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第21回2000年春期南方熊楠邸調査の報告

《ミナカタ通信17号 (2000.10.6発行) 掲載》

 2000年3月20日(月)〜24日(金)調査を行った。

調査状況

 3月23日南方熊楠邸において報告を行った。

参加者:飯倉照平、川島昭夫、小峯和明、武内善信、千本英史、
中瀬喜陽、原田健一、古谷雅道、松居竜五、安田忠典、横山茂雄

原田  それでは、まず千本先生と小峯先生からお願いします。

千本  えーと、二人で、和書のマイクロ撮影の下準備のカード採りをしています。まあそのカード採りが結果的に同じ形で目録にも反映していきますので、そういう形でやっています。全部で70番台までがだいたい和書で、裏へまわって71と76が今回見たところ一部和書がある、中国書の真ん中に和書が入っているようです。

    それの61番台から始めまして、今回は68番の台を終えました。多分2000年度で粗々そのカード採りが終わって、ということは裏側にまわれる。裏側は若干ですから、それを見た段階でマイクロはそんなに支障なく全部いけるということですね。それと、どういうかたちで目録になさるのかによっては、若干追加の作業が入るかもしれません。

小峯  目録を作るとした場合に、ちょっと気になった問題点が、ふつう点数の数えかたっていうのは、一冊一点というふうに冊数でやるんですよね。だから源氏物語五十四帖というのは一点なわけですよね。ところがここの和書の番号の付け方は冊数を全部小番号にしている。

    ですから、目録にする場合、それはちょっと直さないと、一般的な目録とちょっとずれてくる場合があるんじゃないかなというのが気になりました。それはまあ、目録の時に再検討すればいいことなんですけれども。

千本  小峯さんと話してたのは、その点に関しては、目録番号というのと、それと、邸の整理番号というのとを、二段階にすれば…。撮影もあの番号で入ってますので。

飯倉  あのう、記念館にはそんなにたくさんはないけれど、中国書で日本の翻刻のやつは、いちおう中国のところに、同じような扱いで、記念館の方もやていますけれども。

小峯  和刻本ですね?

飯倉  ええ、和刻本は、もし日本書と中国書を分けるなら、日本書のなかにそういう小分類みたいなものをつけるべきなんでしょうね。

小峯  あるいは漢籍のなかに入れておいて、明記すれば。むしろ、それのほうが多いと思いますが。

飯倉  それのほうが機能的というか、つまり中国関係の本でどういう本があるかっていうと、かなり和刻本があるんでね、南方さんの本のなかには。わたしもそれのほうがね、検索するときには本の題で出ちゃいますから。中国の本の題で。

小峯  それのほうがいいんじゃないかな。

飯倉  ああ、そうですか。すいません、なんか割り込んで。前から気になってて。

小峯  あとあのう、合間に、雑誌の『太陽』の「十二支考」のオリジナルを見ましたら、図版が、単行本で出てるのと比べたらいっぱい入ってるんですね。あれは、電子テキスト化するなり何なりして、オリジナルの図版をもっと生かして公開していく方向性で考えた方がいいかなあと思いました。いちおう、今回気がついたのはそのくらいですかね。

千本  もう一点は、顕彰会のご許可をいただいて、横山とわたしと、もう一人、大石正といううちの理学部の教授とでやっている奈良女子大学のプロジェクトで、生資料のうちの熊楠の自筆原稿、一枚物のマイクロ撮影をさせていただきました。

    これは、資料館のほうでは冊子体のものしか撮影してはいけないということになっています。にもかかわらずというか、日記をやったり、ロンドン抜書をやったりということは、かなり資料館としては例外的なことだったんだというのは『熊楠ワークス』でキャンベルさんが書いていますけれども。結果的に600コマ程度でした。はじめ私はざっと見せてもらって、1200コマ程度で全体そういうものが終わるのかなと思いましたけれど、やっぱり写し方とかを撮影をした光楽堂に聞きますと、全部で2500から3000コマぐらいはいるんじゃないかなという話でしたから、継続してお願いしたほうがいいんじゃないかなと考えています。そういうところです。

    それで、その撮影はもうすぐ出てくるので、それはもちろん顕彰会の方へ納めさせていただくということになっております。

原田  それでは、横山先生。

横山  今回は、川島さんと私の担当分は、洋書と離れのほうの洋装和本をやっているわけですけれども、蔵のほうの洋装本はほぼ先が見えてきたので、かなり量が残っているあちらの離れの方に、川島さんも来ていただきまして、二人で作業をすすめました。作業自体は前からぼくがやっていた作業と変わりませんが、やはり、予想以上に時間がかかっておりまして・・・。まあ、洋装本に関しましては、いわゆる奇覯書類は全く無いわけですね、ほとんど。基本的に離れに集中してあるのは叢書類ですね。例えば『未刊随筆百種』だとか、『日本随筆大系』『大日本地誌大系』だとかああいう本なんですけれど、熊楠という方はそういうあたりまえの翻刻本を、綿密にガーッと読んでやっておられる方なので、結局そういう叢書類に入っている全書目をあげて引けるようにしておかなければならないんですね。目録のとき、最終的に・・・。そういうことで、本自体としては別にそんなに問題は無いんですけれども、データ化には予想以上に時間がかかっております。そういう状況です。

川島  まあ、言い訳のようですが、たいへん時間がかかるのは、全ての収録されている書物に関して書名とそれから著者をカード化していっているわけですけれども、あと、頁(数)を記入していくわけですけれども、普通の本であればこの本は全体で何頁と簡単に済むんですけれども、今我々がやっているような明治期の叢書類というのは、作品の書目が変わると、もう新しく一から頁つけをするので、最終頁を見てこの本は何頁というふうに簡単に記入することはできないので、一作品ごとにこれは何ページまで、これは何ページまでとそれを数えていきます。もう本当に、それ自体としては何の面白みもない作業、機械的で、何の意味があるのかもわかりませんけれども、ただ、目録を作る際に、目録に本の形と頁(数)これがないというわけにはいかないので。ですから、時間がかかる割に、やっている自分たちとしても何をやっているのか、どういう意味があるのかがなかなか解らないですけれども、まあとにかく、それでも洋装本の和書のほうも数から言えば先が見えてきて…。

横山  そうですね、だいぶ先が見えてきています。

川島  見えてきていますので、まあ、そんなにはかからないと思います。

小峯  熊楠の書き込みみってのはあんまりないですか?

川島  ものすごくあります。重要かどうかはわかりません。ただ、ほとんどの本に書き込みがあります。

横山  ありますね、だから、やっぱり、さっきもちょっとおっしゃったように、書き込み自体、読み込んだ本だということとはまた別なんですけれども、眼を通したことはそれでわかりますから、あのう、例えばさっき言った三田村鳶魚が編んでいた『未完随筆百種』なんかね、あれなんか、平均して、あれは23巻本なんですけれども、わーっと書き込みがあるわけなんですね。だから、あれなんか見るとやっぱり非常に勤勉な人だなーって思いますねえ。

川島  読み方が二通りあって、必要だから読んでいると、それはかなり入念に読むでしょうけれども、あともうひとつ、多分、手に入ったときにまずさーっと全体に眼を通すんだと思います。それで、関係ありそうなところにぱぱっとしるしをつけていく。その二通りの読み方をしているように思います。

松居  しるしをつけているっていうのは何かあるんですか?

川島  いや、しるしというよりは単語でインデックス風に…。

松居  ああ、ここにはなにがあるっていうふうに…。

川島  ええ。また反対に、そこに書いてあることじゃあなくて、例えば別の本に書いてあるようなことを思い出したらそこに書く。

松居  これは何とかのどこどこにあると….

川島  そうそう。

飯倉  ほんとは、だから、その操作が全集の校訂なんかやる場合に。平凡社のときの場合はともかく大学の図書館とか国会で見られる叢書類を、南方が何を使っているか判らなくて、だから必ずしも直せないけれど、どれを直して良いのか悪いのかが、個別に、勝手に考えなければならなかったのでね。だから、それが、たくさん拾ってくださってあれば、今度これについて疑問があれば南方の見ていた本はこれだからこれを見ればいいというふうになるわけで。

川島  南方熊楠はテキストを勝手に、勝手にかどうかはわかりませんが、テキストの間違いをかなり訂正しています。ぺけ印がついていたり…ありますね。何かまた別のものを参照しているんでしょうけれども。

横山  なにしろ、本当にあっちの離れのほうは、何かどこの古本屋でも転がっているようなものなんですけれども、熊楠の勉強の仕方を考えるうえでは非常に興味深い材料を提供するかと思いますね。

原田  それでは、次は生資料ですけれども、私と飯倉先生と安田君のほうで小畔さん宛の書簡の、再整理をしています。ひとつは東京の翻字の会で小畔さんの書簡をやっています都合がありますし、マイクロ化の都合もあります。今回、小畔さん宛のをやるもうひとつの理由は、小畔さん宛の手紙の半分くらいは、台紙に貼ってあるものですから。台紙がかなり酸化してきて和紙に写りが出てきている、茶変が出てきているという状態なので、あれも土宜法竜さんの書簡の時にはずしたようにですね、はずして整理をするというのが、やはり一番いいと思います。それはちょっと武内先生とも相談していただいて、できるなら早いうちにまたお願いをしてですね、台紙をはずす。まあ予算的なこともあると思いますのでね、いつできるかっていうのはありますが、なるべく早いうちに、はがすという作業を業者さんにお願いしたいということです。

〈小畔宛書簡の台紙から剥がす作業は、9月に業者に依頼し、11月に文部省の科学研究費にてマイクロ化を行うことになった。〉

飯倉  小畔さんのは、わりに密度が高いっていうか、何日かおきに書いているので、まあ中瀬さんがやられている日記のほうと、例えば小畔さんの書簡が全部活字になると、ひとつは粘菌研究については昭和に入ってからなんかに、大体どんなことやっていたかっていうのがあんまりわからなかったのが、一方では日記でわかり、小畔さんとのやりとりで、小畔さんとのことがわかるだけではなくて熊楠がやっている仕事のことも当然そこへ書いてあるので、粘菌研究のすごい長い時間かけてやっていたものが、月を追ってというか、今月、来月なにやったというような感じでずっと見られるように、多分日記とこれが並ぶと出ることと。それから、日常ですね、熊弥さんのことなんか含めていろんな事柄の経過が逐一報告される格好に、小畔さん宛ての手紙なんかはなっているので、ですから、日記とちょうど、多分補い合うような形で、だいぶ利用価値があるような気がしますけれどもね。あんまり丁寧に読んでいる時間はなかったので、あれですけれども、まあ書簡は他の人もそうですけれども、とくにまとまっているものは、そういう意義はかなり大きいと思います。

中瀬  それと、最初も頃の、交流の初期の頃のものが無いわけですよね。

飯倉  ああそうか、ここにあるもののなかにね。

中瀬  そうです。まあ大正の頃までですね。大正10年くらいからあるのかな?

飯倉  それは、どういうあれなんですか?事情というか。

原田  単純に小畔さんの遺族がどなたかに貸したんだそうで、それが戻ってきていないということでしょうね。

中瀬  いま、だから、あるものはこちらへ2回に分けて持参して「お返しします」と言ってくれたもので、それを私が全部整理したら前と後ろがないので、「前と後ろはどうなりましたか」と聞いたら、その甥子さんが譲り受けて、あのうカメラマンなんですが。

原田  小畔光一さん?

中瀬  そうですね。その甥子さんが「わたしが引き受けたときには後ろのほうはありませんでした」と、それで、前のほうは誰かに貸しておって、その間にこちらへ持ってきたので、お返しすべきだったのが届けていないと、しかしお届けにあがりますと、こういうふうに言ってはくれているのですけれども…。

飯倉  それはいつ頃の話ですか?

中瀬  去年までの年賀状にはそう書いてくれていたのです。

飯倉  ああ、そうですか。

中瀬  でも今年の年賀状には、もうそれは…。3年続けて書いてくれていたんですよ、私が見せてほしいと、コピーでも見せてほしいというふうに頼みましたらね。お届けにあがりますと、3年ほど言ってくれて、今年書いてくれないから、あまり何回も言って行けなかったので、向うもちょっとまずいかなと思っているのかなと思いますけれどもね。でも、あることはあるし、こちらへ見せてくれるというか、(寄贈して)くれる気持ちはあるようです。いまあるのは千点近いものなんですね。

    まあでも、おっしゃられたように、いわゆる粘菌の通信教育ですね。小畔四郎という粘菌には関心のなかった、蘭にしか興味のなかった人に、粘菌の見本を送ってね、少しずつ少しずつ教えていく。だから、手紙は、おそらく粘菌をやる研究者のテキストに非常に良いのではないかと。

飯倉  最後のほうはね、学名のつけ方とか、少し試しにやってみようとか…。

中瀬  もう、そして、南方流に、小畔さんなんかは、本当に南方の気に入るようにというか、まあ小畔さんもそうしたいという希望があったのでしょうけれども、アマチュアがこういうふうに学問に参画しているということの喜び、これは世界に誇れるものだという、そういうなかへ自分が仲間入りできたということについては生涯の誇りだというふうに礼状をときどき書いていますけれども。南方が非常に喜ぶような、そういう言葉をね。あんまり優等生だから、南方先生の後日あまり芳しくないようなことになってはいけないということでハサミを入れるわけですね。過激な個人攻撃のある部分をね、切って捨てるわけです。平凡社の編集方針としては、あんまりネズミに食われたり、読めない部分があったり、完全でなかったら採用したくないというね。

原田  まあ、でもあれは、台紙に貼ってあるものをかなり切っていますね。台紙に貼っていないものはそのまんまですよね。

中瀬  そうです。もう断片ばかりになるから。だから貼り付けたのです。だから次の持っていくやつは、本当に全部の切れ端へ表具屋さんは印を入れるんだろうとは思うけれども、はずすことになったら、うまく復元できないかもしれませんね。あまりにも細かく裁断していますから。

安田  三つ四つにわかれてしまって。

飯倉  テーマを整理しておくっていうのもあるんですね。南方さんの手紙、いろいろなことを書いてくるので、自分にとってマークしておかなくっちゃいけないことだっていうのを、整理しておかないといけなかったんでしょうね。「この前言ったじゃないか」なんて、どこにあったかわからなくなっちゃったでは困るぞ、なんてこういうかんじで。

中瀬  だから何月何日何時何分出す、それで控えておかなかったら一日三通くるんだからね。この前の手紙って言ったんでは何日の何時何分の手紙にはこう書いておいたと、それを見るようにと。

小峯  切ったのは、やっぱり捨てちゃったんでしょうかね?

中瀬  多分そうだと思います。熊楠自身も線を引いたところから切り捨ててくれと書いているところもありますしね。

安田  大体は台紙に貼ってから切っていますね。

中瀬  ああそうですか。ほおー。

安田  台紙にナイフのあとがついてるんですよ。

中瀬  なるほど。ああそうか、つないでなかったところありましたね。

原田  あれは台紙に貼ってから切るようになっていますね。だから、貼っていないものはほとんど切っていないのでしょう。やっぱりある時期に整理しようということをして途中でそのままになってしまったという感じもあります。

中瀬  でも立派な箱を作っているでしょう。あれで保管して…。

原田  整理の仕方や体裁が、実を言うと平沼大三郎さんのとまったく同じなんです。台紙に貼ってというやり方が、記念館にありますけれど、あれとまったく同じ方式なので。いつやったかが、ちょっとその、もうひとつわからないところがありますけれどもね。

中瀬  あれは紙が同じだからある時期にぱーとやったんやね。

飯倉  最初の方?残っているのでは?なんか僕がやってた方では切り貼りしていないのが…。

原田  あれはしていないんですよ。台紙に貼ってあるのが大正年間のものがかなり切り貼りがある。

古谷  台紙だけあって中身がないの?

安田  はい。まるごと、こう…。

原田  ミナカタ・ソサイエティが入っている可能性がありますけれどもね。ミナカタ・ソサイエティのときに、小畔さんと話になって、要するに小畔さんのもとから離れるということで、それでそういう作業をした可能性もありますね。ちょっとそこらへんはわからないですけれど。小畔さんの死ぬ間際、そのソサイエティの作業だと死ぬ間際の一〜二年くらいだから、人の手に渡るということを考えてそういうふうにした可能性もありますね、ちょっとわからないですね。

武内  しかしそれは、はずしたあとの処理が非常に難しいですね。まあハガキはそのままにするなり、完全なやつはアレにしても、裏打ちして…。

飯倉  すくなくともコピーはとっておかないと…。

武内  それで今とってるんですわ。それでも、やっぱり裏打ちして。

原田  台紙に貼ったものに関しては裏打ちしてもらって…それがいいのかな。

安田  もう、すでに分かれていてどこのお尻かわからないのがありますからね。

古谷  そう、あるね。

武内  それも貼ってるわけでしょ?

安田  貼ってはありますが、日付がついていなかったり…。

武内  まあその今の現状のまま貼らざるをえない。ただ、それホンマ細かいのがばらばらになってるとどこかわからなくなってしまうからね。巻子仕立にするかですね、折本にするか…。でも折り本にするとどうしても折った部分が痛む。

小峯  切れちゃう。

武内  巻子仕立にすると、

小峯  後ろが、

武内  うーん。巻子の扱いが下手な人間に任せるといっぱい皺がよるし…。ただ長いやつはね。折り本にしたらどうしてもね、そこで、今でも折りのところが。間を空けて書いていないからね。

小峯  折るんだったら巻いたほうが良いね、むしろね。

千本  それこそデジタルで撮っておかれて。現物を見ないといけない人がどれほどいるのかね?

原田  そんなには多くないでしょう。

千本  それだったらね、デジタルで見てもらえるように作ったら。

原田  問題は、活字化っていうか翻字されてしまえば現物を見る人はかなり少数に限られてきますよね。絵とかそういのも印刷化されているということになれば。

武内  あるいはマイクロさえあればね。

原田  急ぎませんけれども、いつか、ちょっと早い時期のほうがいいんですけれどもね。で、松居さんのほうを。

松居  生資料の英文原稿の寸法が抜けているところを埋めたりとか、その他いろいろやったんですけれども。前号の「ミナカタ通信」の作業のところに海外来簡再整理終了とか書いてありますが、そうは言ってなくて、終了しそうだというふうに言っただけで、今回もやったんですけれども(笑)。

    ひとつは空封筒が結構あって、その空封筒は一回は調査したのでデータベースの中に大体の年月日が入っているので、その空封筒の消印ともとの書簡のデータベースとを合わせると、だいたいこの空封筒がどの箱のどれにあたるだろうということが予想できるようになりましたので、それでその箱を開けるとぴったりと合うという非常に快感のある仕事なんですが、ただあんまり意味があるかどうかはわからないですけれども(笑)。それから、ただ空封筒ですっぽりとはまらないものの方が重要で、結局そういうものというのは今残っていないけれども書簡がきたはずだと。差出人がわかるものもあるし、わからないものもあるけれども、ともかく全体の海外来簡の状況というのを考えるうえでは割と重要な資料だというふうに思います。前からもちょっと話があったことですけれども、日記を見ると来簡と出した状とがありますが、後半生のほうは結構きちんと全部つけているんですけれども、前半生の、ロンドン時代とかロンドンから帰ってきた直後なんかは日記に記述がないものがあって、空封筒と実際残っている封筒と日記の記述と全部合わせて来簡の対照表というかデータ分布を調べる、再構成するというふうなことになるので、当初考えていた今あるものを整理するだけというよりも、少し作業としては膨らむ形になるかなというふうに思います。それから、いくつか重要そうなものを読んでいるのですが、なかにはちょっと読めないものもあって、川島先生と横山先生のご協力で孫文のが読めましたので、そこの内容だけ紹介しますと、熊楠が孫文と1901年2月14日15日に会って、それからダグラスに手紙を書いて、その帰ってきたダグラスの手紙なんですが、それに書いてあることによると、「私は孫文に関するあなたの意見にまったく賛成です。孫文というのはよき陰謀家の性質を持っている人ではないのです。彼が台湾とか日本に行ったときの行状を見るとそのことがよくわかります」というふうに書いてあって、最初は孫文を熊楠が批判したのかと思っていたのですが、批判という感じではなくて、むしろ孫文は革命の陰謀を働かせるような人には向いていないんだと言うことを熊楠は書いていたということがわかったということです。まあ、そういうふうにちょうどロンドンと日本だと一ヶ月くらい手紙はかかりますので、2月15日に会ってその直後に書いて、ダグラスが書いたのが3月15日と、それを4月22日に熊楠が受け取っているというのが日記でわかる。そのへんの時間差も含めて書簡の出したものと帰ってきたものの対照表を作りたいというふうに考えています。

川島  日記にあれだけ克明に出した手紙とついた手紙を書いているようだけれども、田中長三郎の手紙を整理してみたらやっぱり完全じゃあないですね。

原田  そうですね。日記の記述は重要ですけど、それだけだと思うと、間違いますね。

武内  例えばアメリカ時代でもね、新日本からきた前に紹介した手紙(『季刊文学』8巻1号)なんか、あれぜんぜん日記には出てきませんからね。最初の書簡とか。

松居  アメリカ時代ロンドン時代はとくに抜けが多いですね。

原田  田辺時代も怒り心頭に発していると書き忘れていますね(笑)。えっーとあとは。

武内  私です。あのう生資料の再整理をやりまして、それこそ本当に雑多ないろんなもので、それほど今回面白いものは出てこなかったんですけれども、たまたまちょうど今回やっているのが、十二支考の虎などの図版の原版がありまして、それはどうも乾元社版で使っていないやつで、それを平凡社版では使っているんですね。だから平凡社版で使うときに乾元社版の原稿に貼り付けて、横に平凡社の編集者が指示を出していると。どうも原図を見ていると熊楠っぽいやつとどうも他の人間に描かせたやつと両方ありますね。どうもやはり前からですけれども、絵の鑑定は難しいものがありますねえ。

飯倉  あれだと、可能性もあるよねえ。写真ていうのがどういう格好で送ったものだかわからないけれどもねえ。写真がかなりあって、線画になってるやつも、もとは写真とか何かだったものを今度『太陽』の方でね、この写真いくら使えって言ってもだめだからちょっと社にいるようなその辺の誰かに線画にさせたっていうのもあるかもしれない。こっちで線画にして渡したんじゃなくてね。

武内  ただそれでも、墨とか線と同じようなやつを使っていますね、紙も。

飯倉  でもずいぶん変なやつもあるでしょう。

武内  あります。どう見ても他の人間が描いたやつ。だから、逆にいうと田辺の。

中瀬  楠本竜仙のが一番多いですよね。

武内  ただその、例えば第四図と書いている四の字は熊楠の癖の字であるとかね。

飯倉  それはだから入れる指定は原稿との関係で熊楠がやってあったんでしょうけどね。

武内  時々ああいう薄い紙に、薄い和紙に細密で描いた図はわりとありますけれどね。

小峯  何かトレースしたような?

武内  トレースというか、トレースのようなやつに、まあもうちょっと著作のなかの図版と(対照作業を)やらなくちゃならないんですけれども。細密図はそんな紙に描いてるやつが多いですね。まあ、そういうやつは署名がないので…。

    わりとあの戯画っぽいやつはね、わかりやすいんだけれども。あと、ざーっと後どれくらい残っていてということで、まあ、あと3〜4回くらいで目途は立つかなと。それで、あとまあ、目録の最後の詰めができるんじゃあないかなという気はしましたね。

中瀬  じゃあ、僕が…。ちょっとはじめにお断りしないといけないのは、今週私は非常にばたばたして、来週すっぽり空いてるんです。今週に詰まってしまって、もうホンマに昼も夜も、今晩また白浜へ行かなくてはいかん、明日は明日で…。

原田  日程の調整がうまくいかなくてすいません。

中瀬  そういうことでちょっとそれはまあ言い訳です。今回の作業のなかで、一番最初に私ここへ来て見たいと思った、見たいというのは去年の熊楠研究に平瀬作五郎さんとの共同研究について書いたときに、大きな間違いをしたのです。というのは平瀬作五郎さんがここへ来る直前にもう一人平瀬さんが来ているのです。平瀬与三郎という人なんですが、この人は貝の収集で、長者貝の、有名な人なんですがね。しかし、それが名が出てこないんです、平瀬とだけで。で、連れてきた人によって、あ、これは田辺の貝の好きな人だなと、そういう貝の商売やってる人だとか、いうふうなことで平瀬与三郎という人だと後で検討すればわかったんですけれども。あの八坂書房の日記の人名索引にも平瀬作五郎として全部登録しているんです。与三郎の名前は出てこないんですけれども、はじめのうちは与三郎だったんです。で、私はそれを知らないから、与三郎とのつきあいを(作五郎との)交流の始めと考えて書いて、その分は今回削除するけれども、訂正の仕様がなかったんです。訂正文が書けなかったのは最初の交流が何だったのかわからなかったからです。今回ここへ来て、平瀬作五郎から来た書簡で、年号の入っていない書簡があるんです。10月何日とかって3通年度不明の書簡が。それにひょっとしたら最初の手紙が紛れ込んでいる可能性があると思いまして、それを読んで検討したら、明治40年10月何日っていうのが最初の手紙なんです。それは今まで年度不明としておいてあった。それを一番に位置付けるとすっと解けていきます。で、その次、2〜3通目から、おまえもちょっとやってみないかというふうなマツバランのことをやてみないかというふうになっていくんでね。それまでは藻のことをやっているんです。それで、やっとはっきりして、これでやっと訂正が書けるんですけれども。ですから今不明としたのは長い書簡目録のところにありますので、あれ明治40年というふうに訂正してもらおうと思っています。中身をつき合わせてぴったりしますので。熊楠の日記を見ましても平瀬さんの書いた日の三日後に平瀬作五郎からの手紙を受けたと書いていますんでね。これはもう明らかにつき合わせられました。

    それから今回は私は、大正10年の日記の校訂にかかっているわけですけれども、一日目でまず大問題に出くわしました。これはもう、これからの記録を変えなければならないことですけれども、南方熊楠のミナカテラ・ロンギフィラ発見の日なんですね。それが大正6年8月24日に、邸内の柿の木でというのが定説になっていますが、今回大正10年1月3日の記事の中に、リスター女史から手紙が来たと、その手紙の内容が、私が大正5年8月24日に見つけたものだと。それについてミナカテラ・ロンギフィラという名前をつけてきたというふうな内容のことを書いてきているんです。あれ、1年違うな、また思い違いして書いてるんかなとも思ったんですけれども、大正10年の日記に大正5年のことと大正6年のことを思い違いするというのもおかしい。とにかく何で1年違うんだろうと。大正5年の8月24日の日記にどうなっているか、大正6年の8月24日の日記に見つけたということを書いているかどうか、これをまず調べたんです。どっちもね、ひとつは大正5年のときは、庭のじょりゅう、木に聖人の聖に柳と書いてじょりゅうと読むらしいんですが、もうひとつは俗称カワラヤナギと呼ぶらしいんです、そのカワラヤナギのところで熊弥が何か採ってきたものに粘菌の名前らしきものがずーっと書いてあるんです。だからそれがひょっとしたら可能性があるのかなと第一回は考えたのです。しかし、今度は大正6年の8月24日はどうかというと柿の木で文枝がって書いてるんです。柿の木出てきたし、文枝さん出てきたなあと思ってたら、よく見ると何かノウゼンカズラを這わせていたのを根元から切られていたと、で、誰の仕業かと松枝に問うたら文枝やと、文枝に問い詰めたらしくしくしだしたと(一同大笑い)いうふうなことで。それ以外にも横の方に何か書いてあるんですけれども粘菌らしいものはないんですね。だから従来言っている大正6年の8月24日には柿の木は日記に出てくるけれども、粘菌らしいものはない。まあそれは採らないとも採ったとも書いていないからね、わからない。まあそういうふうにしておったら、また今度はその年の11月、大正5年の11月3日頃にリスターさんから手紙が来て、自分が今までそうだと思っていた粘菌はひとつだけ違ったのがあるらしいと、こう書いてきたと書いてあるんです。だから大正5年はひょっとしたら粘菌(ミナカテラ・ロンギフィラ)を見つけた年かもわからないなあと、ぐっとそっちに傾いたんですが。

    決定的なのは、原田さんが『熊楠研究』の第二号に写真に撮ってあるのを見せてくれて、標本の箱に書き付けているの、これにはやっぱり1916年、大正5年7月9日と書いてあった。で、7月の日記をもういっぺんそこで見ますと、後年、リスターさんからミナカテラ・ロンギフィラとつけたことを追記しています。大正5年の日記のところへ大正10年にリスターから言ってきたということを、だから、これでもう二つの資料があるので確定ですね。大正5年の7月9日。だから従来のミナカテラ・ロンギフィラの発見の日時は大きく訂正せねばならないと、こういうことになります。

川島  どこで、だれが誤ったのかな?

飯倉  平凡社の年譜がそうなってたから。平凡社の年譜は、もとの雑賀さんのメモを見ていないんでわからないけれども、それによる間違いか、平凡社の間違いかわかりませんけど。あるいは笠井さんあたりのに書いてあるのかなあ。そこまで見てませんけどねえ。まあ、平凡社の年譜は長谷川さんがいろんなものつき合わせてやってるから、もとが何の間違いなのかねえ。

原田  結構有名なあれですから最初に間違えたのは平野威馬雄さんとかあそこらへんまで遡るかもしれませんねえ(笑)。

中瀬  検証しようがなかったからね、今までね。まあ非常に有名なエピソードに訂正、まあでも発見できたのでよかったと思います、今回。


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