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◆羽島(はじま)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「萩」(昭和15)を使用したものである

所在:萩市羽島
地形図:越ヶ浜/萩
形態:平坦地に家屋が集まる
標高:約20m
訪問:2022年8月

 

 萩漁港(中小畑)から北西5qほどにある島。萩の六島(ろくとう)諸島を構成する島嶼のひとつ。人家は台地上の南東側に集まっていた。

 市史によると、昭和46年11月25日、当時の8戸44人の全住民が集団移住し無住となったとのこと。
 定期船はなく、自家用の小型動力船で本土との連絡を行っていた。また湧水がなく、雑用水は各戸に水槽を設けて天水を利用し、飲料水は本土から運搬していた。
 電気に関しては、昭和29年自家用小型火力発電機を設置。しかし家庭用に限定され、使用時間も限られ、維持管理費も年々増加していた。昭和41年8月笠山‐羽島間に送電の海底送電線が敷設され、終日の使用が可能となった。通信については、昭和35年7月、学校に極超短波簡易無線電話機を設置したが、学校間の利用が主体であった。昭和36年8月、本土から海底ケーブルを敷設し1回線の共同電話が開通。
 当地にあった学校は、大島(おおしま)小学校羽島分校および大島中学校羽島分校。中学校分校は昭和25年開校。いずれも昭和40年3月31日に閉校。昭和40年4月1日、本土に市立の寄宿舎が開設され(※)、羽島・
尾島櫃島の児童生徒が寄宿。小学生は明倫小学校、中学校は明経中学校に通学することとなった。なおこのような学校寄宿舎は全国でも初のケースとなり、注目を浴びたという。
 宗教施設としては観音堂・羽島大社大明神・大歳明神があったが、大歳明神は運動広場の造成によって取り払われている。
 全戸が葉タバコ栽培により生計を立てていたが、若年層は本土の市街地に就職。高齢化と後継者不足が移住を決意させた。移住に当たり、島民から市に全私有財産の売却を斡旋する申し出があった。島の売却については各地から問い合わせが相次いだが、国定公園の特別保護地域内にあったこともあり、市は県とも協議。同島の自然保護と公共的な活用などが配慮され、県と市が共同で購入した。協議の結果青少年の野営場として利用する計画がまとまり、昭和52年度からテントサイト・炊事棟・給水塔・歩道広場などの整備が進められた。昭和55年度には大型船の接岸のため港湾整備が行われ、昭和56年「羽島大キャンプ場」が完成。さらに昭和56年に羽島の海洋パークセンター整備事業が国の認定を得たのを機に、同年度より島を開発。スポーツ広場・バンガロー・レジャー施設・学習研修施設などを整備。
 元文5(1740)年26戸115人(「地下上申」)、寛政元(1789)年22戸(「浜崎宰判浦嶋石高其外付立一紙」)、文政5(1822)年11戸81人(「浜崎宰判浦嶋石高其外」)、安政2(1855)年9戸93人(「郡中大略」)。

※ ただし建物の完成は6月。浜崎町に建設され、明和寮と命名された。それまでは江向(えむかい)の労働会館と無田ヶ原(むたがはら)の市営住宅を仮の寮とした

 また資料『島嶼部落解体の過程 萩市羽島の場合』によると、葉タバコ栽培以前は麦・甘藷・野菜等の畑作、ほか零細的に磯での漁撈(アワビ・サザエ・ワカメ・テングサの採取)を行っていたという。
 江戸末期には9戸あったが、明治初年に8戸になったとみられる。以後、「羽島八軒」と言われたように戸数は増減なく続いた。昭和45年8戸51人(国勢調査)。
 中学校の開校以降も長らく義務教育を終えると労働に従事していたが、1960年代頃から高等学校に進学を希望する者が現れた。

 「角川」によると、地区としての羽島は戦国期から記録が見られ、江戸期から明治22年までは阿武郡羽島村となる。明治初期に肥島を分村か。明治22年からは六島村の、昭和30年からは萩市の地区名となった。明治16年8戸81人、同24年8戸89人、昭和35年10戸84人、同45年8戸44人。明治12年に戸長役場が字船戸に置かれた。明治18年大島の日進小学校の巡回授業所が置かれ、同20年に簡易小学校となった。

 資料『シマダス』によると、昭和30年89人、同40年46人。キャンプ場は平成7年より閉鎖。

 先述のとおりキャンプ場として整備されたこともあり、港から集落内までは車輛が往来できるほどの道が整備されている。集落内は荒廃が進んでいるが、観音堂や管理棟、バンガローといった建造物、墓地を見ることができた。管理棟とバンガローは、その内部の構造から往時の家屋を転用したものであるよう。またHEYANEKO氏の調査をもとに、学校の門柱も観音堂のそばで確認。かつての農地跡はテントサイトや広場、キャンプファイヤーの用地として整備されていたようだが、草木の繁茂により進入が非常に困難。平成20年の航空写真では道や区画も確認できるが、この頃と比べてもかなり荒廃が進んでいる。

 


写真1 島遠景(南側より撮影)

写真2 船着場

写真3 船着場からの風景。正面は萩方面

写真4 外灯

写真5 船着場と集落を結ぶ道路(カーブの部分より撮影)。下り(左正面)が船着場、上り(右正面)が集落


写真6 船着場からの旧道。集落側より見る


写真7 看板

写真8 名号碑。後方は観音堂

写真9 観音堂

写真10 観音堂前の石仏群

写真11 学校の門柱(対になっている)

写真12 墓地

写真13 同

写真14 バンガロー(2号棟)

写真15 同。裏側

写真16 2号棟にて

写真17 西側の道

写真18 管理棟(1号棟)

写真19 管理棟にて

写真20 同

写真21 ポンプ設備

写真22 貯水タンク

写真23 同?

写真24 車輛

写真25 看板

写真26 テニスコートのネット?

写真27 バンガロー(3号棟)

写真28 3号棟にて

写真29 東側の道

写真30 同。「いこいの広場」方面を望む

 

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