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◆柳瀬(やなせ)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「三島」(昭和22.2)を使用したものである

所在:四国中央市金砂町小川山(きんしゃちょうおがわやま)
地形図:伊予三島/伊予三島
形態:川沿いの斜面に家屋が集まる
標高:約260m〜(水面は約280m)
訪問:2018年8月

 

 大字小川山の北部、銅山(どうざん)川右岸にある。
 現在は柳瀬ダムの人造湖(金砂湖)にほとんどが水没。国道沿いでは廃屋と屋敷跡を確認。
 以下は上流の水没を免れた平野(ひらの)にある「金砂湖の記」と題した記念碑(写真2)の碑文(一部省略)。


 紺碧の水をたたえ美しい緑の山影を映す金砂湖は、宇摩平野に農業用水・工業用水・水道用水や電力を供給して地域産業発展の原動力となり宇摩住民に限りない恩恵をもたらしている。
 昔から水不足に苦しんで来た宇摩農民の悲願が実り、銅山川疏水が認可され柳瀬にダムが造られることになった。寿永の昔から八百余年、先祖代代この地に住み平和な生活を営んでいた人々が、住み慣れた郷土を湖底に沈めて他郷に移住した。これらの尊い犠牲や、残留した人々の不便と寂寥を思うと感無量のものがある。
 ここにその概要を記し、ダム建設のため協力した人々の思いを末永く伝えるためこの碑を建立し往時をしのぶよすがとする次第である。

概要
安政年間より宇摩農民が銅山川の分水を企画
昭和十一年一月三十日 徳島県側と銅山川分水協定を調印、認可
昭和十二年十二月四日 銅山川疏水起工式
昭和二十六年八月十六日 柳瀬ダム定礎式
昭和二十八年十二月十日 ダム竣工

水没立退地区
金砂村 柳瀬・信生・折坂・
横藪・安井・川口・上小川・小頃須押淵・平野・灰原瀬・水丁 一四五戸、八〇一人
富郷村 
千野々・下長瀬の一部 十一戸、六一人

移転建造物
村役場・郵便局・巡査駐在所・神社二社・仏堂五か所
川口小学校・平野山小学校・金砂中学校


 また碑の「銅山川柳瀬川ダム工事に依る立退者」によると、姓は鎌倉23・高橋22・石川16・藤原13・坂上11・真鍋11・大西5・曽我5・鈴木4・安藤3・川上3・合田3・坂田3・前谷3・加藤2・苅田2・斎藤2・立川2・辻2・長野2・守屋2・山川2、ほか伊藤・大竹・小川・沖・河村・佐藤・白石・西村・蓮池・波多野・福岡・藤川・三鍋・宮田・森・山内・山口・吉岡が各1。

 愛媛県生涯学習センターのウェブサイトのデータベース『えひめの記憶』によると、戸数8戸の農業集落。1戸を残し水没。

 


写真1 柳瀬ダム堰堤

(写真2 碑。平野にて)

写真3 国道沿いの風景

写真4 廃屋

写真5 屋敷跡

 

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