◆久野(くの)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「尾鈴山」(昭和29.9)を使用したものである
所在:西都市南方(みなみかた)
地形図:石河内/尾鈴山
アクセント:クノ 形態:山中に家屋が少数集まる
標高:約420m
訪問:2013年8月
大字南方の最北部にある。
滞在していた元住民によると、もと2軒。林業を生業とする集落であった。集落内に田はなく、農地は畑。離村は数年前とのこと。かつては穂北小学校および中学校の久野分校が置かれており、学区は久野のほか現王屋敷(げんのやしき)・樫・長尾。なお久野分校の前身は畑江(はたえ)に置かれており(畑江分教場)、分校が久野へ移転した後本校への通学となった。
以下は学校跡の碑(写真3)より(※)。
この地は、元久野分教場で当時地元住民の唯一の教育の場として七十年にわたる歳月と共に多くの卒業生を送り出したものの地元産業の変動と過疎現象により生徒数が減り、止むなく閉校の運びと成りその後同志の間に母校を偲ぶ声が高まり、母校会が発足しやがて久野会と命名、母校愛の強い絆のもとにこの碑が完成に至るには地元を始じめ各氏の暖い支援を受け 母校に寄せる和を固め
永久に報恩の意を表すものである
なお碑によると、小学校分校は明治29年5月に畑江分教場として設置され、昭和2年4月に畑江より久野に移転。昭和41年3月に閉校。また中学校分校は昭和22年4月に久野に設置(小学校に併設)、同40年3月に閉校。
現在は先述の2軒が並んで残っているほか、墓地や神社が見られる。
※ 当方の怠惰により、読点の数は不正確な可能性がある
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