◆藪路木島(やぶろきしま・やぶろきじま)
※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「小値賀島」(昭和21.11)を使用したものである
所在:小値賀町藪路木島郷(やぶろきしまごう)
地形図:小値賀島/小値賀島 肥前赤島/肥前赤島
異読み:やぶろぎしま・やぶろぎじま
形態:海沿いに家屋が集まる 標高:数m〜約20m 訪問:2015年5月
小値賀島中心部から、西におよそ4km弱にある島。集落は島の南西部の平坦地にある。
当地は現在も船着場が残存し、小型船程度で上陸が可能。港湾付近には「中山四右衛門翁碑」と「感謝碑」(写真6・7)が建ち、ここから集落への道が通じている。港から海岸伝いに西に進むと神社跡(写真8)。石段と半壊した鳥居が残るが、社殿は既にない。集落内では本道の両側で数箇所の屋敷跡が見られたが、全体的に荒廃が進み探索はやや困難。道なりに進んだ島の北側にあったという墓地も未確認。なお集落の南東部には複数の便器や大型の建物の基礎が見られ、この辺りに学校があったと思われる。
船主の話では海の近くに漁協の藪路木支所があったとのことだが、昭和35、6年頃の台風で流されたという。また神社は若宮神社。離村から5〜10年後に移転し、合祀された。宗派は浄土真宗。島内に寺はなく、浜津(はまづ)の明覚(みょうかく)寺の檀家であった。生活は半農半漁で、農業は自給用の麦・芋など(田はない)。畑は島内に広く分布していたという。漁獲物を小値賀へ売りに行き、その銭で米や日用品を買っていた。
以下は町郷土誌より、集落に関する記述の抜萃。
・学校の沿革
(小学校)
大正15.4.1 |
小値賀尋常高等小学校藪路木分教場開設 |
昭和4.1 |
校舎新築移転 |
昭和16.4 |
小値賀国民学校藪路木分校となる |
昭和22.4 |
小値賀小学校藪路木分校となる |
昭和46 |
閉校(※) |
※ 本文では昭和36年とあるが、昭和40年代の事項に挟まれており明らかな誤り
(中学校)
小値賀中学校藪路木分校が、昭和22年4月1日開校、同44年3月閉校。
・航路
昭和44年より、汽船「はまゆう」が就航。航路は、小値賀島笛吹(ふえふき)−藪路木−大島(おおしま)−野首−笛吹。スクールボートとしても利用され、藪路木島・大島の中学生・高校生が通学に利用した(中学生は無料)。その後藪路木・野首の両地区は無住となったので、昭和45年12月10日より野首航路は野崎航路となり、藪路木航路は昭和47年に廃止。
・藪路木港
明治24 |
住民の手により西横防波堤・東横防波堤が完成 |
大正7.6.14 |
西防波堤新設工事開始(8年3月31日竣工) |
大正14 |
西防波堤決潰(のち復旧) |
昭和4 |
台風により一部決潰(のち復旧) |
昭和28.2.12 |
第一種漁港に指定 |
昭和34.9 |
台風14号により西防波堤決潰 |
昭和37.3.31 |
西防波堤復旧完了 |
・藪路木発電所
昭和24年設置。開設当時は学校を含む32箇所に、午後6時から午後9時まで送電を行って点灯していた。昭和41年小値賀島より海底ケーブルが設置され、九州電力より24時間の送電を開始。
・中山四右衛門翁碑
中山四右衛門(なかやま・しえもん)は藪路木島出身の農民。1783年生1852年歿。
かつて藪路木島民にとって、美良(びりょう)島・倉(くら)島は唯一の薪炭の採取地であった。天保の頃この2島を没収するという役人の通達があり、四右衛門は代官所への直訴を決行する。代官は怒り彼を手打ちにしようとしたが、四右衛門は自らの首と引き換えに2島の没収を思いとどまるよう歎願。この命を賭して島の窮状を救おうとする侠気に代官は心を打たれ、2島の没収は取りやめとなった。彼の偉勲を讃え、昭和20年代にこの記念碑が建てられた。
・感謝碑
かつて小値賀では、商人からの利息や医療費などの借金は、盆や正月・農産物の収穫期に支払いをするのが通例であった。しかし人々の生活は貧しく、農地や山までも人手に渡るようになってしまった。そこで橋本久次郎・末永善太・前田三次郎の3名は、負債の軽減・返済期限の延長などの交渉や、県当局への建議指導の要請など、地区民の生活再建のために尽力した。この努力が実り、昭和21年2月全額を完済。この碑はそのことに感謝して建てられたもの。
なお資料『シマダス』によると、昭和30年160人、同35年173人、同40年124人、同45年47人、同47年無人化(国勢調査)。
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