◆櫃島(ひつしま)
所在:萩市櫃島
萩漁港(中小畑)から北北西およそ9.6qにある島。萩の六島(ろくとう)諸島を構成する島嶼のひとつ。人家は台地上の南西側に集まっている。 資料『シマダス』によると、昭和30年106人、平成27年1戸2人。以前は葉タバコ栽培が主流で農地の大部分を占めていたが、現在は甘夏やタマネギが中心。 市史によると、 元文5(1740)年17戸118人(「地下上申」)、寛政元(1789)年15戸(「浜崎宰判浦嶋石高其外付立一紙」)、文政5(1822)年13戸103人(「浜崎宰判浦嶋石高其外」)、安政2(1855)年13戸97人(「郡中大略」)。 ※ ただし建物の完成は6月。浜崎町に建設され、明和寮と命名された。それまでは江向(えむかい)の労働会館と無田ヶ原(むたがはら)の市営住宅を仮の寮とした また「朝日ジャーナル」に掲載の「風土記'62 櫃島」(昭和37年)によると、当時の 10戸のうち、山本家が5戸、山根家が5戸。島の周囲はブリの漁場で大敷網による漁撈が行われていたが、海蝕崖に囲まれたこの島は漁業とは無縁であった。昭和28年、漁の利権が切れたのを機に各戸からの醵出金・農協と銀行からの借り入れを元手に大敷網を開始。しかしほとんどが不漁で、2年間で莫大な負債が生じてしまった。その苦境を救ったのが葉タバコで、島の土壌に合った作物でもあった。県の煙草耕作組合長が債権者との仲介に当たり、耕作地を拡大、懸命に生産に従事した結果、僅かな期間で負債を返済することができたという。 また「角川」によると、地区としての櫃島は江戸期から明治22年までの阿武郡櫃島村。古くは志津島とも。明治22年からは六島村の、昭和30年からは萩市の地区名となった。明治16年16戸106人、同24年12戸112人、昭和35年13戸98人、同45年10戸40人、同55年10戸23人、同63年9戸21人。明治12年に戸長役場が字宇津上に置かれた。明治18年大島の日進小学校の巡回授業所が置かれ、同20年に簡易小学校となった。 HEYANEKO氏の調査ほか諸情報によると、平成中期に定住者はいなくなり、本土から通いで耕作が行われているとのことで、人口は登録上のものであることが分かる。船主からも通い耕作の情報は頂いたが、当方の訪問時は関係者は不在。道路には軽トラが停まっており、港と集落を行き来していることを窺わせる。
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写真1 島遠景(南側より撮影) |
写真2 船着場 |
写真3 船着場の建物 |
写真4 船着場を俯瞰 |
写真5 電柱札。「ヒツシマ」「ひつしま」と見える |
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写真7 柑橘畑 |
写真8 櫃島地域間交流施設 |
写真9 井戸 |
写真10 家屋 |
写真11 発電施設跡? |
写真12 祠の石仏 |
写真13 小祠と池 |
写真14 電柱 |
写真15 家屋 |
写真16 家屋 |
写真17 家屋 |
写真18 廃屋 |
写真19 廃屋 |
写真20 路地 |
写真21 家屋 |
写真22 旧校舎 |
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写真24 家屋 |
写真25 神社。鳥居 |
写真26 同。灯籠 |
写真27 同。社殿 |
写真28 同。扁額。拝殿にて |
写真29 境内のリュウキュウエノキ |
写真30 農地跡(島の南部)の小屋 |
写真31 農地跡(島の南部)の道 |
写真32 農地跡(島の中央部) |
写真33 同 |