◆野首(のくび)
※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「小値賀島」(昭和21.11)を使用したものである
所在:小値賀町野崎郷(のざきごう)
地形図:小値賀島/小値賀島
形態:海沿いの斜面に家屋が集まる 標高:数m〜40m 訪問:2015年5月
野崎島の中部にある。集落は南北に走る稜線を隔て、東部と西部に大まかに分かれている。
現在、東部には「野崎島自然学塾村」が宿泊・休憩施設として運営されており、NPOにより行われる自然学習を主眼に置いたイベントやツアーの拠点としての役割も担っている。なおここの土地は昭和60年に閉校となった野崎小中学校校の跡地。統合前の旧校地(中学校のみ?)はここから西に向かった鞍部に近い場所にある。ただし造成のためか地形は大きく変わっているようで、校門の門柱のみが残る(写真17)。さらに県指定の文化財である野首天主堂(野首教会)が自然学塾村の背後の小高い場所に建ち、内部も公開されている(要許可)。島内の説明板によると、教会は明治15年設立。現在の建物は、明治41年に新築されたもの。
西部では鞍部を越えてすぐの所に野崎ダム(写真21)があり、河川に乏しい小値賀島へも送水され貴重な水瓶となっているている。浜にはキリスト教の墓地(写真25)があり、まだ建造から間もないと思われる船着き場が設けられている(野首港。写真26)。
学塾村の管理者の話によると、農地はすべて畑で麦・芋・蔬菜類を栽培していたという。なお田は野崎に僅かにあるのみであった。
なお島はいったん無住となっているが、近年になり管理者の籍が野首に移ったため統計上の人口が1人となっている。
以下は町郷土誌より集落に関する記述の抜萃。
・起源
天草の松太郎および子の忠造・粂造および福江島三井楽の勘太・平太・東太の兄弟、この2世帯が野首の祖先といわれている。
なお松太郎の両親(長吉・ヨネ)はもと大村藩に居住していたキリシタンで、寛政9(1797)年、五島藩が大村藩に対して行った農民の移住の要請に応じ久賀島に居住(キリシタンであった大村領民は、安住の地を求め五島へ続々と移住した)。しかし貧困のために子の松太郎、孫の忠造・粂造が天草へ渡っている。
・学校
(小学校)
明治8.5 |
(相津小学校神島分教場として創設)(以下野崎) |
明治19 |
(独立。簡易神島小学校となる) |
明治22 |
(再び分校となる〔野崎分校〕)(※1) |
大正15.4 |
(小値賀尋常高等小学校野崎分校となる〔本校が統合〕) |
昭和16.4 |
(小値賀国民学校野崎分校となる) |
昭和22.4.1 |
(小値賀小学校野崎分校となる) |
昭和35.4.1 |
舟森分校と統合し、野崎小学校となる(※2) |
昭和35.12 |
校舎新築(※2) |
昭和57.4.1 |
小値賀小学校野崎分校となる(小値賀小学校ウェブサイトより) |
昭和60.3.31 |
閉校(同) |
※1 本校は相津小学校もしくは改称後の前方小学校と思われる
※2 いずれかの時期に野首に移転
(中学校)
昭和22.4.1 |
(野崎にて小値賀中学校野崎分校開校) |
昭和26.10 |
野首に校舎新築移転 |
昭和35.4.1 |
独立。野崎中学校となる |
昭和38.2 |
校舎の移転決定。12月に校舎を解体し、野首公会堂を仮教室とする |
昭和39 |
3月31日、現在地に校舎完成。移転 |
昭和57.4 |
小値賀中学校野崎分校となる(小値賀中学校ウェブサイトより) |
昭和59.3 |
休校(Wikipediaより) |
昭和60.3 |
閉校 |
・航路
昭和44年より、汽船「はまゆう」が就航。航路は、小値賀島笛吹(ふえふき)−藪路木−大島(おおしま)−野首−笛吹。その後藪路木・野首の両地区は無住となったので、昭和45年12月10日より野首航路は野崎航路となり、藪路木航路は昭和47年に廃止された。
・野首港
昭和39年6月完成。水産倉庫がそれより前の昭和27年に建設されている。
・電気
昭和29年5月、野首発電所設置。開設当時は25箇所(人家18、学校・教会等その他7)に、午後6時から午後9時まで送電し点灯していた。昭和42年宇久島神浦(こうのうら)より六島(むしま)経由で野崎に海底ケーブルが設置され、野首・舟森にも九州電力より送電がなされた。
・教会
明治15年、日本天主公教野首教会として設立
・その他
昭和46年3月以来一時無住となっていたが、昭和51年3月よりイタリア人男性1名・ポーランド人男性1名のキリスト教徒が居住していた。
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