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◆尾島(おしま)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「萩」(昭和15)および同地形図「相島」(昭和22.2)を使用したものである

所在:萩市尾島
地形図:通/萩
形態:海沿いに家屋が集まる
標高:約5m(港付近)・約40m(台地)
訪問:2022年8月

 

 萩漁港(中小畑)から北西に10q強にある島。萩の六島(ろくとう)諸島を構成する島嶼のひとつ。人家は南岸の付近にあった。

 市史によると、昭和47年10月、当時の7戸19人の全住民が集団移住し無住となったとのこと。
 元文5(1740)年9戸47人(「地下上申」)、寛政元(1789)年10戸(「浜崎宰判浦嶋石高其外付立一紙」)、文政5(1822)年10戸46人(「浜崎宰判浦嶋石高其外」)、安政2(1855)年9戸74人(「郡中大略」)。
 長らく葉タバコ栽培を中心に生計を立てていたが、若年層の流出に伴う労働力の減少と葉タバコの品質低下により収入が落ち込み、全戸が本土への出稼ぎに転向した。しかし荒天時に帰島できないことや少人数での船の引き揚げ作業が困難であること、船による移動の安全が図れないことなどにより、移住を決意することとなった。
 移住に当たり、島民から市に全私有財産の売却を斡旋する申し出があった。第一希望は県と市による買収であったが、これが困難であったため第二希望の市の斡旋による売却となった。昭和48年8月、審査の末選ばれた買収希望者5社による入札が行われ、大阪府の企業が落札。開発が行われる予定であったが、同社の都合によりいまだ着手されていない。
 電気については、昭和29年、自家用小型火力発電機を設置。しかし家庭用に限定され、使用時間も限られ、維持管理費も年々増加していた。昭和41年8月笠山‐尾島間に送電の海底送電線が敷設され、終日の使用が可能となった。通信に関しては、昭和36年8月、本土から海底ケーブルを敷設し1回線の共同電話が開通した。
 当地にあった学校は、相島(あいしま)小学校尾島分校および相島中学校尾島分校。中学校分校は昭和22年開校。いずれも昭和40年3月31日に閉校。昭和40年4月1日、本土に市立の寄宿舎が開設され(※1)、尾島・
羽島櫃島の児童生徒が寄宿。小学生は明倫小学校、中学校は明経中学校に通学することとなった。なおこのような学校寄宿舎は全国でも初のケースとなり、注目を浴びたという。

※1 ただし建物の完成は6月。浜崎町に建設され、明和寮と命名された。それまでは江向(えむかい)の労働会館と無田ヶ原(むたがはら)の市営住宅を仮の寮とした

 また「角川」によると、地区としての尾島は江戸期から明治22年までの阿武郡尾島村。明治22年からは六島村の、昭和30年からは萩市の地区名となった。明治16年9戸82人、同24年10戸77人、昭和35年10戸87人、同45年7戸32人。明治12年に戸長役場が字西ノ川に置かれた。明治18年大島の日進小学校の巡回授業所が置かれ、同20年に簡易小学校となった。

 資料『シマダス』によると、明治15年9戸82人、昭和30年10戸103人。

 集落は現在草木に覆われ、僅かに人家と学校(※2)の廃屋が残る程度。台地に通じる道はしっかりした幅があり、畑への行き来や作物の運搬に大きく役立っていたことが窺える(ただし港からは入口が非常に分かりづらい)。台地上は広く畑であったが、建物の残骸や神社跡が見られた。境内にある碑は「大歳宮新築之碑」(昭和3年)(写真27)。1970年代の航空写真には台地上にも数棟の建物が見られるが、人家であったかは不明。

※2 HEYANEKO氏の調査により判明

 


写真1 島遠景(南側より撮影)

写真2 船着場

写真3 船揚場?

写真4 電柱

写真5 集落跡


写真6 校舎


写真7 石垣

写真8 煉瓦

写真9 瓦

写真10 廃屋

写真11 遺構。左上は浴槽

写真12 井戸

写真13 建物跡

写真14 貯水設備

写真15 屋敷跡

写真16 台地へ通じる道

写真17 農地跡の石垣(以下台地部分)

写真18 何かの遺構

写真19 何かの遺構

写真20 道

写真21 電柱

写真22 建物跡

写真23 石垣

写真24 建物跡

写真25 神社

写真26 灯籠

写真27 碑

 

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