◆羽島(はじま)
所在:萩市羽島
萩漁港(中小畑)から北西5qほどにある島。萩の六島(ろくとう)諸島を構成する島嶼のひとつ。人家は台地上の南東側に集まっていた。 市史によると、昭和46年11月25日、当時の8戸44人の全住民が集団移住し無住となったとのこと。 ※ ただし建物の完成は6月。浜崎町に建設され、明和寮と命名された。それまでは江向(えむかい)の労働会館と無田ヶ原(むたがはら)の市営住宅を仮の寮とした また資料『島嶼部落解体の過程 萩市羽島の場合』によると、葉タバコ栽培以前は麦・甘藷・野菜等の畑作、ほか零細的に磯での漁撈(アワビ・サザエ・ワカメ・テングサの採取)を行っていたという。 「角川」によると、地区としての羽島は戦国期から記録が見られ、江戸期から明治22年までは阿武郡羽島村となる。明治初期に肥島を分村か。明治22年からは六島村の、昭和30年からは萩市の地区名となった。明治16年8戸81人、同24年8戸89人、昭和35年10戸84人、同45年8戸44人。明治12年に戸長役場が字船戸に置かれた。明治18年大島の日進小学校の巡回授業所が置かれ、同20年に簡易小学校となった。 資料『シマダス』によると、昭和30年89人、同40年46人。キャンプ場は平成7年より閉鎖。 先述のとおりキャンプ場として整備されたこともあり、港から集落内までは車輛が往来できるほどの道が整備されている。集落内は荒廃が進んでいるが、観音堂や管理棟、バンガローといった建造物、墓地を見ることができた。管理棟とバンガローは、その内部の構造から往時の家屋を転用したものであるよう。またHEYANEKO氏の調査をもとに、学校の門柱も観音堂のそばで確認。かつての農地跡はテントサイトや広場、キャンプファイヤーの用地として整備されていたようだが、草木の繁茂により進入が非常に困難。平成20年の航空写真では道や区画も確認できるが、この頃と比べてもかなり荒廃が進んでいる。
| |
写真1 島遠景(南側より撮影) |
写真2 船着場 |
写真3 船着場からの風景。正面は萩方面 |
写真4 外灯 |
写真5 船着場と集落を結ぶ道路(カーブの部分より撮影)。下り(左正面)が船着場、上り(右正面)が集落 |
|
写真7 看板 |
写真8 名号碑。後方は観音堂 |
写真9 観音堂 |
写真10 観音堂前の石仏群 |
写真11 学校の門柱(対になっている) |
写真12 墓地 |
写真13 同 |
写真14 バンガロー(2号棟) |
写真15 同。裏側 |
写真16 2号棟にて |
写真17 西側の道 |
写真18 管理棟(1号棟) |
写真19 管理棟にて |
写真20 同 |
写真21 ポンプ設備 |
写真22 貯水タンク |
写真23 同? |
写真24 車輛 |
写真25 看板 |
写真26 テニスコートのネット? |
写真27 バンガロー(3号棟) |
写真28 3号棟にて |
写真29 東側の道 |
写真30 同。「いこいの広場」方面を望む |