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◆中島本町(なかじまほんまち)



※ 明色部(凡その範囲であり、必ずしも正確に表しているものではない)
※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/20,000地形図「廣嶋」(大正6.9)を加工し使用したものである

所在:広島市中区中島町(なかじまちょう)
地形図:広島/広島
形態:三角洲の川沿いに家屋が多数集まる
標高:数m
訪問:2022年11月

 

 中島町の最北部。旧太田(おおた)川(=本(ほん)川)と元安(もとやす)川の分流部に当たる。第二次世界大戦末期の昭和20年8月6日、米軍による広島市への原子爆弾投下により潰滅した。
 全域が現在の平和記念公園内で、概ね北は相生(あいおい)橋、南西は本川橋、南東は国立広島原爆死没者追悼平和祈念館付近に当たる。

 中国新聞社による「平和記念公園(爆心地)街並み復元図」(※)によると、慈仙寺・浄法寺といった2軒の寺院のほか、中島国民学校分教場、銀行、保険会社の支社、医院(小児科・歯科・外科の7軒)などがあり、川沿いを中心に旅館が多いのも特徴的。本川橋の袂には派出所もある。中島町随一の繁華街であったようで、東西に通じる大通り(中島本通り)沿いには多数の商店が立ち並び、食堂も多い。映画館(高千穂館)や劇場(交楽座。もと世界館・昭和シネマ)も見られ、非常に賑わっていたことが窺える。

※ 昭和20年8月6日の爆心地の街並みを、平成9年5月から旧住民や遺族の協力を得て、居住および建物強制疎開(立ち退き)、移転を直接に確認した世帯・事務所を復元したもの

 かつての町があった区域には、現在はレストハウス(観光案内所・売店)や、原爆供養塔・韓国人原爆犠牲者慰霊碑・平和乃観音像・原爆の子の像といったモニュメントがあり、平和の池・平和の灯もこの町域にある(原爆死没者慰霊碑は材木町)。
 
うち元保橋の西詰付近にあるレストハウスは、現地の説明板や公式サイトによると、元は大正屋呉服店の店舗として建てられたものであったという(昭和4年完成)。昭和19年県燃料配給統制組合に買収され、建物は「燃料会館」となる。原爆投下時には地下室にいた1名が生き残り、爆心地付近では奇跡的な生存者となった。燃料会館は戦後も継続。昭和32年には広島市東部復興事務所となり、都市の復興の拠点となる。昭和57年からレストハウスとして利用され、令和2年リニューアル。
 平和乃観音像の脇には「中島本町原爆死没者芳名」として438人の犠牲者が記されている(うち8名は下の名が不詳)。
 中島本通りの道筋であった元保橋と本川橋は、現在も同じ位置に架かっている。元保橋の解説によると、現在の橋にも被爆した親柱と中柱を用いて、当時の姿を再現したデザインであるという。
 以下は町の跡地にある説明板より。


町名由来
 この界わいは元安川と本川にはさまれた中にあったことから、中島と呼ばれ、また、三角州の北側は、中島の本通りであったことから、中島本町という町名になったと言われています。元安橋から猫屋橋(現在の「本川橋」)に至る西国街道沿いの町で、広島築城当初から開けた町人町でした。
 *西国街道とは、江戸時代の山陽道(京都〜下関)の呼び名です。当時の人、物、文化の交流をつかさどる陸上交通の大動脈でした。

町の様子(大正末期〜昭和初期頃)
 江戸時代から豪商でにぎわった中島本町は、大正初期にかけて、広島の繁華街でした。
 西国街道にあたる「中島本通り」商店街には、銀行、呉服店、写真館などの大きな店舗が並び、北側に勧商場、南側に集産場がありました。明治末には、広島で初の常設活動写真館(映画館」が開館するなど、この界わいは新しい文化の入口でもありました。
 大正時代になると「中島本通り」にスズラン灯が設置され、街にはモダンな零囲気が漂っていました。
 また、中島本町の特徴となっていたのは、町の北端に架けられたT字型の相生橋で、市の中心部にあったため原爆投下の目標になりました。
 大正元年(1912年)、市内電車の開通を機に広島のにぎわいの中心は、中島本町から次第に東の新点地や八丁堀へと移っていきました。
 *勧商場・集産場:多くの商店が一つの建物の中で様々な商品を陳列・販売したところ

被爆・その後
 昭和20年(1945年)8月6日の原爆投下により、中島本町は壊滅し、投下時刻に町内にいた住民は、全員が死亡しましたが、燃料会館(現在のレストハウス)に出勤し、たまたま地下室にいた1人のみが爆心直下の中島地区(現在の平和記念公園一帯)における奇跡的な生存者者(1982年死亡)でした。
 当時、中島本町に居住していたことが確認できたのは435人で、昭和20(1945年)末までに、352人が亡くなられたことがわかっています。


 市史で引用する『知新集』(文政5〔1822〕年完成の地誌)によると、当時家数104、人数417。本道医6人、鍼医2人、印刷師1人、櫛笄継鏡磨2人、塗師3人、傘細工1人。旧家・名家として藤井豹右衛門・伊予屋清右衛門・対馬屋正次郎・漆屋三郎兵衛・吉田屋新右衛門・印判屋半之丞・備中屋助左衛門が挙げられている。

 


写真1 対岸(本川)より旧街区北端を望む(左は相生橋)

(写真2 旧相生橋碑。相生橋の東詰にある)

写真3 対岸(元保川)より旧街区北端を望む(中央はレストハウス)

写真4 元保橋の中柱と解説

写真5 往時の元保橋(写真4より。左は燃料会館〔現レストハウス〕)

写真6 レストハウス(旧燃料会館)

写真7 レストハウスの解説。左は被爆直後(燃料会館当時)、右は呉服店当時

写真8 中島本町説明板

写真9 浄法寺跡付近

写真10 慈仙寺跡付近(中央やや左は韓国人原爆犠牲者慰霊碑)

写真11 被爆した慈仙寺跡の墓石。広島藩浅野家御年寄・岡本宮内のもの

写真12 原爆供養塔

写真13 平和乃観音像と復元地図・中島本町原爆死没者芳名

写真14 原爆の子の像

写真15 被爆直後の写真。元保橋や燃料会館が見える(平和記念資料館にて)

写真16 「整地が進む平和記念公園」の写真。左後方に相生橋、右後方に広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)が見える(平和記念資料館にて)

 

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