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◆肥島(ひしま)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「萩」(昭和15)を使用したものである

所在:萩市肥島
地形図:越ヶ浜/萩
形態:平坦地に家屋が集まる
標高:約25m
訪問:2022年8月

 

 萩漁港(中小畑)から北北西およそ6.7qにある島萩の六島(ろくとう)諸島を構成する島嶼のひとつ。人家は台地上の南部付近にあった。
 資料『シマダス』によると、安政6(1859)年に大島(おおしま)からの移住があり耕作が始まったとのこと。古くは「干島」とも。明治15年8世帯38人。その後いったん無住化し、戦後の入植により昭和30年1世帯3人となったが、同35年に無住となった。昭和40年の国勢調査では人口1人を数えたが、3年後には0となっている。また、明治期には簡易小学校も置かれていた。
 また「角川」によると、地区としての肥島は明治初期から同22年までの阿武郡肥島村。
羽島から分村し成立か。明治22年からは六島村の、昭和30年からは萩市の地区名となった。明治16年8戸40人、同22年5戸32人。
明治12年に戸長役場が字船戸に置かれた。明治18年大島の日進小学校の巡回授業所が置かれ、同20年に簡易小学校となった。

 船着場より上陸の予定であったが、座礁のおそれがあるため接岸場所は防波堤の先端に限られた。しかし大きな石を積み重ねた防波堤は中間部分が崩壊しており、島内への進入は叶わず。この時はほぼ干潮時刻であったが、石伝いに崩壊部分を通過することもためらわれた。釣用の下穿きがあれば、潮位や石の位置を見極めた上で通過することが可能かもしれない。
 船着場から集落の様子を伺うことはできないが、付近の岩場に小祠と灯籠のようなものが見られた(写真5)。

 なお離村後である昭和51年の航空写真でも、数棟の家屋や農地、船着場には2隻ほどの船が確認できる。

 


写真1 島遠景(南側より撮影)

写真2 船着場遠景。集落は台地の上

写真3 船着場より集落方面を望む

写真4 防波堤の崩壊部分

写真5 灯籠?(左)と小祠

 

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