◆臼谷(うすだに)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「長門峽」(昭和22)を使用したものである
所在:山口市徳地堀(とくぢほり)/同徳地山畑(―やまはた)
地形図:堀/長門峡
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約260m
訪問:2022年1月
大字堀の東部および山畑の北西部にある。
「角川」の小字一覧には堀に臼谷(ウスダニ)、山畑に上臼谷(カミウスダニ)・臼谷・東臼谷が見られることから、両大字に亘る集落であるよう。なお堀は旧出雲村、山畑は旧島地村であり、昭和30年に合併し徳地町になるまで別々の自治体に所属していたことになる(上の地図画像に市町村境が見られる)。
まず堀では、広範囲が企業が営む大規模な養鶏場の用地となり跡地の確認はできない。電柱札に記された地名は「ウスダニ」。
山畑では屋敷跡を2箇所特定。ほか別荘もある。谷沿いを中心に植林が施されていないため、開けて明るい。墓地は2箇所あり、手前のものは現在も管理されている。それぞれ松尾家・岡田家。神社も手入れが行き届き、墓地と併せ度々の往来が窺える。ちなみにこちらの電柱札も「ウスダニ」と記されている。
なお下流に架かる国道の橋は「鳴谷(なるたに)橋」であり、付近のバス停も「鳴谷」。
町史には、「臼谷の柴栗」という伝承が掲載されている。概要は以下のとおり。
重源上人(※)が用材を得るためこの地に入ったところ、子供たちが長い竹竿を持って栗を叩き落していた。上人が子供に栗を1つくれないかと頼むと、子供は苦労して取った栗ではあったが喜んで差し出した。これに感心した上人は、子供でも取りやすいようにこの地に生える栗の木は背が低くなるようにしてやると言った。そのため今でもここに生える栗の木は背が低いと言い伝えられている。
※ 重源(ちょうげん)は、平安時代末期から鎌倉時代の僧(1121-1206)。源平合戦の南都焼討により焼け落ちた奈良東大寺の再建に尽力した。周防が東大寺の寺領であったため、用材伐り出しのために徳地を訪れ指揮を取っている。また余談だが、町内深谷(ふかだに)の中屋敷・中河内の集落跡は「重源の郷」という観光施設となっている
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