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第20回1999年夏期南方熊楠邸調査の報告

《ミナカタ通信16号 (1999.3.6発行) 掲載》

 7月27日(火)〜31日(土)に行いました。

 28日に行われた研究会会合については別途報告を掲出しています。

調査状況

 7月30日(1)ならびに31日(2)の午後、調査の報告会を南方邸の座敷にて南方文枝さんを囲んで行った。

(安田忠典記録・編集)  

南方邸調査報告 1

千本  今回も、和装本の調査を行い、それを国文学資料館のほうでマイクロ化させていただくということでございます。061から071くらいまでが和装本ですが、今回は066と067の棚を調査させていただきました。非常にきれいなカラーの刷りもの、これは、大正前後になってから、もう一度プリントしたものですが、非常にきれいなものを買っておられて、将来的に公開される際にも、きっと目を引くだろうな、と思われるものがございました。

    資料館のほうは、従来、江戸期末までのものを収集してきたのですが、江戸期も含めて、今後はターゲットにさせていただきたいということで、一日目にはそのことで、当方のキャンベル助教授が参りまして、ご挨拶させていただきました。

    マイクロ撮影のほうは順調に進んでおりまして、今回は061から063までの棚を約7000コマ撮らせていただくということになっております。

小峯  今年の春は北京に行っておりまして、調査に来ることができなかったものですから、その間に千本さんに主導権が移ってしまいましたので、彼の指示どおり働きました。(笑)

    それ以外のことで付け加えるとすれば、去年あたりまでやっていたノート類の調査漏れがいくつかあったということで、再調査しました。気になったのは、過去にやったものもあったし、それから、やったかどうか記憶のないものもありましたので、念のため(記録を)録りましたけれども、調査したカードがあるものと、それをもとにフィルム化したものを目録にチェックしておいた方がいいなと思いました。そうしないと、ダブって調査したり、フィルム化してしまうおそれがあります。

千本  逆に、全部の資料の中で、どれくらいがマイクロフィルムになっているかの、指標にもなりますからね。

小峯  あと、8月末に発表(南方ゼミナール)があるものですから、後半は『郷土研究』を集中的に見せていただきまして、書き込みとかもたくさんありまして、非常に興味深かったのですが、全集向けのことを考えるなら、『郷土研究』は、ご承知のように質問を出してそれに答える形式ですが、前に発表したものを追求する型とか、他の人が書いたものに意見を書くとかですね、すごくこう入り乱れるわけですね。ですから、長短書くものが混じっているので、短いものだと、たぶん『全集』(平凡社版)なんかだと落とされていると思うのですけれども、あれを丹念に拾ってゆくと、その時点でどういう問題を考えていたのか、ということが非常によくわかりますよね。そういう対話のかたちを生かせる方法を、再録するときには考えた方がいいんじゃないかと思います。とくに、巻末に誌上問答というのがあって、例えば熊楠先生が、海のウニですね、長久で食べましたけれども(笑)、ウニのことについての俗説を知らないかという、たった一〜二行の呼びかけをしてるんですね。そうするとそのときに、ウニに興味を持っていたんだなあと、これがどういう論考につながっていくのか、いかないのか、われわれもひとつ、そういう問題を考えることができますので、ああいうのを丹念に拾っていくと面白いんじゃないかなあ、と思いました。以上です。

横山  今回、3月に引き続きまして、離れの方にある明治以降の和書、日本語の本を調査しました。まず、手沢ですね、書き込みの方の確認に非常に手間取っております。やっぱり叢書類なんかで800頁とか1000頁になってくると、前のカードでは書き込みなしとなっていても、よく見るとあるものが多いし、なしとなっているにもかかわらず、本文よりも明かに多いほどの書き込みがある場合さえあります。先日も申しましたとおり、マージナリア(欄外書き込み)の問題は、今後も考えていかなくてはならないかなと思っております。以上です。

松居  箱に入った生資料を、若い順からやっているということで、26と32に英文関係の未調査の分が随分ありましたので、それをやりました。書簡よりは、どちらかというと、論文の下書きのようなものが結構ありまして、英文の下書き、だいぶ雑多なものを、ひとつひとつわけて、論文を特定して、チェックしたわけですけれども、結構、『ネイチャー』と『N&Q』に載ったもので、その下書きをおいてあるものがあって、ようするに、反古というか、メモというか、完成稿でないものがあると、やっぱり英文を書くときには、かなり推敲して、書いて、もう一度書き直してと、そういうことが多いんだなあ、ということがよくわかりました。

    それからその後は、前回から引き続いて、英文の来簡を見ましたけれども、スウィングルの前回できなかった一束、未調査の分を見たら、結構面白くて、スウィングルは、かなり本気で、熊楠をアメリカに呼ぼうとしていたということがよくわかりました。助手を一人つけて、予算もかなりきちんと獲って、給料もこのくらいでということで考えていて、そのやらせようとしていたことが非常に面白くて、トウモロコシの文献を、中国文献の中で調べるということなんですが、それをなんのためにやっているかというと、新大陸の新しく発見されたトウモロコシというのは、じつは、中国に古くからあるといういうことを証明することによって、中国から新大陸への人類文明の流れというものもわかるんじゃないかと、熊楠だったら、そういう栽培植物から人類文明というのがどういうふうに流れていったのかということの、見取り図をつくることができるという風なことをスウィングルは見込んで、熊楠を2年間アメリカに雇おうとしていたという、非常に面白い計画を持っていたということがよくわかりました。以上です。

飯倉  中国の本では、中国起源のトウモロコシがあるって書いてある。

松居  『ネイチャー』に熊楠が、トウモロコシの論文を書いたので、それを目ざとくスウィングルが見つけて、ほかの『ネイチャー』や『N&Q』なんかを見て、これだったら栽培植物から人類文明の流れまで、できるんじゃないかと考えたようです。

原田  少しざっくばらんに、何かあれば言ってもらって。

    千本先生、『和漢三才図会』の、書き込みの、随分長いやつ、4枚くらいの…。

千本  余白の、というか白紙頁に、みっちり4枚分、書いてあるのがありました。まだ読んでおりませんけれども。

飯倉  あの、活字本のやつですか?

千本  はい。

飯倉  アメリカとイギリスで、持って歩いてたやつですね。

原田  そう、アンナーバー時代って書いてありましたよ。三巻本の、こんな大きいやつの、最初の巻かな。

千本  そうですね。それから、今回やってた本草関係の棚で、明治18年とか、そのあたり、東京時代かな、引用してくる文献が、非常にオーソドックスな、といいますかね、われわれもよく引くようなもの、『名月記』を引いていたり、『和名抄』を引いていたりですね。そこで書き込みが、比較的きれいな字で、整った字で書かれているというのが、非常に面白く思いました。あの時代、随分、本草関係の本は無理して集めているようですね。

小峯  『名月記』は、もう活字版があったの?

千本  あのー、三巻本の、名著普及会?刊行会?あそこのが出てるんじゃないかな。ぎりぎりですかね、明治18年だったらね。

飯倉  記念館にあるアメリカ時代のノートかな、東京時代が含まれていたのか。例の、あちこちの地方の本草の話書いてある本借りてきたりしたじゃない、記念館の本と照合するためにね、あれはかなりいろんな本から書き抜いてあるから、そのへんと、いまの千本さんのは呼応するわけですよね。あの、ノートの抜き書きも随分あるんですよ、日本の本草関係の。確か記念館にあるもの、あれを整理するときに出てきた。

原田  南方叢書ですね。

千本  えーっと、それから、『本草図譜』は、大正10年くらいのプリントを使ってますね。これは非常にきれいな九十五冊本です。すごく豪華なプリント本ですね。それから『本草図譜』と並べられるのが、『草木図説』。こちらの方は明治7年版を買っておられるようですね。

川島  『草木図説』は新しいですね。

千本  新しいですか?

川島  もう、幕末とかですから。

千本  どちらも、例えばラテン語の学名が入っていたり、版本にそれを加えて印刷してあるわけですよね。

川島  あのう、伊藤篤太郎は、もう知ってましたから、学名を。

千本  非常にそういう点では、面白いなあと、思いました。

吉川  『日本植物図説』というのは、あれは、もっと新しいものですか。

川島  『日本植物図説』?

吉川  その書名が(常楠宛書簡に)よく出てくるんです。買ってくれとか、送ってくれとか。

飯倉  その当時出たものですかね。

川島  そうでしょうね。

飯倉  新しく出たから、買ってくっれって。

川島  いつごろ…田辺時代ですか?

飯倉  いやいや、アメリカ時代でしょう。

吉川  ええ、アメリカ時代かもしれないですね。

川島  まあ新しいもので、たぶんその当時出てたものでしょうね。

飯倉  アメリカ時代は、植物採集を随分やっていて、日記を見ると、あれ採った、何採ったって、よく書き付けてあるね。

吉川  あと、弟さんに、随分、自分のところに置いてある本、そうでない本の抜き書きをよく要求していますね。あれ、たまりませんなあ。(笑)

飯倉  千本さんにもちょっと見せたけれど、あれ、内容見ないとなんだか分かんないけど、江戸時代の小説かなんか、何か必要があったんだろうか。

千本  あれは、飯倉先生4枚くらいでしたかね、4,5枚、ぎっちりと、こう、抜き書きをして、送っておられて、あんなもん送れといわれても、たまらんなあ。(笑)今みたいにコピーがあるわけじゃなし、全部やっぱり書かれて、送ってられますねえ。

南方邸調査報告 2

原田  では、報告の続きをいたします。飯倉先生からお願いします。

飯倉  ずいぶん先生、先生って、俺、…さんでいいのになあ。(笑)

    いやあ、あのう飯倉ですけれども、私は、原田さんが、この間まとめて入力したら、あちこち抜けているところがあるというのを、とくに、松居さんが、英文の書簡との組み合わせで、英文のものだけしかやってないのとかですね、そういうのがいくつかあったので、今度は、とびとびに、そういう穴埋めをやったんで、とくにまとまってご報告するようなことはないんですけれども、例によって、とくに来簡が多いのと、それから、現物ではなくて、たまたま、例えば樫山嘉一さんの、おそらく乾元社の原稿にするために、清書したものがあって、実物は樫山さんのところにあるのかもしれないけれども、かなり細かいものまで全部まとめてあって、そうすると、だんだんそういう類のを見てると、まあその資料としての目録は一方であるけれども、書簡なんかは、早い時点で既に刊行されている、ここに現物が無くとも、そういう書簡の日付順の配列なんかがね、わりに、やると、結構使えるところが出てくるんじゃないかなあという気がして、見てましたけれどもねえ。細かいものでも。今のところ、いつのものだかわからないという書簡もあるのを、結構並べてみると、ああ、ここにあるのおかしいとか、こっち行くんだとかいうことが、わかるようになってくるのかなあと思って眺めてましたけれども。まあ、もうちょっと先のことですけれども、そんな感想を持ちました。

原田  では、武内先生。

武内  はい、今回は箱でいうと、43と52と53の途中までやったんですが、今回多かったのが、絵の関係ですね、多かったですね。

    それから、ノート類もいくつかあったんですけれども。ひとつ、アケビ図というアケビの絵があって、そこに K.MINAKATA というふうにサインしていたのですが、横に墨で、他の人に描かせた、とあったんですよね、だから、これからちょっと、サインがあっても、きっちりチェックをしないと、という問題がはいってくるなあというのと、それからもう一つ、楠次郎の、ノートと一緒になって、無署名の、ノートがあったんですね、で、これも中学時代のものなんで、かなり筆跡鑑定が難しかったですね。筆跡鑑定と絵の鑑定と。ひとつの「算術簿」と書いている方は、95%南方でいけるだろうと、例の“てんぎゃん”という絵の入っている方ですね。ひとつの根拠は、家族名をざーっと書いているんですけれども、自分の名前は書いていないんですね。それはそっちでいけるだろうと。もうひとつ、「算術ノート」というふうに命名したやつが、これが楠次郎のノート類と一緒に入ってたやつで、絵もほとんど無いし、難しかったですねえ。決め手になったのは、数式のBの字とYの字の書き方が、「算術簿」の書き方とまるっきり一緒だったんですね。ですから、逆にいうと「算術簿」の方がこけると、そっちもこけるんですけれども。まあ、中身からして、そっちの方も、85%南方でいけるだろうと、いうふうにふみました。

    典型的な、後半生のね、独特の字は誰が見てもすぐ南方とわかるんですけれども、とくに若書きの方ですね、まあアメリカ時代のは、わりとぼくはよく見てるんで、あのへんはすぐに分かるんですけれども、とくに中学時代というのは筆跡も変わっていきますんでね。ですから、南方と書いた方の現物を見ながら、再度確認しないと、さっきのK.MINAKATAと書いてて、ほかの人間が書いたものだという例もありますので、慎重にやらないと、ということですね。

    あと、53も途中までやったんですけれども、ちょうどそれをやっている途中に、この春にやった土宜宛書簡が、乾元社版のときか、平凡社版のときか分からないんですが、全部藁半紙の台紙へ貼っていたんですね、これが前のときに問題になって、早くはがさないと酸化が進むということで、今回作業中に、地元の竹泉堂さんにやってもらって、はがす作業が終わりました。それの確認ですね、無くなっていないかということと、きれいにはがれているかということで、まあ、きれいにはがれて、ものもきっちりありました。前はその台紙に貼った順番になっていたんですけれども、日付は順番になってなかったので、一応日付順にして、資料番号をその順番でしました。それで、途中までやっていた53の箱の方は、金山さんにやっていただいたということです。以上。

原田  じゃあ、金山さんの方に、さきに…。

金山  はい、私の方は、打ち出した目録の採寸、寸法がもれている分の再チェックが、箱の1から5と、箱の10までを採りました。それと、あと武内さんが言っておられた、書画の関係、軸物、短冊の入っている53の箱の後半を引き継いでやりました。

    細かい点なんですけれども、目録で、武内さんとも話していて、あとから機械的に作業したらいいと、なってたんですけれども、数量と、長寸?、頁数、枚数の記載が、すごく個人差があるんですね、採り方が。たとえば、書簡で、封筒のなかに、手紙が便せんに書かれているものが、便せんが3枚あるものでしたら、数量のところに3枚と書いていると、一通3枚というのが分かるんですけれども、ただ3と書いていると、それが3通なのかが、分からない。ちょっとそのへんが、ざーっと見ていても、混乱しているものがあるのと、原稿用紙とかですと、一括、一綴じにされていて、そのなかに15枚原稿が入っていると、数量のところに15と書いてるんですけれど、目録を刊行する際に機械的に作業していったらいいと思うんですけれども、資料の点数としては1ですよね、それで中身が15枚と、そのへんの仕分けを、印刷目録にする際に、少し、作業をして、確認していかないと、形態と数量表記の凡例が、ちょっと作りにくいなという、それが、細かい点なんですけれども、気になりました。そんなとこです。

原田  ちょっと、それは、もう一回確認した方がいいかな。じゃあ、安田のほうは、いいかな。

安田  新聞切り抜き資料に関してですが、前任者の山岸さんから引き継いだということもあって、いまあるデータベースのなかに、現物がどこにあるか分からないものが、わりとありまして、前回の調査から、ちょっとずつ時間を見て、現物の存在が確認できないものを、あちこち首を突っ込んで探しているんですが、データベースには載っているんだけれども、あるいはコピーまで録ってあるんだけれども、実物が見つからないというものが若干ありまして、いろいろな箱のなかから、また新聞切り抜きが出てきた場合は、お知らせいただきたいと、よろしくお願いします。

    それで、ファイリングした分の切り抜きに関しては、データベースがそういう感じでめどが立ってきたんですが、まだまだ、単なる新聞の束とか、未整理の木箱がまるまる一箱あるとか、虫食いでさわってない分の切り抜きが、それこそ膨大な量残っているとかで、このさきどうやって整理していくかというのは、現在勘案中なんですが…。

    今回は、生資料の箱の方に入っていた新聞の束、5箱ほどありましたんで、それを空けてみました。なかからは、Illustrated-London-Newsという、南方先生が生まれるより以前の、古いやつを、古本屋さんで買ってきたような、一年分まるまるの分の、総集編みたいなのが、見つかったのと、あとは、生資料の箱に入ってましたが、南方先生没後の新聞がたくさん出てきて、これに関しては、とくにさわられた様子もないので、別に分けることにしました。分け方はどういうふうにするかは、まだ決めていないので、そのまま生資料の箱に入っています。箱番号等は、またデータベースを整理すると出てくると思うんですが、ただ、そのなかに、生前の新聞がいくつかはいってまして、それは出して、別の箱にひとまとめに入れました。それは大体切り抜いた後の、はさみで切り抜いたところが空になっているようなものが多いんですが、あと標本を包んでいたものですとか、さして重要な内容のものはあまりないと思うんですが、20点ほど出てきたくらいです。以上です。

川島  ええ、今回は、これまでにない猛暑との戦いで(笑)、ほとんどあそこにいる間、汗が引く間もないような感じで、途中から蚊にもやられまして、たいへんでしたけれども。

    いままで、もう終わります、もう終わりますというふうに言ってて、なかなか最後まで到達できなかったんですが、洋書は、ようやくカードを全て完成することができました。

    前回でほとんど終わっていたんですけれども、残っていたのが、大英百科事典といいますか、エンサイクロペディア・ブリタニカの11版、それから13版、それからケンブリッジ・ナチュラル・ヒストリーという10巻本のシリーズ、この三つのシリーズ、やっぱり、少し、えー、なんといいますか、単調な作業は後回しにしようと思ったんだと思いますけれども、もう何年も前のことなので、なんでそこが跳んでたのか、ちょっと記憶にないんですけれども、カードと照らし合わせて残っていたものをですね、カードを全て作ることができました。

    それで、その時に少し気がついたんですが、いまサンプルをお配りしますけれども、あのう、エンサイクロペディア・ブリタニカは、11版と13版という2セットがあって、もうひとつ9版というのも買っているはずなんですけれども、9版は現在ありません。9版のインデックスといいますか、そのインデックスだけの巻はありますけれども、セットとしては11版と13版しかありません。熊楠の著作のなかによく出てくる大英百科というのは、だいたい11版のことです。9版のこともありますが、だいたい11版のことです。11版というのは、非常によく売れて、有名な版なんですけれども、ところが、そこの蔵書にある11版には、ほとんど書き込みがありません。一応しているとは思うんですけれども、ほとんど書き込みがありません。

    ところが、いま、お回ししたのは13版の方なんですけれども、13版は、1929年に出ているんです。ということは昭和4年ですから、比較的晩年に近いですね。13版の方は、巻によって、かなり開きがあるんですけれども、巻によっては、かなりの書き込み、手沢があります。

    それがですね、どうもその、手沢の箇所、いちいち確かめたわけじゃあないんですが、頁をめくりながら、手沢の有無を確かめているときに気がついたんですが、まず人名に関して、人の名前の項目のところにですね、書き込みがあることが多いんです。なおかつ、その人の名前というのが、非常に、なんといいますかねえ、マイナーといいますか、無名といいますか、まあ大英百科事典だからようやく拾い上げているというような類の、比較的無名の人物が多い。

    たとえば、そこにお配りしたなかでは、OLIVER HEAVISIDE という、これはイギリスの電気学、電磁気学の研究者なんですが、ただ、大学等の研究機関で研究した人ではなくて、いったん電気関係の会社に就職したんですが、耳が悪くなって、退職して、その後、田舎に引きこもって自分で一人で勉強していたというんですね。そういうタイプの研究者、その人が、二巻本の書物を著して、それが世間で高く評価されたということですね。そういう記事なんです。そこに、「我流ノ論文世間ニ認メラレレバ…」、あとちょっと薄くなってますが、あるいは、HEAVISIDE という人の境遇に、自分の何らかを重ね合わせて、感慨があったのかもしれませんけれども、べつに全てがそういうことで、何かチェックしているわけではなさそうです。

    で、このあいだ、横山君が最後にお話しされたときにも触れていましたけれども、これとは別のところで、WILLIAM CORVETTEという人物、この人は、ここに挙げた人物よりは、かなりよく知られた人物ですけれども、百科事典で3頁くらいにわたって記述があるんですが、そのなかでですね、書き抜いている箇所というのが、「この人、五嬢あり、皆不婚」と、そいうところを、なぜか興味を持って書き抜いていると。

    それから、この、同じコピーのなかに、ちょっとよくわからないんですが、多分この、HEBE、ギリシャ語の、“young maturity”“bloom of youth”、まあ、若さの盛りといいますか、そういう意味で、ゼウスとヘラの娘だという、ギリシャ神話の登場人物ですが、これについてだと思うんですが、ちょっとよく読めないので、まあ何か書き込みがあります。

    それから、さらに、その同じ欄の下の方に、RICHARD HEBERというところに、×印がついていて、これは、イギリスの書物コレクターであると。

    こういうふうに見ていくと、たとえば、名もない教会関係者であるとか、それから、王室の王妃であるとか、ドイツの出版者であるとか…、そういった類の、百科事典というのは、もちろん知らないことについて引くというのが原則かもしれないですが、それにしても、こういう人たちについて調べる必要が次々と生じてくるということは、非常に考えにくいんですね。それはどういうことかというと、これ自体を、やっぱり読んでる。読んでいて、その時に関心のひかれる、その項目というのが、そういう類の人物の、しかも、なぜ、そのことに対して、熊楠が関心を持ったのかわからないような、すごく些細なエピソードといったものに対してですね、関心を持った形跡が、こういう書き込みで残されて…。

飯倉  例の、ゲスネルの伝記を読んだっていうのは、伝記ではなくて百科事典の項目だったていう。こういうのに書いてある伝記を読んで、ということと、いま聞いてて、ちょっと記憶が曖昧なんですけれど、11版というのは何年でしたっけ。

川島  11版は、1909年くらいじゃないかと思いますけれど。

飯倉  あのう、あ、そんな時期ですか。ともかく、たしか、アメリカからイギリスへ行く頃に百科事典はお金が無くてまとまって買えないんで、日記見てると、バラバラに買ってて、何巻と何巻買って…。

川島  それはもっと古い9版だと思います。

飯倉  9版の方ですか。で、たしか一回売り払うんじゃないですか、お金が惜しくて。

それは9版のほうですか。

川島  はい、たぶん。

原田  9版は、記念館にあるやつです。

川島  記念館にある?

原田  ええ、イギリス時代にもう一度買い直すんですね。

川島  まあ、なにか最後の10年間のですね、関心のあり方を示しているような印象を受けました。

飯倉  やっぱり「我流の論文を…」なんてのは、たとえばゲスネルに感激したなんてのと、同じようなレベルの、だから伝記として、どうも…。

川島  ええ、読んでるんじゃないかと思いますね。

原田  私の方は、和書の洋装本ですね、これを横山先生と一緒にやっています。それで、とりあえず、こちらの方の書庫の和書の洋綴じ本ですね。明治以降の本ですけれど、活字本は、だいたい終わりました。あとは岡本先生の書庫に、熊楠の蔵書が一部ありますけれど、それのチェックが終われば、和書洋綴じ本は終わることになります。もう少し時間はかかると思います。これはチェックなんで、ミスを直すということですので、淡々とした作業ではありますけれども。まあ、やっぱりどうしてもミスはつきまとうので、いくつか、細かいミスですけれどもありますので、それを直しているということになります。

飯倉  武内さん、あのう、ちょっと数えてみてないので判らないけれど、あの箱はどのくらい、もうでもそんなに…。

原田  半分は超えてますよね。

武内  半分は超えて…、いま、50番台へ入ってる、…あと30箱くらいです。

飯倉  あと一回か二回で粗方…。

武内  そら無理やろ。

原田  無理ですね。

武内  50番台にはいって、いくつかその途中で、この前の土宜のやつなんかみたいに、先にやってあるのもありますけれど。

原田  あと、蔵書が終わったあとは、ちょっと雑誌を、もう一回整理し直さないと、まあ、おおざっぱにやってありますけれど、もう一回チェックをかけないと危ないんですよねえ、あれもねえ。

飯倉  あと、ぼくが目録作っただけの、中国の関係の本は、結局目録作っただけに終わってるんで、それを今度は全体の目録にするために、チェックが必要かどうか、考えてみないといけない。

武内  あと、英文関係のやつも、パンフレットばかりのものとか、川島先生用に残してる分もありますので…。(笑)

原田  まあ、峠はもう越してますよねえ、量的には。

武内  それであのう、後半のやつは、かなり綿密にやってるから、今よりは速いペースに、穴埋めの作業だけになるでしょうから、速いペースになると思います。

飯倉  二人か三人でやるというのは、たしかに、二箱、三箱ってところだからねえ、一回に。

文枝  先生、その、後ろの新聞切り抜きですが…、それ。

武内  これですか。

文枝  盆石ですけどね。

武内  はあはあ。

文枝  サンケイで…。

武内  出たやつですか、はあはあ、あのー、スナックで写真見せてもらいました。(笑)

文枝  そうですか。

武内  野口利太郎さんのご子孫がお持ちになってる…。

文枝  はい。

安田  どういう意味なんですか、その名前…。

武内  これは古谷石…。

安田  あ、いえいえ、何語かに漢字を当てたものなんですか?中国語でもないんですか。

飯倉  中国の本の出典ですよ。そえてある文章もみんな中国の本の引用で、だけど、索いたのは中国の本じゃなくて、あるいは日本の本かもしれない。いろんな本からの引用が列挙してあったので、だけど、すごく不鮮明な写真なので。

原田  結構いろいろばたばたしましたけれど。

    ええと、中瀬先生は、八坂書房の日記の難読部分ていうか、穴の空いている部分を、調査していただいて、それは終了しました、ということでした。あと、ひきつづき岡本先生の翻字原稿の校正をやりますというお話でした。

    じゃあそういったところで、長い間ありがとございました。


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