京大を去る。そのことは、岡本の学問への情熱にある強烈な色合いをおとす。それは岡本にとっての、マルキシズム受容の第一歩でもあった。

 「私が水産経済学の研究を志したのは、水産経済学は外国人の借り物ではやれない。日本人が日本の資料に基づいて、日本人の文化として創り出さなければならない、ということを知ったからだ。」

 この岡本の言葉は、そのまま京大の恩師・山本美越乃、兄事した蜷川虎三の考えである。当時、水産経済学は世界的にも学問として定立していなかった。これをひとつの学問として作りあげる。この情熱には、ただ、世界に負けない日本独自のものをつくりあげようというナショナリズムだけではない人類への貢献という普遍的なヒューマニズムがある。

 これを今日、大正期特有の知識人の心性とするのはたやすい。しかし、そうしたヒューマニズムから変革へのヴィジョン(マルキシズム)へと変転とした河上肇の人生とその存在を置いたとき、岡本にとって、漁業経済学をやることは、そのままマルクス経済学として、日本の中に・日本人の中にその学問を定立させ、社会を変革しその学問を生かすこととしてみえた。

 岡本が大学院に入り、漁業経済学に着手しはじめた時、河上肇は京大を辞職し、政治活動を―共産党員としての地下活動を開始するのである。岡本は、既に述べたように山本美越乃に学問的に師事したこともあり、直接に河上ゼミの一員ではなかったが、河上とその周辺の人間とあきらかに行動を共にしたようである。岡本の生家が特高に調べられたというのはこの頃のことであろうか。

 このことは、同じマルキストではあったが河上のヒュマニスティックなマルキシズムに批判的だった蜷川虎三と、微妙な人生の色合いの違いを生み出す。この共に漁業経済学の定立に向け、その学問的情熱を分かち合った二人の人生の分岐。

 漁業経済学からしだいに統計学へと移り、戦後は京都府知事として「天皇」と呼ばれた蜷川虎三と、日大経済学部の教授として地味に漁業経済学をやり続け、学者としての人生を送ったかに見える岡本。しかし、我々はそこに、隠された戦後史を見るべきである。

 では、岡本清造は漁業経済学を通して何を見ようとしたのであろうか。

 蜷川・岡本はその学問を着手するにあたって、それまでに発表されていた漁業統計や資料が精度・内容において十分に学問的な検討に堪えられないことを認めた。新たに実地踏査・フィールドワークをはじめる。そして、その調査方法・その仕方から組み立て直す必要にせまられた。

 常に現場へとおもむくことと、マルクスの原理論をこの社会に発顕させること。現実と理論の往還。蜷川・岡本にとっては、漁業経済学のこの世界での定立は、その意味でひとつの学問の領域を開拓することだけでなく、その理論に基づき、現実変革のヴィジョンを実践することでもある。フィールドワークをすることは、漁業の現場にふれることであり、漁業の現場を変えていく手がかりを発見する作業でもある。

 ここで、簡単に明治以降の漁場のありようについて、岡本にしたがいながらスケッチしよう。ひとつは古代から綿々と続き江戸時代に入って発達を遂げた沿岸漁業である。そこには、漁業の集団的な作業の性格から生まれた共同体に内在する入会権的な漁業組織がある。これはその土地の村落構造がそのまま漁業組織に反映する。そうした組織を通して封建的な経済外強制が漁民に働くことは論をまたない。しかも同じ海域を、魚の種類、その収獲方法によって、それぞれに漁業権が認められるまで、細密に漁場が分割された。そこまで、江戸時代の水産物をめぐる経済は発達する。明治の漁業法は、こうした複雑に発達を遂げた漁業社会をそのまま認め、その秩序を基本的に守ろうとしたところに特徴がある。

 それに対し、沖合・遠洋漁業は近代に入り、新たな機械力を導入することで、そうした漁業権の発していない自由な公海で操業した。そこに、従来の村落構造を離れた資本主義的な人間関係・賃労働が導入される。

 しかし、岡本はこの沿岸漁業と沖合・遠洋漁業との二重構造を解くにあたって、封建的漁業と近代的漁業といった簡単な図式を当てはめない。その二つの質の違った漁業のあり方が、ひとつの社会経済構造の中で、同じ水産物として結び合い互いに影響し補い合うことで労働を強化し、その秩序を維持しようとする。その複雑でジグザグした展開を、岡本は精妙に分析する。ここではそれ以上詳しく述べることは出来ないが、そこに岡本の冷徹な学者の眼をみることができよう。

 蜷川・岡本は、こうした漁業の二重構造を打開するために、漁業権を管理するためにつくられた漁業会の協同組合化を画策した。これは、漁業会が資金の貸付けなどを行ない、産業組合化してきたことに着目したのだ。この組合化をより促進することで漁業会の内部を変革し、そのことで漁業組織そのものを変えていく。

 しかし、十五年という戦争の中で、蜷川は漁業学から離れ政治へと向かう。岡本は京大を追われ、不遇をかこつ。

 そこに転機がやってくる。敗戦である。日本は負けたのである。

 GHQは占領後、さまざまな改革を行ったことは知られている。漁業制度改革もそのひとつとして、出発する。しかし、漁業改革は他の改革と違い、漁業の社会構造そのものが研究されていなかったために、いかに改革するかをめぐって調査と研究が同時に進行することになる。

 昭和二十二年六月に、農林省統計調査局長に東大の農政学者・近藤康男が就任し、研究グループが結成された。その後、調査・研究について近藤が政府との窓口となり、実際のフィールドワーク及び、その計画と研究については岡本が行う形が作られる。岡本はこの調査・研究を進めるなかで、漁業制度改革に深く関わる。

 この研究グループの成果は昭和二十七年『日本漁業の経済構造』(近藤康男編・東大出版会)としてまとめられ、その年の毎日文化賞を得た。この本は今日においても、こうした形でまとめられたものとして、十分通用する画期的なものである。書かれた文章の底には、マルクスの文章がもつような一種独特のアジテーションのはりが隠されており、刺激的で人を興奮させるものがある。ここでは、これをもとにしながら、具体的な制度改革のなかで岡本はどう考えていたかをたどる。

 既に述べたように岡本は戦前において、漁業会の産業組合化に着目し、それをより協同組合へと進めることを提唱した。この背景には、河上の社会主義革命の本義を政治革命にではなく経済革命とする見方が隠されている。経済の変革を通して、政治革命をもくろむと裏を返してもよい。こうした岡本の社会主義者としての相貌は、現実の中で微妙な姿を見せることになる。

 戦後の漁業改革は、ひとつには沖合・遠洋漁業における少数企業の独占化の解体である。ひとつは沿岸漁業における漁業権の解体である。ひとつは歩合制の再検討である。

 漁業権問題に対しては、まず旧漁業権を一旦白紙化し、新たに免許し直す。その為に旧漁業会のもっていた漁業権の補償金を出す。そして、その補償金を受け取る相手として漁業会を解散し、新たにつくられた協同組合へと導入する。この一種離れ業的な展開。そこに補償金の支払いがさまざまな政治的な理由から、きわめて早期(昭和二十六、七年)に行われることとなり、協同組合に対する資金的な裏付けが行われる。漁業協同組合は一気に現実的な姿をとることになった。

 そして、そこに岡本はさらに漁場の豊度や位置によって生じる特別な利潤(差額地代)に理論的に着目することで、これを現実的な問題として沖合・遠洋漁業の許可料、沿岸漁業の免許料として徴収し、一種のファンドとする。これを基にし新しい漁業を協同組合と連結することで模索・展開しようとした。そこに社会主義革命の現実化というプログラムをみることはたやすい。しかし、この試みは新たな漁業を切り開くことになるはずの当の漁民(全漁連)の猛反対にあってついに撤廃される。

 歩合制についてはどうだろう。歩合制はとれたものから経費をひいて、経営者と労働者が一定の比率で分ける。しかし、この形式は沿岸漁業の人間関係の中で労働者に共同経営者的な責任を押しつけ、さまざまな労働的な負担をおわせる結果になっていた。一方で沖合・遠洋漁業の発達は、近代的な労働の組織化をうながし、漁民の賃労働化を促進しつつあった。議論は漁業の近代化という名のもとに、歩合制から給料制への移行を実現化しつつあった。

 岡本はそれに対し、沿岸漁業にあって歩合制が発達したことには、本質的な理由があり、歩合制という形式に問題があるのではなく、その形式を援用する漁業社会のあり方や仕様に問題があると考えた。

 漁業制度改革という流れの中に、こうした岡本の仕事の軌跡を置く。それを通り一遍にみれば、漁業社会における封建的な人間関係を解体し、資本主義化する。漁業をその社会にふさわしい形にすることに力尽くしたとも見える。また、そのなかで、右往左往する良心的な近代主義者にもみえる。

 しかし、一種独特な含み。現実をよく洞察し、常に社会を変革する契機を見いだそうとするリアリストとしてとらえれば、片方で社会主義をもくろみ、片方で封建的な制度といわれたものを見直すことで変革の根拠を見いだそうとする柔軟で複雑な幅をもった人間として現れよう。

 漁業制度改革の渦中、免許・許可料が撤廃されることになったとき、岡本は己の信念を固持しながらも、「日本社会の中で、漁業だけが特別というわけにはいくまい。」と語ったことは、その点でたいへん興味深い。

 さて、漁業経済学を専門とする岡本清造が、南方熊楠に関わるようになるのは、熊楠の娘・文枝と結婚したからである。そのことに間違いはないが、岡本がただ、漁業経済学(マルクス学)と南方学の二足の草鞋をはいたとだけとはいえない事情もある。岡本にとって、そのふたつの学問はきわめて接近したところに存在しているように思われたからである。

 そのように事態をひきよせたのは、渋澤敬三である。ところで、岡本清造はいつ、渋澤敬三に出会ったか。

 渋澤敬三は戦前からアチックミューゼアムを組織し、漁業史や漁業民俗学の分野を独自に繰り広げていた。多分、渋澤と岡本は早い時期に会っていたのではないかと推測される(南方文枝の話しによれば、京都大学時代より面識があったようである)。しかし、そこではまだ南方学への道は遠い。その渋澤と岡本を漁業学から南方学へと引き連れていった人間がいる。

 岡田桑三である。この生粋のマルキストであり、戦前は映画俳優として山内光を名のり、戦後は科学映画のプロデューサーとして岡田桑三と名のった男。岡田は十九歳の時、ドイツに留学する船中で横浜正金銀行ロンドン支店に赴任するために同船に乗っていた渋澤に出会う。それ以降も二人は互いに影響を受けあいながら、陰に陽にさまざまな学問的な・文化的なプランニングを実行していく。岡田は満州から引き揚げてただちに、ミナカタ・ソサエティの設立に向け行動を開始したことは第一章の解説の通りである。

 ここで、岡本にとっての渋澤敬三とアチックミューゼアムとの表と裏の関係を確認しておきたい。渋澤は戦後幣原内閣の大蔵大臣を務めている。そのおりGHQの制度改革のための調査に積極的な姿勢を大蔵省内に打ち出す。これが引きがねとなって、漁業制度改革のための調査が実行へと移される。その受け皿がアチックミューゼアムと昭和二十二年二月に創設された水産研究会である。アチックと研究会は緊密な関係にあり、研究会のマルキシズムの流れとアチックの流れが合流し、ひとつの共同作業を形成する。これが、岡本にとっての表である。

 そこに岡田桑三という一人のプランナーが同じものをミナカタ研究の組織として編み変える。第一章の解説でふれられているようにミナカタ・ソサエティの実務を担った三人、岡本、岡田、そして高木一夫はアチックミューゼアムの同人である。

 ミナカタ・ソサエティの事業のバックアップをアチックが行う。岡本にとって、専門の漁業経済学を語り・論争しあう人間と、南方熊楠について作業を進め・話す人間が同じであったことは注意されてよい。岡本にとっての南方学の形成に、このことの影響は大きい。

 どうやら、ここでようやく収録されている岡本の文章について触れるところにきたようである。

 岡本の南方学をめぐる文章は、その掲載された媒体が地元の新聞ということもあって、専門的な研究というより啓蒙的な側面を大きく持っている。また、そこで述べられている内容もかならずしも南方熊楠について言及されているわけではない。そうしたことを含めて、なにか岡本の文章に込められている分かりにくさ、不透明さがつきまとっている。

 わたしはその原因は、岡本と熊楠との、研究者としての資質の違い、時代的な差違として受け取っている。

 南方熊楠は、近代的な学問の誕生期にその研究者としての端緒をつかんでおり、学問の領域そのものも、自ら裁定する作業を受け持った。そして、その学問的資料の採集たるフィールドワークの膨大な積み重ねの上に、自然の生命の論理を見ようとした。岡本が言うように、南方学の神髄を菌類図譜におく考えはその点で首肯され得べきものである。

 それに対し、岡本は確かに水産経済学は学問としては定立されていなかったが、それを包摂する経済学は近代的な学問として確立されていた。岡本はマルクスの『資本論』に展開される、原理論的な流れに身を置くことで現実社会を洞察しようとした。岡本は自ら堅持する原理論的な試みを、南方学にも適用しようとする。

 ここで岡本の漁業経済学における理法をスケッチする。

i. 漁業経済学の原理論たる「漁場地代論」。

ii. その漁場を支える魚と人間との関係。バイオロジーと産業との接点たる「資源論」。

iii. その漁場での人間関係である「漁業経営論」。

iv. 収穫された水産物が現実的な価値を顕現する「流通経済論」。

 こうした岡本の論理だったシステマティックな調査・研究方法はそのまま、南方学へと架橋される。

i. まず、熊楠自身が書き残した自らの思考の跡たる著述類の整理・修正・翻字・出版である。

ii. 次に、熊楠が残した著述類と、熊楠の蔵書や標本等との関係を探る。ここでは、その蔵書の書き込みを問題にした「南方熊楠と『デカメロン』」。残された標本をめぐる「長者介と黄金シダ」が注意をひく。

iii. 岡本は残された資料中、菌類図譜を最も重視した。そこにフィールドワーカーとしての南方熊楠の本領を見たからである。

 そうした時この図譜で問題になるのは、その量であり、またひとつひとつの詳細な菌類の記述である。岡本は必要以上な熊楠の菌類記述の執着のよってきたるところを解くために、自らも菌類の世界を踏査し、さまざまな文献を猟歩する。そして、自らその世界に迷ったといっていい。岡本はその体験を、きのこと人間との接触によって生まれたさまざまな幻想や妄想を通してあかそうとした。その意味で「きのこ文学談義」は、熊楠とは離れながらも、熊楠がその生涯の仕事とした植物学・バイオロジーと人間との結節点を問題にしようとしたものといえる。

iv. そして、更に熊楠が書き残した資料(フィルドワーク)から、熊楠が生きた時代を再現しようと試みた。これは日記の翻字作業を基本にし、その聞き書きの注釈を行う。第四章、随想にまとめられた文章はそうした試みである。そして、その世界像の再現化に、社会経済学者としての眼を加える。例えば、「ひとつたたら」をめぐる説話の裏側に鍛冶の神との関連を置く。こうしたモチーフに「たたら遺跡」の存在という考古学的な知見を加えれば、熊楠のおこなったフィールドワークの世界に社会経済構造的な立体感を付与できる。多分、岡本はこうした細々としたフィールドノートの事実をひろいあげ構成していく作業を通して、ひそかに、自らの少年時代をも再現しようとしていたと思われる。

 岡本は熊楠のもつフィールドワークの質に着目し、その蓄積されたノートのなかにある理路を導き出そうとした。こうした試みは、凡てにおいて十分に成功したといえるわけではない。どちらかといえば、南方学のひとつの方法・あり方を提示しただけで、遂に途絶してしまったともいえる。ここで、南方熊楠のもつ学のあり方を思えば、岡本のこうした方法論的なアプローチが果たしてどこまで有効なのかも、また問われてもよい。だが、しかし、そうした差異を含みながら、これもまた、南方学なのだと言ってよいのではないか。そこに一人の研究者が己の凡ての力をだして、南方熊楠という存在にぶつかっている姿があるはずである。

 わたしは、岡本清造という人間が、夜一人、熊楠の日記を翻字する姿を思うときがある。年老い、さまざまな社会的な苦闘を学問的に成し遂げた一人の研究者が、いつ報われるともしれぬ作業を、いや、そうした世俗的な利益や考えを脱ぎすて、ただコツコツと原稿に向かっている。そして、ふっと、わきあがるような喜びを押さえきることができないかのように、かすかに微笑む。わたしはその微笑みに、かつて大学内の人事抗争にいやおうなくまきこまれ、「自分は天に向かって学問するんだ。」と叫んだ響きを聞く。

 しかしそれはかつて、御進講を終えたあともいつもと変わらず、ただ菌類の図譜を仕上げ続けた南方熊楠の響きでもあるのではないか。

 南方文枝によれば、岡本清造の最後の言葉は次のようである。

 「夕食が出来たら知らしておくれ、私は、今少し亡父の日記を写筆するから。」

 なお、資料調査にあたって、南方文枝、樫山茂樹、黒澤一清、金指基、萩原博光、南方熊楠邸保存顕彰会、南方熊楠記念館、渋澤栄一記念館にご協力いただいた。記して感謝したい。(文中敬称は略させていただいた。)

[前へ]  [『岳父・南方熊楠』のページへ]


岡本清造・南方文枝のページへ

南方熊楠資料研究会のホームへ