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◆柿垣内(かきがいと)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「江住」(大正5.1)を使用したものである

在:すさみ町大附(おおつき)
地形図:江住/江住
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約300m
訪問:2014年1月・2016年2月

 

 大字大附の北部、宮城(みやしろ)川および支流の槇尾(まきお)谷沿いにある。かつては独立した大字であったようだが、現在は大附に包括されている。
 城(じょう)川から支流の矢ヶ(やが)谷に入り、
矢野口矢ヶ谷を経由、峠を越えるルートが訪問しやすいが、林道が工事中であったため佐本(さもと)方面から宮城川林道を伝い訪問。中ノ郷(なかのごう)谷の東を南北に走る尾根が現在の大附・佐本西栗垣内(―にしくりがいと)の境界になっており、ここから西側が柿垣内地内と思われる。
 このうち中ノ郷(なかのごう)谷との合流部・槇尾谷との合流部(地図画像右上)、および「下」を探索。このとき手持ちの古い地形図(江住・昭和24年)には「柿垣内」と記載のある部分がなかったため、こちらは未訪問。
 中ノ郷橋の付近では、道上に何かの跡地が見られたが人家ではないよう(写真1)。槇尾谷との合流部には「みやしろくちはし」(宮城口橋の意か。写真2)が架かり、槇尾谷左岸に屋敷跡1箇所と川沿いの農地跡を確認。右岸には小さなピークがありなだらかな傾斜地になっているが(写真5)、ピークの脇に古い礎石のようなものが見られたのみ。畑の跡であったとも考えられる。「下」では明確な屋敷跡が1箇所確認でき、生活道具もいくらか散見された。周囲には農地跡が広がる。
 なお大字柿垣内は近世の牟婁郡柿垣内村。明治22年、大都河村(のちすさみ町)の大字となる。江戸期の「続風土記」には13戸56人、明治6年9戸43人、同24年13戸57人。神社に諏訪社・明神社があった。明治末期には離村する者が多く、大正初期には無住となった。川沿いの山林の中に屋敷跡が残る(角川)。

 2016年、改めて「柿垣内」の表記がある部分を訪問。矢ヶ谷より峠を越えた場所で2箇所ほどの屋敷跡と広い農地跡があり、さらに本流を下って左岸に屋敷跡1箇所と墓、右岸に屋敷跡と思われる平坦地を確認。
 帰路に林道より上にある古い道筋を歩くと、
矢ヶ谷との境界で「大日如來」と記された碑および「奉納 金刀比羅神社」とある石柱(いずれも元号は嘉永)が見られた。この場所は峠の四つ辻で、道はそれぞれ矢野口・市鹿野(いちかの)・小附(こつき)・柿垣内を経て各方面へ通じており、交通の要所であったことが窺える。なお「大日如來」の裏側には「柿垣内上村 矢ヶ谷村」とあり、地図画像の「下」(下村)に対し「柿垣内」の表記がある部分が「上」(上村)であったと思われる。

 


写真1 中ノ郷橋付近の平坦地(以下2014年撮影)


写真2 「みやしろくちはし」


写真3 槇尾谷左岸屋敷跡の石垣


写真4 写真3屋敷跡


写真5 平坦地


写真6 下村にて。農地跡


写真7 同。屋敷跡

写真8 農地跡(以下2016年撮影)

写真9 屋敷跡?

写真10 写真9にて。茶碗

写真11 屋敷跡?

写真12 階段状の道

写真13 川と農地跡

写真14 林道より左岸を望む

写真15 写真14にて。屋敷跡

写真16 同。墓。「天明元年」とある


写真17 屋敷跡?


写真18 炭焼き窯跡

 

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